伝統はどれくらい変わってよいのか?
対談の3回目は、小倉ヒラクさんが前回までの話を振り返るところから始まります。ヒラクさんは、荒木さんの「小文字の伝統という前提はあまり共有されていない」という指摘に深くうなずきます。
荒木さんの指摘は、伝統と聞くと多くの人が「守るもの」「権威あるもの」を思い浮かべてしまう、という現状についてでした。ヒラクさん自身、その状況があるからこそ今回の本を書いたと話しています。
伝統っていうとわかりやすく、守るみたいな、権威性みたいな方に傾いちゃう現状はあるよねっていう指摘も、ほんとそう思うし。まあそうだから僕この本を書いたんだけど。
ヒラクさんがもう一つ面白がったのは、渡邉さんが前回話した「3パーセントルール」です。コラボの服で3パーセントだけ変え、97パーセントは変えない。3パーセント以上変えると、元のブランドがわからなくなってしまうという話でした。
ヒラクさんはこの話を人間のDNAに重ねます。遺伝子はごくわずかに変わるだけで別の生き物になってしまうため、伝統の創造性もそれくらい小さな差の中にあるのではないか、という実感を語っています。
それぐらいの超ちっちゃな差、零点何パーセントかツーパーセントの差みたいなところのクリエイティビティの話をしてるんだろうなっていう実感があります。
大文字の伝統と小文字の伝統、前回の論点をおさらい
渡邉さんは、ここで前回の議論を振り返ります。出発点は、荒木さんがヒラクさんの本から受け取った「我々はそもそも伝統をちゃんと引き継げない」という前提でした。人は一人ひとり違う生き方をしているので、引き継ごうとしても自然にずれていきます。
ヒラクさんはこの本を「生命とは何か」という問いを扱う本でもあると説明していました。生命を結果と見るか、プロセスと見るかで、伝統の捉え方も変わります。
文字に記録され、お上が決めるような伝統。生命を結果と見るプラトン的な立場で、変えずに守り、俯瞰しコントロールできると考える
人々の連なりとして続く伝統。アリストテレス的な立場で、プロセスの中で合意形成し、伝える行為そのものを大事にする
渡邉さんはこの整理を受けて、伝統は意図して変えるものではなく、プロセスの中でいつの間にか変わっていくものだと述べます。模倣の失敗によって、やむにやまれず変わっていくという見方です。
渡邉さんによれば、この構図は伝統だけでなく、創作や加工食品づくり、ものづくり全般にも当てはまるかもしれません。そのうえで「大文字化」とは、自然に生まれる変化を一つの方向にそろえようとする力なのではないか、と言い直しています。
渡邉さんは前回出たトロンボーンの事例にも触れます。ヒラクさんは「トロンボーンは神の顕現である」という言葉を引き、3本でハーモニーを吹き、無段階だからその場で音を合わせられると話していました。渡邉さんは、人の声の音域に近いことや倍音の響きも大事だったのではないかと付け加えています。
3パーセントの変化が5回続いたら?
荒木さんは「3パーセント」という言葉に刺激を受けます。100パーセントを再現しようとしても、実際には99パーセントや80パーセントになってしまう。私たちはその差を見て「変わりすぎ」「伝統を守っている」と評価しますが、どちらにしても変わっていることに変わりはない、と荒木さんは話します。
仮にじゃあ3パー変わってるっていうことを良しとするならば、3パーのバトンリレーが5回ぐらい続くと、もうすごい変わってるんだよね、多分ね。
荒木さんが例に挙げたのは日本語です。若者言葉が「崩れている」と言われることがありますが、荒木さんはそれを日本語という枠の中での変化の遊びだと見ています。
女子高生が新しい言葉で言っているみたいなことも、99パーは伝わってるからこそ、1パーで遊べるみたいな感覚あったりする。
荒木さんによれば、その1パーセントの遊びが何度も重なると、明治の日本語と令和の日本語のように、もはや本としては読めないほどの違いになります。問題は、どこまでずれを許すか、つまり98パーセントを受け止めるべきか、5パーセントほど遊びがあるべきかという程度の話なのかもしれない、と荒木さんは整理しています。
1パーセントの遊び
99パーセントが伝わるからこそ、若者言葉のような小さな変化が生まれる
バトンリレー
3パーセントの変化が5回ほど受け継がれる
別物になる
明治の日本語のように、令和の人には本として読めないほど変わる
味噌は並べると3パーセントの違いが見える
渡邉さんは、ヒラクさんのお店「発酵デパートメント」に並ぶ日本各地の味噌を例に出します。どれも同じ味噌で、仮に97パーセントが共通していても、甲州味噌と信州味噌を食べ比べると違いははっきりわかります。
渡邉さんが注目したのは、並べて比べることで初めて差分が見えてくるという点です。さらに、自分で手前味噌を仕込むと、同じレシピのはずなのに年や人によって味が変わります。
場所やタイミング、作る人によって、3パーセントの違いは勝手に生まれてしまう。渡邉さんは、自分で作るプロセスを通じて、その違いがより体感できるようになるのではないかと話しています。
人間は意識か、現象か?
ヒラクさんは、前回荒木さんの問いにうまく答えられなかったと切り出し、「生命とは何か」という問いの答えは人気投票に近いと語ります。多数派は「人間は意識である」という考え方で、プラトンからハイデガーまで続き、突き詰めるとAIに行き着くといいます。
ヒラクさんによれば、「人間は意識である」という考え方の強みは、意識の中に世界のすべてを入れられることです。だからこそ賛同を得やすい考え方なのだとヒラクさんは見ています。
人間が意識だっていうのは、世界に対する究極のマウントなんですよ。意識なければ世界全部なくなるだろうみたいな。
一方で少数派として、人間を「現象」と見る立場もあります。ヒラクさんが挙げたのはフランシスコ・ヴァレラ ── チリ出身の生物学者・神経科学者。生命を自ら自分を作り続けるシステムとして捉える「オートポイエーシス」の提唱者の一人として知られますで、ヴァレラは意識を副次的なものにすぎないとまで相対化しました。
ただしヒラクさんは、意識を相対化すると人間はバクテリアと同じになってしまい、「人間のプライドをどうするのか」という話になるとも指摘しています。
プラトンからハイデガーへ続く系譜。意識の中に世界のすべてを入れられ、賛同を得やすい。突き詰めるとAIに行き着く
フランシスコ・ヴァレラに代表される。意識は副次的なものにすぎず、人間も菌と同じような現象として捉える
発酵に向き合うには意識を手放す
ヒラクさんは、発酵に関わる自分は「完璧にヴァレラ」だと言います。意識をいったん手放さないと、発酵の一番面白いところが入ってこないからです。
僕も東京でデザイナーやってた時、多分意識派だった。やっぱり発酵のことやると、自分の意識とか、自分の主体性とか自由意志みたいな、適度に手放していかなきゃいけないんですよね。
ヒラクさんによれば、意識を適度に手放さないと「美味しいとは何か」もわからなくなってしまいます。その手放す訓練をしてきたことが、結果的に今回の本を書かせたのだと振り返っています。
さらにヒラクさんは、渡邉さんの「3パーセント」の話を意識の問題にも当てはめます。現代人が意識の生き物であることを捨てるのはほぼ無理なので、97パーセントハイデガーで3パーセントヴァレラくらいが、現代日本ではいいスタンスではないかと提案しています。
東京でデザイナーをしていた頃は意識派で、ハイデガー寄りの考え方だった
発酵に関わるようになり、意識や主体性、自由意志を適度に手放す訓練をしてきた
大文字の中から数パーセントの小文字を拾う
ヒラクさんは、大文字の伝統と小文字の伝統は「100パーセントどちらかに決める」話ではないと言います。こうしたデュアルな考え方は誰かに禁止されているわけではないので、実際に持つことができます。
大文字に見えるものの中から数パーセントの小文字を拾ってくださいねっていう提言なのかもしれないって思い始めた。
パーセントの取り合いはまた新たな争いを生むだけなので、きっとそういうことじゃないんだろうという。
荒木さんはこれを受けて、97パーセント大文字で3パーセント小文字の人を「大文字の人」と呼ぶか「小文字の人」と呼ぶかというラベリング自体が、ナンセンスなのかもしれないと応じます。
荒木さんによれば、その人がまた誰かに伝えれば割合はさらに変わり、伝承は変わり続けていきます。だから、何パーセントであれ変化の余地を持っておくことが大事であり、そもそも生き物としてそうなってしまうものだ、と荒木さんは話しています。
マニュアルをやめた発酵デパートメント
ここでヒラクさんは、自身のお店「発酵デパートメント」の話を始めます。小さな店から始まり、スタッフが増え、2号店やポップアップの依頼も来るようになりました。
新しいスタッフが増えると、引き継ぎで混乱しないようにマニュアルを作って仕事を標準化しようという話になります。発酵デパートメントでも一度はマニュアルを作り始めましたが、話し合いの結果、マニュアルづくりをやめたといいます。
マニュアルの代わりに残したのは、2つだけでした。お店がなぜ存在し、どんな経緯でできたのかという物語と、テロリストが乱入したら、地震が起きたらといった超具体的な緊急事態への対応です。
お店の存在理由と成り立ちを伝える物語、超具体的な緊急事態マニュアル
その間にある日々の仕事のやり方。標準化しすぎず、それぞれの現場の裁量に任せる
ヒラクさんは、お店の運営自体が小文字の伝統のような形になってきたと話します。現場ごとにやり方や心持ちは少しずつ違っても、共通して流れている何かをどう定めるかという問いが出てきました。
20パーセントこれが残っていれば、80パーセント全部変わってもそれだと一応わかるみたいな。最小構成要素をどうやって考えるかみたいな議論になってるなって思う。
ハイデガーから民藝へ、倉田さんの「小文字読み」
ヒラクさんは、前回話した哲学者の倉田たかし倉田たかしさんの話につなげます。倉田さんは京都の本屋のワゴンセールでハイデガーの本を見つけ、思想的な系譜をよく知らないまま読んだといいます。
ヒラクさんによれば、普通はハイデガーを系譜の中で読むか、存在や死といった大きなテーマから読みます。ところが倉田さんの目に入ったのは、サブテーマの一つである「道具」でした。
倉田さんは、道具を扱うハイデガーに共感し、そこから民藝へと向かいました。ヒラクさんは、受け継がれる変わらないものにも小文字の読みと大文字の読みがあり、倉田さんはハイデガーを「小文字読み」したことで独自の個性を得た、と捉えています。
ヒラクさんは、この話を発酵デパートメントに重ねます。標準化をやめて物語だけを残した組織からも、倉田さんのように書いた人の意図とまったく違う読み方をする人が出てくるかもしれません。
そこからもしかしたらその組織の変革みたいなのがまた始まっていくんじゃないかなとかっていうのを聞いて今考えてました。
テセウスの船とマンチェスター・ユナイテッド
渡邉さんは、何パーセントかという分量そのものはそれほど大事ではないかもしれないと述べ、テセウスの船 ── 船の部品を少しずつ交換し続け、最後にすべてが入れ替わったとき、それは元の船と同じと言えるのかを問う古代ギリシャ由来のパラドックスですのパラドックスを持ち出します。
部品がすべて入れ替わった船は、物理的には元の船ではありません。それでも、たどってきた歴史や役割は概念的には途切れずにリレーされている、と渡邉さんは説明します。
渡邉さんによれば、人間の身体も同じで、細胞も心も入れ替わりながら同じ人であり続けます。渡邉さんはこれを日本の無常観、「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」にもつなげ、流れが存在を定義するなら水分子そのものにこだわらない考え方になると話しています。
ヒラクさんの本に出てくる例として、渡邉さんはマンチェスター・ユナイテッドにも触れます。100年続くサッカーチームですが、監督もファンもオーナーも選手もすべて入れ替わり、ファンの過半数は海外にいます。
では、マンチェスター・ユナイテッドの主体とは何なのか。渡邉さんは、流れそのものが継続性を担保しているという見方は、プロセスに目を向けるという生命のメタファーに戻ってくると述べています。
伝統は間違えてほしい
渡邉さんは倉田さんの話に戻り、誰かが部分的に読み替えたり、他の人と違うところに注目したりすることは必ず起こると話します。一つの映画を見ても、みんなで感想を言い合えば、注目するところは基本的にずれていきます。
そこでヒラクさんが口にしたのが、この回の核心ともいえる言葉です。
渡邉さんも、以前に自分の本で「誤読」について書いたと応じ、間違えることの面白さは絶対にあると同意します。
ヒラクさんによれば、真剣にやるほど自分に引きつけすぎて、既存の正解が目に入らなくなり、謎の読みが生まれる瞬間があります。今の「考察」が強い風潮ではそれは勘違いとされがちですが、ヒラクさんはそこにクリエイティビティの源泉を見ています。
ヒラクさんが例に挙げたのは、前回までに話題にした漫画『昭和元禄落語心中』です。登場人物が正しい読みをしない、大文字の読みを求めないところに創造性があると話しています。
生命は閾値の中で踏みとどまる
荒木さんは、エラーを前提にした継承こそが生命だと応じます。ヒラクさんはさらに、変異が閾値を越えすぎると生命は死んでしまうが、生命はどこかで閾値の範囲内に落ち着こうとするのだと説明します。
ヒラクさんにとって大事なのは、どれだけ挑戦しても、遺伝子が崩壊する一歩手前で踏みとどまれると信じられるかどうかです。歴史を見ると、どんなに無謀な挑戦や馬鹿馬鹿しい動機でも、世界のほうが受け止めてくれるという信頼感があるといいます。
僕はなんかその生命の間違いを前提としたアーキテクチャできているみたいなものに乗っかって、何かを挑戦していったり、失敗していったりした方がいいんだと思っていて。
ヒラクさんは、この考え方を新しい技術によるイノベーションだけでなく、長く続く伝統の領域にも持ち込んでほしいと話します。伝統にも、間違えることを楽しむ気持ちで向き合う人が増えてほしい、というのがヒラクさんの願いです。
次回への問い:生き残るものはいいものか?
最後に荒木さんは、新たな問いが浮かんだと切り出します。生命は変異と適応で語られ、変異ではたくさんのエラーが起きますが、適応できるものはわずかです。
問いは、生き残るものはいいものなのかっていう問いなんだけどね。そこに価値判断ってあるのかしらって思って。
伝統も同じように、さまざまな変異が起きた結果、わずかなものだけが残ります。では残っている伝統はいいものなのか。荒木さんのこの問いを、最終回となる次回で掘り下げることになりました。
まとめ
今回の対談では、伝統を「守るもの」ではなく、わずかな変化と誤読を重ねながら続いていくプロセスとして捉え直しました。3パーセントの変化、マニュアルをやめたお店、ハイデガーを道具から読んだ哲学者、テセウスの船といった具体例を通じて、エラーを前提にした継承の面白さが浮かび上がっています。
- 97パーセントを残して3パーセントだけ変える小さな差に、伝統の創造性があるという見方が示された
- 小さな変化も積み重なれば、明治と令和の日本語のように別物になっていく
- 大文字か小文字かを選ぶのではなく、大文字に見えるものから数パーセントの小文字を拾うという提案がなされた
- 発酵デパートメントはマニュアルをやめ、物語と緊急事態対応だけを残して現場に任せる運営を選んだ
- ヒラクさんは、誤読やエラーを前提とした伝統の継承こそが健全だと考え始めている




