生き残ったものは「良いもの」なのか?
小倉ヒラクさんを迎えた対談の最終回は、渡邉康太郎さんによる前回の振り返りから始まります。前回は、わずか3%の変化でも大きな変化として認識されるのではないかという仮説や、発酵デパートメントに並ぶ味噌を比べると3%の違いが際立つ、といった話が出ていました。
前回はさらに、ヒラクさんの生命観にも話が及んでいます。生命を「意識」とみる多数派と「現象」とみる少数派があり、東京でデザイナーをしていた頃のヒラクさんは前者、発酵に関わるうちに後者へ傾いたといいます。
渡邉さんは、ヒラクさんの本が「書いた」のではなく「書かせられた」ものだという感覚を面白がります。そのうえで、テセウスの船 ── 船の部品を少しずつすべて取り替えたとき、それは元の船と同じと言えるのかを問う古代ギリシャ由来の思考実験ですやマンチェスター・ユナイテッドの選手の入れ替わり、哲学者の倉田さんによるハイデガーの「誤読」から創造性が生まれた例など、エラーを前提とした伝承の話を振り返りました。
その流れで荒木博行さんが投げかけたのが、「生き残るものは良いものなのか」という問いです。生命は変異と適応を繰り返し、残るものはわずかですが、伝統も同じだとすると、残ったものに価値判断はあるのかという疑問です。
生き残ったものを伝統と呼び、その伝統だからいいものだというふうに、なんとなく無条件で思っちゃう僕がいるんだけれども、そこに本来生命としての価値判断ってないはずなんだよね。
単にその環境に矛盾しなかったから、偶然にそれ(伝統)が生き残ったのであるとしかないはずなんだけれども、僕らはそこにエモさを求めてしまったり、ナラティブをくっつけたりして。
荒木さんは、答えがあるわけではないと前置きしつつ、生命論的に考えたときに浮かんだこの疑問をヒラクさんにぶつけました。
プラトンかアリストテレスか、伝統をめぐる古くからの論争
荒木さんの問いに対し、ヒラクさんは「これはプラトンなのかアリストテレスなのかの話だ」と応じます。続いてきたこと自体に価値を認めるかどうかで、立場が分かれるという整理です。
続いてきたのは惰性にすぎず、そこに価値はない。だからイデアを目指すべきだと考える
時間をかけて積み上がってきたものには何らかの合理性や意味があり、尊重すべきだと考える
適応してきたとか生き延びてきたみたいなプロセスっていうものに対しての価値付けをもし与えないのであれば、伝統っていらない。
ヒラクさんは、この問いが自著の最初の問いに戻ってくる感覚があって嬉しかったと話します。そして歴史上、プロセスやナラティブを全面的に否定した文明として旧ソ連を挙げました。
旧ソ連はエビデンスのあるアウトカム以外を排除し、伝統を全否定したといいます。これに対して経済学者のハイエク ── フリードリヒ・ハイエク。20世紀のオーストリア出身の経済学者で、自由主義経済の代表的な論者です。計画経済への批判で知られますは、因習や伝統を否定するのは愚かなことで、時間をかけて積み上がったものから人類は学ぶのだと述べた、とヒラクさんは紹介します。
誰もジャッジできないなら、プロセスを見るしかない
ヒラクさん自身の立場は、超越的な視点から価値を判定する主体を置かない考え方です。長く続いてきたものの価値を総合的に裁ける存在はいない、という前提に立っています。
その価値判断はジャッジできないから、結局参照にするものってプロセスしかないんですよね。
だとすると、長く続いてきたものにはちゃんと価値があるんじゃないかっていう前提で見る。
荒木さんは「善悪という価値判断ではなく、プロセスそのものを尊ぶ感じか」と確認します。ヒラクさんは、普遍的ではないものの、何百年という時代の流れの中での合理性は必ずあり、続いてきた理由があるから肯定的に見たほうがいい、と答えました。
「適者」は優れた者ではなく、たまたまフィットした者
渡邉さんは生物学の適者生存 ── 英語のsurvival of the fittestの訳。環境に最も適合した個体が生き残り子孫を残すという進化論の考え方ですに立ち返って整理します。fittestは「優れている」ではなく「最もフィットした」という意味で、環境が変われば次の適者も変わるといいます。
今日の適者は明日の不適者である可能性が常に残るっていうことだと思うんだよね。
渡邉さんは、ヒラクさんの本に書かれた甲州味噌の例を挙げます。盆地で貧しく洪水リスクもあったという環境にフィットした結果として味噌が生まれたのであり、すぐに「優れた日本人の知恵」とは言えない、という書き方だといいます。ジョージアのクヴェヴリ ── ジョージアの伝統的なワイン醸造に使われる素焼きの大きな壺。地中に埋めて発酵・熟成させる製法はユネスコ無形文化遺産にも登録されていますの製法も同じ構図だと指摘しました。
そのうえで渡邉さんは、生物進化の比喩を伝統にそのまま当てはめる危うさにも触れます。進化には目的がなく、伝統も「残ったから正しい」「消えたから価値がない」とは言えないという整理です。ヒラクさんも、価値判断はどの立場から見るかで条件が変わると応じ、荒木さんは「絶対善ではないってことだよね」とまとめました。
面倒な甲州味噌が、ふたたび「フィッテスト」になる日
ヒラクさんが大事にしているのは、自分の側の視点で裁くのではなく、「なぜ甲州味噌はこんなに面倒なのに残っているのか」と問うことです。調べると、山梨には平地がないからそうなった、と腑に落ちるといいます。
甲州味噌は米と麦を使う味噌です。米をタイから運べる時代なら甲州味噌を作る必要はない、という発想はソ連的にプロセスを否定する考え方だとヒラクさんは言います。
時代の情勢変わると、おや、米手に入んねえぞみたいな話になった時に、山梨のお味噌半分麦か、みたいな。
米も何でも運べるグローバルな供給網のもとでは、手間のかかる甲州味噌を作る必要はないように見える
米が手に入りにくくなるなど情勢が変わると、半分が麦の甲州味噌が再び時代にフィットしてくる
ヒラクさんは、いま当たり前で無意識に善だと思っている環境が、整ったグローバルサプライや比較的平和な状態の上に成り立っていると指摘します。それが崩れたとき、ローカルにフィットした合理性がカムバックしてくる可能性があると考えています。
自然淘汰に任せず「残したい」と選ぶ意思
渡邉さんは別の観点を加えます。価値判断とは「良いものと認定する」ことだけでなく、「これを残したい」という意思を持つことでもあるのではないか、という提案です。
例として挙がったのは、ヒラクさんが松浦漬けに心を動かされた話です。品評会の受賞歴ではなく、その缶詰に鯨漁の数百年の記憶が詰まっていると感じたことが応援したい気持ちにつながった、と渡邉さんは振り返ります。
渡邉さんは、柳宗悦 ── 民藝運動を提唱した思想家。無名の職人が作った日用品に美を見いだし、その価値を広めましたが無名の人の作った雑器を選んだことや、ヒラクさんが発酵デパートメントに日本中の品を並べて世界に紹介していることも、人為的な選択だと位置づけます。市場原理に任せると消えてしまうものに一手間加え、選択肢を残すアプローチです。
自然淘汰だけに任せない、自分の意思で何か残したいものを選ぶっていうのが、一つアプローチなのかなと思いながら聞いてました。
木桶ブームは、ひとりの「やりたい」から始まった
ヒラクさんは渡邉さんの見方に同意します。ダーウィンまでの生物学は生物に意思がない前提で組み立てられていますが、人間には意思があり、それと環境の相互作用で社会的な事象が起こるため、伝統は生物進化と似ていながら違うといいます。
その実例が、本でも取り上げた巨大な木桶の話です。香川県の山六醤油で最後の桶職人がいなくなったとき、木桶を直す技術を継いだ人が現れ、周りの大工も「俺もやりたい」と加わり、各地の蔵に広がる大きなムーブメントになったといいます。
時代の要請っていうよりは、たまたまそれをやりたいって思った個人がいたら、時代の流れが変わったっていうことがあって。
職人の不在
香川県の山六醤油で、最後に残っていた桶職人がいなくなる
継ぐ人の登場
木桶を直す技術を継ぐ人が現れる
周囲の参加
周りの大工たちも「俺もやりたい」と加わる
ムーブメント
「俺の蔵も」と各地に広がり、大きな流れになる
荒木さんは、ビジネスでも生命論をメタファーにすることは多いものの、事業を担う人の意思は生命論に含まれないため、そこで間違いやすいと指摘しました。ヒラクさんも、前著では発酵という現象を書いたため主体論を入れなかったが、今回の伝統の本は人間が主役なので、人間の意思と主体を大事にしたいと語ります。
問いへの答え、とらやの「1日の暦」の和菓子
荒木さんは、ここで自分の問いに答えが出たと整理します。生命論のメタファーでは善悪はなく、たまたま適したものが残るだけです。しかし伝統の文脈では人間が介在し、特定の個人が「良いから残したい」と願う余地が十分にある、という結論でした。
最初の問いに戻り、渡邉さんはデザイナーとしての経験を語ります。とらやの方々と「未来の和菓子」を形にした仕事で、1年の暦になっている和菓子を、1日の暦に置き換えたといいます。
渡邉さんが手がけたのは、朝起きてから夜寝るまで、その時間帯に必要な栄養素をとる機能食品としての和菓子です。1年を1日に、嗜好品を機能食品に、と大きくひねりましたが、職人の確かな手と経験によって、素材や仕上げはどこまでもとらやの美しい和菓子だったそうです。
とらやの職人の手と経験による素材と仕上げで、伝統的なものとして捉えられる
1日の暦、機能食品、パッケージや体験まで含めると、もはや違うものに見えてくる
共鳴の種類は新しさでなくても良い。懐古でももしかしたら良くて。ただそれはもういつの間にか新しくなってしまうっていうことなのかな。
渡邉さんは、新しいものを作りたい人がいてもいいし、タランティーノの映画が好きだからオマージュをやりたいだけ、という動機もいいと考えています。荒木さんは、どの角度から見るかで伝統にも新しいものにも見える点が大事だと応じ、ズレながらバトンをつなぐ行為そのものが伝統だという見方を示しました。
手前味噌で誰でも「小文字の継承者」になれる
ヒラクさんの本は「あなたも小文字の継承者になろう」という呼びかけで締めくくられています。大文字の伝統の継承者はきつくても、究極的には手前味噌を作ればOKで、誰でも参画できる伝統がいいとヒラクさんは話します。
ヒラクさんの仕事の原点は、16〜17年ほど前に給食センターのおばちゃんたちと味噌を作り始めたことです。それから何百回も味噌作りをしてきましたが、最近は海外で海外の人と作ることもあり、「意味がわからない状態」になっているといいます。
これ見たことない作物なんだけど、これ何?みたいなのを持ってきて、この(豆を)味噌にするんだみたいなこと言って。味噌とは?みたいになるんですよね。
ヒラクさんはそれを間違いとは言いません。手前味噌という伝統が、遠く離れた場所にその土地にフィットした形で受け渡されたと捉え、味が違っても「僕たちは味噌友」でいい、と語ります。
来歴の違う人たちが一緒に手前味噌を作れば、アウトプットはずれていきます。ヒラクさんは、ズレを面白がれたら伝統はもっと継承されやすくなると考え、それが社会的なエンパワーメントになるのではないかと、本への大量の感想を受けて思い始めたそうです。
カリフォルニアロールは温故知新だった
渡邉さんが「カリフォルニアロールを喜んでいこうってことかな」と返すと、ヒラクさんは裏巻きの話を始めます。寿司の巻き方には、海苔が外に出る表巻きと、米が外に出る裏巻きがあるといいます。
カリフォルニアロールはなんか映えを気にするあまり、一度滅びかけた裏巻きっていう伝統をもう一回リバイバルさせてるみたいなところがあって。
ヒラクさんは、新しく見えて実は温故知新をしているカリフォルニアロールのような「読み違え」にクリエイティビティを感じるといいます。だからこそ、渡邉さんの著書『生きるための表現手引き』に感動したのだろうと振り返りました。
渡邉さんも、二人の本が根本でつながっていると応じます。渡邉さんの本にある「人が生きる意味があるとするならば、それは他者の記憶の器になることである」という考えは、まさに何かを継承していくことであり、ものを作ることも自分の記憶を後世に預けることになる、と語りました。
対談の最後には、ヒラクさんが普段は小売や技術的な仕事が多いため、こうした自由なおしゃべりは日々の潤いだと話します。続編の構想や研究会の再開、群馬への誘いなどに話が弾み、全4回の対談は幕を閉じました。
まとめ
「生き残ったものは良いものなのか」という問いに対し、対談は、生命論的には善悪はなく、たまたま環境にフィットしたものが残るだけだと整理しました。そのうえで、人間には「残したい」と選ぶ意思があり、ズレながらでも気軽にバトンをつなぐことが今を生きる伝統だ、という見方に着地しています。
- 適者生存の「適者」は優れた者ではなく、その環境にたまたまフィットした者で、環境が変われば入れ替わる
- ヒラクさんは価値を裁く超越的な視点を置かず、長く続いてきたプロセスに合理性を見る立場をとる
- 自然淘汰に任せず「これを残したい」と選ぶ個人の意思が、木桶のように時代の流れを変えることがある
- 手前味噌を作れば誰でも「小文字の継承者」になれ、海外でのズレた味噌作りも伝統の継承として面白がれる
- カリフォルニアロールの裏巻きのように、新しく見える読み違えが実は温故知新になっていることがある






