「バーチャルの反対語」は何だったのか
石田康平さんを迎えたバーチャリティのシリーズは、この回で3週目に入ります。冒頭では渡邉康太郎さんが、2週目の議論を振り返っています。
2週目に石田さんが提案したのは、アーバンバーチャリズム ── 石田さんが提案した言葉。見えないものと隣り合わせだった人間の暮らしを踏まえ、都市やバーチャルの関係を捉え直そうとする考え方として番組内で紹介されていますという言葉でした。人は歴史上、物の怪や風水のような見えないものと隣り合わせで暮らしてきたのに、近代になって初めてそこから離れ、形あるものに集中できるようになった。それこそが特殊だったのではないか、という問題提起です。
荒木博行さんはこの石田さんの指摘に共鳴し、日本には八百万の神やそれを祀る神社があり、近現代で力が弱まっても儀式やこだわりは残っていると応じていました。一方で渡邉さんは、実体がないのに人々のマインドシェアを奪う新自由主義的な経済こそ、今のバーチャリティと言えるのではないかと話を広げています。
そこから石田さんが投げかけたのが、「そもそもバーチャルの反対語は何か」という問いでした。必ずしもリアルとは限らず、何と対比するかによって、その人の問題意識が見えてくるといいます。
| 対比される言葉 | どの文脈か |
|---|---|
| アクチュアル | 哲学的な文脈 |
| ノミナル | VRの文脈 |
| 身体 | ある人の捉え方 |
さらに2週目では、「見える・見えない」はバーチャリティの本質ではないという話も出ました。極楽浄土は見えてなんぼで、過酷な修行の後に幻覚のような形でご本尊が見えることもある、という例です。
結局、時代の中で「何を信じられるか」が変わっていくことが大事だ、というのが2週目の流れでした。実体を失ったお金、遠近法が発明された当時の驚き、統計処理なのに知能のように見えるChatGPT、そして洞窟の影絵を見ているに過ぎないというプラトン ── 古代ギリシャの哲学者。『国家』の「洞窟の比喩」で、人は洞窟の壁に映る影を実物と思い込んでいる存在だと描きましたの話まで、切り口は多岐にわたりました。
なんかいつもより頭の筋肉を使う議論で、結構お腹が空いてきました。
荒木さんは、話はなんとなく揃ってきたとしつつ、石田さんの出発点だった「死や乱世とVR」の話にどこかで戻りたいと話しています。
もともとはじめは死だとか乱世みたいなキーワードとVRみたいなものがあって、そこが晃平くん(石田さん)の出発点だったような気もするので。
シュルレアリスム、デュシャン、コルビュジエが同じ時代にいた意味
3週目の本題は、前回予告されていた「フランス」というキーワードから始まります。石田さんによれば、日本のVR文化は映像や映画、アニメに源流があり、さらにたどると絵巻や鳥獣戯画のような想像の世界、神様が何百万もいる世界観にもつながっていきます。
一方のフランスは、哲学的なことも含めてVRの研究が多く、大きな祭典も開かれている場所です。渡邉さんも、Laval Virtual ── フランスのラヴァルで毎年開かれるVR・AR分野の国際的な展示会・カンファレンス。研究者や企業が集まりますという学会に行ったことがあると応じています。
石田さんは、フランスにおけるVR的なものの一つとしてシュルレアリスム ── 1920年代にアンドレ・ブルトンらが始めた芸術運動。夢や無意識を手がかりに、日常の現実を超えた「より真の現実」を表現しようとしましたを挙げます。「超現実」の「超」は、現実を超えるという意味ではなく、程度が甚だしいという意味だといいます。現実をじっと見ると、リンゴが大きくなったり別の生き物になったりする世界がありうる、という感覚です。
石田さんが注目するのは、アンドレ・ブルトンがシュルレアリスムを唱えた時代に、デュシャンが作品を作っていたことです。デュシャンはコンセプチュアルアートの始祖とよく言われますが、石田さんはリアリティデザインの人だったのではないかと考えています。
石田さんが挙げる根拠は、デュシャンが偽名や女性の名前を使い、別の嘘を立ち上げて世界を攪乱しようとしたことです。また遺作となった作品Readymadeと発言、遺作の作品名では、立体物を2つの穴から覗くと平面に見え、その穴から撮った写真を箱に入れて覗くと3次元に見えるという、VRの昔の形のような仕掛けを作っていたといいます。
デュシャンにはアンフラマンス ── デュシャンが用いた造語で「極薄」と訳されます。知覚できるかどうかの境目にある、ごくわずかな差や間を指す概念ですという言葉もあり、石田さんはこれを現実と非現実の間の薄い膜のような概念として紹介しています。
さらに同時代にはコルビュジエがいました。石田さんによれば、コルビュジエはシュルレアリスムの画家でもあり、デュシャンはシュルレアリスムの人たちのための展示空間を設計するなど、3者は共鳴していたといいます。
石田さんは、サヴォア邸 ── ル・コルビュジエが1931年にパリ郊外に完成させた住宅。ピロティ、屋上庭園、水平連続窓などを備え、近代建築の代表作とされますも機能主義だけでなく宮殿建築の反転として読めると話します。装飾がごてごてした重々しい宮殿と、地上の大庭園を全部ひっくり返し、庭を屋上に、窓を水平の1本に、下をピロティでオープンにし、装飾をゼロにした。権威主義からの脱却を宣言する、新しいリアリティとしての建築だという見立てです。
この3者の動きが、第一次世界大戦前後の大きな動乱の時代にパリで起きていたことを、石田さんは新しいリアリティ、同時に新しいバーチャリティを作る動きと捉えています。そしてそれがフランスのVR文化の一つの源流になったのではないかと考えています。
日本とフランスは、同じような世界観に違う経路でたどり着いているのではないか、という話も渡邉さんと石田さんの間で出ていたそうです。石田さんがVRの先生たちにこの話をすると、そのとおりだと言われつつ、最後の最後はフランス人とは分かり合えないと強く語られたといいます。
絵巻や八百万の神のように、想像をわーっと膨らませていく中でその世界観に到達する
論理を積み重ね、物事を切り分けていく中で同じような想像の世界観に到達する
石田さんは、アートと経済と建築は別物に見えても、バーチャリティという軸でつながっているのではないか、という点も気になっていると話しています。
「That's surreal」と日本の「間」、無常の矛盾
石田さんのシュルレアリスムの話を受けて、渡邉さんは英語の決まり文句「That's so surreal」を紹介します。日本で漫才などを「シュール」と言うのとは違い、目の前で現実に起きたことがにわかに信じられないときに使う表現だといいます。
目の前に確かに起こっているとか、確かに体験したっていうことなのに、それって本当にこの世のことなんだっけ?っていうのが、2つの世界が重なり合っちゃっているようなイメージを僕は持つんだけど。
石田さんはこの「That's surreal」の話から、現実でないものも現実として認めようとする心の動きが面白いと応じます。そして日本人は、それが現実かどうかを最後は問わない感じがすると話しています。
石田さんがここで挙げるのが、日本の「間」の文化です。人間、世間、間に合う、間が悪いといった言葉に表れるように、日本の感覚はAやBという地点ではなく、AとBの間にばかりいるといいます。
石田さんの見方では、間は関係性なので本質的にバーチャルです。日本のコミュニケーションは、お互いのバーチャルな認識を前提にやりとりしている、というのが石田さんの指摘です。
別の方法で現実のあり方を探るっていうか、これもまたリアルタリウルリアルタリウルみたいなのを探していくみたいなことなのかな。
石田さんはさらに、日本のVR文化や重要な価値観には、なぜか否定形の言葉が多いと指摘します。解脱は「離れる」ことですし、無常も否定形です。
石田さんが特に面白いと話すのは無常という概念です。この世は無常だと言った瞬間に、無常であることだけは常になってしまう。矛盾を前提に価値観ができていることが、日本文化の特徴の一つではないかと石田さんは考えています。
仏教の「私」と、責任をどこで切るか
無常の話を受けて、荒木さんはその感覚の多くは仏教に由来しているのではないかと話し、知人の龍玄さん龍玄からよく聞くという仏教における「私」の定義を紹介します。
私とは私でないもの以外のものであるみたいなね、そういう言い方をするわけですよね。
荒木さんの説明では、仏教の「私」は絶対的に存在するものではなく、世界全体から相手との関係性を差し引いて残ったものです。相手との関係で自分の位置づけが決まる、きわめて流動的で相対的な存在だということです。
だからそれはさっきの話でいけば、その人間観みたいなこととつながってきて、自分と他人みたいなことの間っていうことを考えないといけないっていう、そういう哲学だと思うんですけれども。
石田さんは相対感に加えて、道元 ── 鎌倉時代の禅僧で、日本の曹洞宗の開祖。主著『正法眼蔵』で知られますの「宗峰合成」宗峰合成という言葉を挙げます。人の主観すら自分で作ったものではなく、さまざまな縁起の重なりによって思わされているもの、という考え方だといいます。
石田さんはこれと対比して、國分功一郎さんの「修道体」中動態かの議論を紹介します。ハンナ・アーレント ── ドイツ出身の政治哲学者。全体主義や人間の活動、責任について論じ、『全体主義の起源』『人間の条件』などで知られますを引きながら、責任は意思の概念と深く結びついているという議論です。
盗みの責任をその人に帰属させるには、どこかで過去との因果をバツンと断ち切る必要がある。たどり続けると「こういう社会に生まれたから」となり、責任が取れなくなる
思ったこと、誰かを呪うこと、好きになることも縁起の重なりであり、自分がやったことではないと捉える
石田さんは、どちらもそうだと思いつつ、この違いは世界の理解の仕方として面白いと話しています。それを受けて荒木さんは、違いはすごく感じるとしたうえで、問いを本題に戻します。
それがこうバーチャリティとどう関係してくんだろうね。
石田さんの答えは、「バーチャルリアリティ」という言葉自体が、バーチャルがリアルになっているという矛盾を抱えているというものでした。その矛盾の中に世界がちゃんとあるという面白さが、仏教的な世界観にも通じているのではないか、と石田さんは話しています。
生と死の壁はどこまで薄いのか
バーチャルリアリティという言葉の矛盾の話から、荒木さんは「リアルとは何か」という問いに戻っていくと話します。現象学なども含め、人は内在化された世界観で世界を投影しているので、全員が違うバーチャル世界で生きているという考え方もあるといいます。
だからその中におけるリアルっていうのは一体何なんだみたいな話だよね。
荒木さんは、酒を飲んで世の中が歪んで見える世界はバーチャルなのかリアルなのか、とも問いかけます。そのうえで、読みかけだという『死の瞬間』という本を紹介しています。
荒木さんによれば、『死の瞬間』は精神科医が書いた本で、物語や映像で人間が死の瞬間をどう描いてきたかが書かれています。面白いのは、突き詰めると自分が死んでいるのかわからない、という話が多いことだといいます。
実は生と死の境っていうのは極めてフラジャイルでよくわからない中で、じゃあリアルって一体何なんだみたいな話とかもこの文脈にあると思うんです。
荒木さんは例として、生きていると思っていたら死んでいた、という映画『シックス・センス ── 1999年公開のM・ナイト・シャマラン監督の映画。死者が見える少年と精神科医の交流を描き、結末のどんでん返しで知られます』を挙げています。
石田さんは、最近読んだという村上春樹さんの小説『街と不確かな壁』街とその不確かな壁を挙げます。現実と非現実の間にはしっかりした壁があるはずなのに、一度その壁を越えると非現実が現実になり、関係があべこべになっていく構造の話だといいます。
石田さんはさらに、非現実の側から存在が出てくる例として幽霊を挙げます。目の前に10人ぐらい幽霊がいたら、その場所が生者の世界なのか死の世界なのかは一気に揺らいでしまう、という例えです。
石田さんにとって、この「不確かな壁」は、はっきりして見えて実はファジーなもので、デュシャンのアンフラマンスそのものにも見えるといいます。死の瞬間もまた、そうした壁を越える瞬間の一つなのかもしれない、と石田さんは話しています。
感情まで「幻覚」と言われたら何がリアルか
議論が抽象度を増すなか、荒木さんは難しそうな顔をしている渡邉さんに話を振ります。渡邉さんは、どう捉えたらいいか迷っていると率直に打ち明けています。
一人一人が知覚してるものとか認知してるものが違うじゃんっていう話は、まあそりゃそうだで、僕の中ではちょっと終わってしまって。
でも例えば自分が酔っ払っている時の世界と酔っ払っていない時の世界の知覚が全く異なるっていう方が、それこそ自分にとってのリアリティがあるから、大事な問いに響いてくるんだよね。
渡邉さんは、生と死の境目についても、人間が定義を作っているから、そこから漏れるものは曖昧になる、という冷静な考えしか浮かばないと話します。荒木さんは、ここで問うているのは医学的な線引きではなく、自分が生きているのか死んでいるのかを自分でどう判断するのか、という話だと補足しています。
うん。実は死んでるんじゃないかみたいなこと。
石田さんはここで、ChatGPTとのやりとりを例に挙げます。抑うつ的になって消えたいという気持ちが出たときに相談すると、それは病があなたに見せている幻覚で、あなたの感情ではない、と返されたといいます。
石田さんが面白いと感じたのは、この「感情の幻覚」という言葉です。目の前の蜘蛛の幻覚なら、物理的にいなければいないと言えます。けれど、自分がそう感じていることまで幻覚だと言われると、何が本当なのか本当にわからなくなる、と石田さんは話しています。
「お酒を飲んだから今こうなっている」と因果関係がわりとはっきりしている
自分の中に内在する何かが原因で、因果関係がわからない。何をどう捉えていいかわからなくなる
石田さんはこの考えをさらに広げ、未来があると信じていることすら、みんなが同じように見ている集団幻覚なのではないか、という理解もできると話します。昔の哲学の本では、未来は後ずさりで入っていくものや何かの影として、常に不確かなメタファーで描かれてきたといいます。
石田さんは、プラトンの『国家 ── プラトンの代表的な対話篇。理想の国家や正義を論じ、洞窟の比喩もこの中で語られます』を読むと、未来があるという認識すら時代の変化の中で形づくられてきたのではないかと感じるそうです。
石田さんはデカルト ── 17世紀フランスの哲学者。あらゆるものを疑う方法的懐疑を通じて「我思う、ゆえに我あり」にたどり着き、近代哲学の祖とされますも同じだと話します。『方法序説』は難しいことは書いておらず、自分はそこそこ頭がいいと思うと始まり、考えてきたことが全部嘘だったのではないかと問い詰めていく内容だといいます。
その果てに、考えている自分が存在することだけは本当と思ってもいいのでは、というのが「我思う故に我あり」です。石田さんは、かっこいい標語にまとめられているが、実際の文章は「本当って何かしら」と言い続けるグダグダしたものだと話し、そこにリアルとバーチャルを考える面白さを見ています。
認識論から「違いを形にする」動きへ
収録時間が迫るなか、荒木さんは議論の行き先に率直な不安を口にします。
これなんか裸のままこの哲学の認識論の議論をしようとしている、なんか無謀さを感じるんだけど、なんかこのままいくと先があるのだろうかという気もしなくもないんだけれども。
石田さんが示したのは、認識論を掘り下げるのとは別の方向でした。見えているものが人によって違うのは渡邉さんの言うとおりで、その違いの正体を掘ると哲学に向かいます。
一方で石田さんは、違いを形にして共有しようとする動きがあると話します。バーチャルリアリティを作ることやテックカルチャーのように、違いを何とか形にしようとする行動の面白さに目を向ければ、話がまとまるかもしれないという提案です。
前提
人によって見えているものが違う
哲学の方向
違いとは何かを掘り下げると認識論になる
行動の方向
違いを形にして共有しようとする。VRやテックカルチャーの面白さ
うん、認識論にあんまり踏み込むと無知が無知のまま行くんで、本当にやばいね、これ。じゃあそんな感じでいきましょうか。
最後に荒木さんが、この回で紹介された本として、春日武彦さんの『死の瞬間』とデカルトの『方法序説』を挙げ、3週目は締めくくられます。
まとめ
3週目は、フランスのアートと建築から日本の「間」や仏教、死や幻覚、デカルトまでを行き来しながら、リアルとバーチャルの境目がいかに揺らいでいるかを探る回でした。最後は、認識の違いを掘るより、違いを形にして共有する動きに目を向けるという方向が示されています。
- 石田さんは、デュシャン、ブルトン、コルビュジエが動乱の時代のパリで共鳴し、新しいリアリティとバーチャリティを作ろうとしていたと見ています
- 日本の「間」や無常、仏教の「私」は、関係性や矛盾を前提にした、本質的にバーチャルな世界観として語られました
- 生と死、現実と非現実の壁は、はっきり見えて実は薄いものではないかという視点が、本や小説を通じて共有されました
- 感情まで「幻覚」と言われる経験から、未来すら集団幻覚かもしれないという問いが立ち上がりました
- 次回に向けて、違いを形にして共有しようとするVRやテックカルチャーの動きに焦点を移すことが提案されました



