砂原哲さんとau Design projectの始まり
番組ホストの久下玄さんは、ビジネスとクリエイティブの交差点にいる人物をゲストに招くことが多いといいます。今回の砂原哲さんは、その典型的な存在だと紹介されました。
砂原さんといえば、デザイナーやクリエイティブ系の仕事が好きな人の間では、インフォバーをはじめとするデザイン携帯ブームの火付け役として知られています。
久下さんが特に聞きたかったのが、トップクリエイターとどうコミュニケーションし、どうタッグを組む相手を選んできたかという点でした。
auブランドの誕生と衛星携帯電話の時代
話はまず、20数年前にさかのぼります。auブランドができたのが2000年7月、KDDIができたのがその年の10月だと砂原さんは振り返ります。
KDDIは、DDI、KDD、日本移動通信(IDO)の3社が合併してできた会社でした。当時のauは、地方では関西セルラーなど「なんとかセルラー」が一色体になってできたブランドだったといいます。
砂原さん自身は、もともと衛星携帯電話のイリジウムに転職して入っていました。イリジウムはモトローラが世界のキャリアと組んだ事業でしたが、あっという間に経営破綻します。
通話エリアは地球ですよ、というコピーだったんだけども、結局普通の携帯電話が普及しすぎたあまり、そっちの衛星携帯電話の需要が全く伸び悩んだ。
南極や山間部、プレジャーボートといったニッチな需要しかなく、事業は行き詰まったと砂原さんは説明します。
3番手auを立て直すためにデザインへ
立ち上がったばかりのauブランドも、当時は調子が良くありませんでした。ドコモ、ジェイホンに対して、3番手的な位置づけだったといいます。
当時の携帯電話はドコモのiモードが強く、機種でもNとPを持つことがステータスでした。auやジェイホンのメーカーは、ドコモ向けの端末を先に企画し、二番煎じの端末になりがちだったと振り返られます。
さらにauは、右肩上がりのマーケットにもかかわらず契約数が純減してしまいます。この状況を立て直すため、DDI時代にマーケティング部が発足しました。
そのメンバーには、破綻したイリジウムの「残党」が多く含まれていたといいます。当時30歳ほどだった砂原さんもその一人でした。
デザインやブランドという言葉がまだ一般化していない時代です。そんな中で、業績を高める手段としてデザインに目をつけたのが出発点でした。
デザインなんて何それ?みたいな時代で。そんな時代の中で、業績を高める一つの手段としてデザイン、特に手元にある携帯電話は、めちゃくちゃ接点なわけです。
携帯電話はユーザーとの重要なコンタクトポイントであり、そこにきちんとしたデザイン提案をすることで回復のきっかけを作れるのではないか、と考えたと語られます。
デザインブームとソニー端末が刺激になった
当時はデザインブームの時代でもありました。1995年ごろのミッドセンチュリー家具のブームに始まり、AppleのiMac、ソニーのVAIOなど、工業製品でも面白いものが出ていたといいます。
日本では、裏原宿のアパレル系の人たちがデザインに関心を持ち、インテリアなどにこだわる流れがありました。ここに携帯電話のデザインへの渇望があったと砂原さんは見ています。
当時のVAIOは、Appleと互角に戦えるかっこよさがあったと二人は振り返ります。VAIO 505に代表される紫のボディなど、チャレンジングな製品が印象的だったといいます。
携帯電話でも、ソニー・エリクソン以前のソニー端末が刺激になりました。メモリースティックで音楽を聞ける端末や、ジョグダイヤルによる操作、予測変換など、デザインもインターフェースも面白い時代だったといいます。
一方で、おしゃれな人はモトローラやノキアなど海外製の携帯電話を苦労して使っていました。しかし日本の携帯電話が進みすぎて、海外メーカーはついてこられなくなっていきます。
モバイルインターネットの創始国は日本ですもんね。
iモードやau のEZweb(イージーウェブ)が先行し、海外のかっこいい端末は機能面で逆に見劣りするようになっていったと語られます。
深澤直人さんに声をかけた理由
デザイン携帯の構想は2000年夏ごろから始まり、「誰に頼むか」という話になります。候補に上がったのが、当時IDEOジャパン代表として帰国していた深澤直人さんでした。
G-SHOCKを手がけた二階堂隆さんにも声をかけたといいます。深澤さんはMoMAの展覧会で不在だったため、実際に会えたのは2001年2月ごろ、半蔵門のオフィスでのことでした。
砂原さんにとっての深澤さんの最初の印象は、無印良品の壁掛けCDプレーヤーよりも、むしろMoMAで展示していたメディアアート的な作品だったといいます。
電話を開けると相手の空が映る作品や、座った人の残像が映る白い作品など、気配やコミュニケーションを形にするプロトタイプが印象に残ったと語られます。
僕もともとメディアアート大好き人間だったんで、おお、こんなデザインをやる人がいるんだな、というのが。
久下さんは、今の深澤さんはフォルマリストのイメージが強いが、砂原さんはむしろ人間同士のコミュニケーションを概念化するデザイナーとして依頼したのではないか、と読み解きます。
依頼内容と「ブロックのプロトタイプ」
深澤さんへの依頼内容は複数ありました。一つは、ファッションとしての価値を持つ携帯電話を提案したいということでした。
もう一つは、当時決着がついていなかったPDAと携帯電話の関係です。両者の要素をどう融合させるかという提案も求めたといいます。
さらに当初のau Design projectは、フォルムだけでなくUIやUXの改善も狙っていました。東泉一郎さんにEZwebのホーム画面をアーティスティックにする依頼もしたといいます。
ただし当時はまだ表現力が乏しく、大きな効果は出なかったと振り返られます。ユーザーインターフェースデザイナーという肩書きすら存在しない時代でした。
そして出てきた提案が、レゴのブロックや石鹸にアンテナをつけたもの、アクリルの塊といったラフなモックでした。これはダーティープロトタイピングの走りだと久下さんは指摘します。
企業へのプレゼンとしては勇気のいる手法です。それでも砂原さんは、その新鮮さに喜びを感じ、「これでいきましょう」と即決したと語ります。
これでいきましょうと。これでいきましょうって何だかわかんないけど、これでって、どれで、なんだかわかんないけど。
女子高生が生んだケータイ文化の功績
この提案の中に、後のインフォバーのタイルキーにつながるアイデアがありました。ヒントは、教室で画面を見ずにボタンを打つ女子高生の姿にあったといいます。
久下さんは、当時の女子高生を、デジタルコミュニケーションの不自由さをスキルでカバbr――手技でカバーする層として説明します。
ポケベルはもともと電話番号を伝える道具でしたが、女子高生が数字を組み合わせてメッセージを送る文化を生み出しました。メーカーはそれに引っ張られて数字入力での文字送信に対応していきます。
公衆電話のテンキーでポケベルにメッセージを打つ行為は、入力方法こそ違え、今のフリック入力とほぼ同じ概念を先取りしていた、と久下さんは整理します。
彼女たちが生み出したわけで。それがすごい。文化として面白かった時代だし。
深澤さんは、女子高生は強い個性を求めるのではなく、人とちょっとだけ違いたいのだと捉えました。その微差を生み出す装置として、カスタマイズできるタイルキーを検討したといいます。
砂原さんは、女子高生が生んだこの文化が日本の携帯電話文化・コミュニケーション文化を作り、後の絵文字文化にもつながったと語ります。
久下さんは、この世代こそが今の世界のインターネットカルチャーを作った人たちではないかと指摘します。世代論好きの砂原さんも、これに強く同意しました。
後半戦略はポスト団塊ジュニア世代への提案
久下さんは、初期の深澤さん、マーク・ニューソンさんら大物との仕事と、後半に若手を掘り起こす仕事とでは、パートナー選びの基準が違うのではないかと尋ねます。
砂原さんによれば、後半の若手起用の基準は「世代」でした。ケータイ文化を生み出したポスト団塊ジュニア世代に焦点を当てるという狙いがあったといいます。
深澤さんや岩崎一郎さん、吉岡徳仁さんらは60年代生まれです。それに対し、坪井浩尚さんら75年前後生まれの、デザイン意識の高い若手とも組んでいく流れになったと語られます。
僕ね、世代論結構大好きなので。ポスト団塊ジュニア世代に焦点を当てての企画ではあった。
女子高生文化ではない側の、ポスト団塊ジュニア世代のカルチャーを作った人へ向けた提案。それが後半のクリエイター選定を貫く思想だったと締めくくられます。
まとめ
前編では、3番手だったauを立て直す一手としてデザインが選ばれ、深澤直人さんとの協業やタイルキーの発想へとつながっていった経緯が語られました。その根底には、コンセプトから入る砂原さんの姿勢と、世代への強いまなざしがありました。
- auの純減を立て直す手段として、接点である携帯電話のデザインに着目したのがau Design projectの出発点
- 深澤直人さんはフォルムだけでなく、気配やコミュニケーションを概念化するデザイナーとして依頼された
- レゴや石鹸のようなラフなモックによる提案は、ダーティープロトタイピングの走りだった
- インフォバーのタイルキーは、画面を見ずに打つ女子高生の姿から着想された
- 後半のクリエイター選定は、ケータイ文化を生んだポスト団塊ジュニア世代への提案という世代論に基づいていた
