「Kei Shimada」という呼び名と、アメリカで育った原点
番組の冒頭、ホストの久下玄さんは、ゲストの呼び名を「嶋田敬一郎」と「Kei Shimada」のどちらにするか尋ねます。嶋田さんは「Kei Shimada」を選びました。
理由は、海外生活が長かったことにあります。苗字から呼ばれると、硬い響きに感じてしまうのだそうです。
苗字が先に来ると、海外が長かったせいで、なんか怒られてるような感じがして。国会議員の呼び出しみたいな。
海外ではファーストネームが先に来るのが当たり前です。ただ、日本ではファーストネームだけだと落ち着かない。その折衷として「Kei Shimada」という呼び名に落ち着いたと話します。
嶋田さんはアメリカで生まれ、15年を過ごしました。しかもかなりの田舎で、周囲にアジア人を見かけない白人社会の中で暮らしていたといいます。
駐在員だった父親は、駐在中は日本人に捕まらないよう、なるべく遠くに離れて暮らすことを鉄則にしていました。そのため週末はアメリカ人を呼んでのバーベキューや、ハイキング、スキーなど、外で遊ぶ生活が中心だったそうです。
藤沢の家を買う時も、僕の絶対条件は外でバーベキューができる家っていうのが。
料理やサーフィンといったフィジカルな趣味の多さは、この幼少期の暮らしが染みついたものだと語ります。
父の影響で芽生えたテクノロジーへの原点
久下さんは、フィジカルな趣味が多い一方で、なぜITやクリエイティブのキャリアを歩んできたのかを尋ねます。
鍵は父親でした。父は技術者で、1960年代後半に日本の電機メーカーの駐在員としてニューヨークに渡り、新規事業開発を長く手がけていた人物です。
いい音楽を聴きたいからっていって、自分でスピーカーを組み立てたりとか、真空管アンプを自分で作ったりとか。
家にはエジソンの蓄音機があり、先人が作ったものの延長線上にどんな新しい市場があるかを模索し続ける父の姿が、身近にありました。
嶋田さん自身も、ポータブルCDプレーヤー発売直前の試作機を見せてもらったり、世に出なかった機械のデモ機に触れたりしながら、父と未来を語り合っていたといいます。
高校時代に一人で日本へ渡り、寮生活を始めます。そこでアメリカでは触れなかった日本のガジェット文化に出会いました。
80年代後半だとセイコーが、テレビが映る腕時計とか。日本っていう最先端の国に来て、子供心にものすごく響いて、この国で新しいものを作っていきたいなっていったのがきっかけで。
つまり嶋田さんの原点は、ソフトウェアではなくハードウェアでした。久下さんは「イメージと逆」と驚きます。
iモードとの出会い、そして予期せぬ人事配属
転機はiモードでした。大学卒業後、嶋田さんはメーカーに就職しますが、実は最初の配属は本人が予期していなかった人事部でした。
ものづくりをしたかったのに、人事へ配属されて4年我慢したんだけど、我慢できなかったっていう。
当時は人のマネジメントを全く理解できなかったといいます。ただ、後から振り返ると、それは財産になったと話します。
嶋田さんが勤めていたメーカーは、当時33万人規模で、国内だけで8万人あまりが在籍する事業部制の会社でした。一つの目標に向けて人を束ねる仕組み、その背後に人事施策や評価、配置転換があることは、後になって理解できたそうです。
一方で当時の関心は仕事にはなく、大阪のディープな街で毎晩飲み歩く日々だったと振り返ります。
iモードは1999年に立ち上がりました。嶋田さんはその予兆をつかんでいました。
予兆の源泉は、アップルを辞めた人たちが作ったジェネラルマジックという会社の「マジックキャップ」でした。スマートエージェントが先回りして用事をこなすプラットフォームで、嶋田さんの卒論の題材でもありました。
これがいずれ携帯電話になると見込んだ嶋田さんは、そのPHS版を作る大阪の会社を経て、モバイルインターネットの職人たちと働くようになります。
iモード端末って画面がすごいちっちゃかったじゃないですか。そこに収まるUIUXを、横で職人みたいな人たちが作ってる。デザインとかクリエイティブって、人を引きつけるか否かで重要な要素だったりする。
ここからハードからソフト、アプリケーション、クリエイティブへと大きく舵を切ることになりました。
外資、独立、電通。クリエイティブとの出会い
キャリアはさらに広がります。2000年までメーカーに勤めた後、嶋田さんはインフラの世界を選び、日本ルーセントテクノロジーに移りました。
人事から技術営業へと転じ、英語ができることから外資系アカウントを任されます。しかし2002年、テレコムバストが起こります。
お客さんも一夜にして東京のオフィスからいなくなり、債権回収で走り回り、疲れ果て。
MBA進学を考えていた頃、モバイルコンテンツプロバイダーのサイバードがアルバイトを募集していました。30歳ごろ、アルバイトからの再スタートです。
そこで国内・海外のマーケ営業部隊の立ち上げを担いますが、日本のビジネスのやり方に疑問を持つようになります。海外の人にもっと日本のモバイルサービスを使ってもらう方法があるはずだと考えたのです。
その後独立し、自身の会社を約7年運営します。ヨーロッパの車メーカーのiモードサイト受託や、日本の三大SNSの英語ティアダウンレポート販売などを手がけました。
やがて市場が飽和し、同様の競合も現れ、受注が取れなくなります。立ち行かなくなった嶋田さんを拾ったのが電通でした。2012年のことです。
電通では次世代コミュニケーション開発の部隊に入り、当時から先駆けてARなどを手がけていました。ここで久下さんとも出会います。
今までは利益とか売上のためにやっていたのが、電通に行ってからクリエイティブにがっつり寄ってて。ケイパビリティを示していく仕事をやっていた人たちに混ざった時に、ものすごく衝撃を受けて。
40カ国250講演、世界を巡る「ガラケー説明員」
久下さんが抱く「海外スタートアップの事情通」というイメージは、講演活動から来ています。その始まりは自身の会社を立ち上げた2005年ごろでした。
共同ファウンダーは日本語が堪能なドイツ人のクリストファーさん。当時の日本はモバイルインターネットが独自に発達していた一方、英語の文献が少なく、海外カンファレンスに呼ばれて説明する機会が多かったといいます。
2007年、クリストファーさんから「回りきれないから、お前も回れ」と言われ、嶋田さんもニューヨークの講演から登壇を始めました。
海外のカンファレンスには、良いスピーカーを紹介し合う横のネットワークがありました。「謎の国ジパングのガラケーの話を英語でする」という特異な立ち位置が評価され、依頼が広がっていきます。
久下さんは「最初はガラケーの説明員だったんですね」と笑います。当時、海外から見れば、今のアプリストアやモバイルコンテンツ市場の原型を作ったのはiモードでした。
ヨーロッパにはiモードのシステムを展開するキャリアもあり、成功モデルを教えてほしいという需要から、出張も講演も一気に増えていったそうです。
アジアの逆転と、日本のスタートアップに足りないもの
講演活動は今も続いています。話題は近年のアジアのスタートアップシーンへと移ります。
嶋田さんによれば、アジアはこの10年で大きく変わりました。一般市民の購買力が上がり、モバイルデバイスが浸透し、アプリを作って展開するのが当たり前になったといいます。
久下さんは、スーパアプリやP2P決済など、かつては日本やアメリカが輸出する側だった概念が、いまやアジアから逆輸入されていると指摘します。
嶋田さんは、日本でスタートアップが育ちにくい構造的な理由を挙げます。大企業がニッチな領域まで押さえてしまうため、隙間が生まれにくいというのです。
海外は逆に言うと、日本では当たり前のものが抜け落ちてたりするんで、そこのニッチを攻めると結構マス取れたりする。逆転してるんですよね。
さらに嶋田さんは、日本のVCは優秀だとしつつも、海外での成功体験が少ないと指摘します。
その結果、スタートアップの海外志向も「とりあえずシリコンバレー」「時差が少ないからシンガポール」といった発想に落ち着きがちだと語ります。
久下さんは、東京イノベーションベース(TIB)のような施設が増えている一方で、引っ張っていくリード役が少ないと感じている、と自身の印象を述べます。
スピーカーサーキットと、鎖国下イランの意外な姿
久下さんは、嶋田さんが世界中のカンファレンスに呼ばれるのは、海外に情報交換できる友人ネットワークを持っているからだと指摘します。日本の起業家や事業家は、日常的に海外の同業と情報交換する機会が少ないというのです。
嶋田さんもこれに同意します。海外のカンファレンスオーガナイザー同士の横のネットワークは強く、良いスピーカーを紹介し合う輪から日本が外れてしまっていると話します。
2010年代中頃、ほぼ毎月海外で講演していた頃は、50人ぐらいのスピーカーサーキットに入れてもらって、「このカンファレンス良かったから推薦しといたよ」とか常に情報交換をしていた。
そのネットワークを通じて、嶋田さんは思いがけない場所にも招かれます。メインストリームの大型カンファレンスから、やがて中央ヨーロッパ、そして鎖国下のイランへ。
嶋田さんが訪れたイランのスタートアップシーンは、想像とは違うものでした。金融制裁がまだ強くなかった2017年ごろ、キャラバン形式で各都市を回りながらスタートアップにコンペを行う「シルクロードスタートアップ」に参加したといいます。
鎖国をしているがために、彼らはものすごく賢くて、VPN張って海外で流行ってるサービス全部調べて、イラン版Amazon、イラン版eBay、イラン版YouTube全部作ってるんですよね。
入国した瞬間に金融ネットワークから遮断され、ドルは現金で用意しなければならない。それ以外は、海外にあるサービスのイラン版がすべて揃う、パラレルワールドのような世界だったと振り返ります。
なぜ宇宙輸送へ。将来宇宙輸送システムでの役割
世界を駆け回ってきた嶋田さんが、なぜ将来宇宙輸送システム(ISC)に加わったのか。久下さんが問いかけます。
将来宇宙輸送システムは何をしている会社なのか。
誰もが宇宙にアクセスできる時代を2040年までに作ることを志すスタートアップです。その手段として、宇宙輸送機を短期で開発しています。嶋田さんは事業責任者として、その輸送機で実現可能なビジネスを増やし、資金を作っていく役割を担っています。
嶋田さんは2023年7月に業務委託として少しずつ関わり始め、10月1日に正式に加入しました。久下さん自身も、この会社の宇宙輸送機のデザインを手がけています。
嶋田さんは、ロケットを作る会社が本業に専念することの重要性を認めつつ、初期段階でビジョンをどれだけ広く解釈できるかが事業責任者として重要だと語ります。
宇宙輸送機ができるのを待っていたら、キャッシュアウトしたり遅くなっちゃう。衛星以外の需要って何だっけ、人を乗せるならどういう体験がベストなのか、手前で考えておかないと。
たとえば宇宙旅行を掲げても、輸送機の窓が小さければ外が見えず、旅行とは言えなくなってしまう。そうした視野を広く持ち、できる人に声をかけて任せることを日頃から意識していると話します。
10年20年の差。日米の宇宙産業の温度感
久下さんは、衛星打ち上げのイメージは想像しやすい一方で、アメリカと日本の宇宙産業への肌感の差を尋ねます。
10年も20年も日本は遅れてると思っていて。逆に言うと海外は10年20年先を行ってるから、発想はものすごく豊か。
嶋田さんは、その背景に歴史と教育の違いがあると指摘します。アメリカは1970年代にアポロ計画で月面に人を降り立たせ、ボイジャーのような探査機を遠くまで飛ばしてきました。
僕のアメリカのパスポート、建国が表紙の裏で、ボイジャーが裏表紙なんですよね。宇宙っていうのはやっぱりすごく身近なんですよ。
アメリカにはSTEM教育を組み入れる教育思想と、宇宙を身近に感じる歴史があります。一方で日本は、政府事業だった宇宙開発がようやく民間の事業になりつつある段階だと嶋田さんは話します。
まとめ
人事配属から始まったキャリアが、ハードウェアへの原点、モバイルインターネット、世界を巡る講演活動を経て宇宙輸送へと結びついていく前編でした。海外と日本のスタートアップ・宇宙産業の温度差も、体験に根ざした具体性で語られています。
- 嶋田さんの原点は父の影響によるハードウェアで、iモードを機にソフトやクリエイティブへと舵を切った
- 40カ国250講演の講演活動が、海外スタートアップの横のネットワークを築く土台になった
- 日本のスタートアップは、大企業がニッチを押さえる構造とVCの海外成功体験の少なさが課題として挙げられた
- 将来宇宙輸送システムでは、輸送機の完成を待たずビジョンを広く解釈し事業を作ることが重視されている
- 日米の宇宙産業には10年20年の差があり、歴史と教育、宇宙を身近に感じる意識の違いが背景にある
