中学時代に出会った、実家に何冊もある『箱男』
第2回のテーマは、蛇が持ち寄った安部公房の『箱男』です。前回は鼠が村上春樹『風の歌を聴け』を語りました。
蛇はこの小説を中学生の夏に読んだと話します。かなり早い出会いだったと自分でも認めています。
実家には何千冊もの本があり、なかでも『箱男』は何冊もあるといいます。文庫版、ハードカバー版、そして中身のない外箱だけの状態のものまであるそうです。
手に取ると軽い。あ、箱だけだ。中のやつがいなくなってるみたいな。
それ箱男じゃなくて、箱男抜きなんですね。
蛇にとって『箱男』は、文学との出会いそのものだといいます。自己紹介に使うにはハードすぎるとも笑いながら、性癖というより「小説ってこんなことしていいんだ」という驚きがあったと語ります。
冒頭で奪われる語り手の特権
蛇が最も引きつけられたのは、冒頭の文章です。「これは箱男についての記録である」という硬い記録調から始まります。
ところが「僕は今、この記録を箱の中で書き始めている」と続いた時点で、構造が複雑になります。書き手が明確に登場人物になり、メタ的な作りが立ち上がります。
さらに「つまり、今のところ、箱男はこの僕自身だ」という一文で、書き手の特権が奪われると蛇は指摘します。
蛇によれば、書き手は本来、小説において絶対者です。物語と語りのすべてをコントロールする存在です。
小説っていうのは作家にとってコントローラブルなものだって読者は前提として読んでる。でも「今のところ」って言った瞬間に、特権的な立場じゃないんだ、今だけなんだっていう。
鼠も、この先は箱男でなくなるかもしれないと予言的に示唆されている点に注目します。この緊張感こそが『箱男』の入り口だと2人は語ります。
覗きの文学ではなく、緊張感の文学
鼠は高校時代に蛇から勧められて読んだとき、最初は何をしたいのか分からなかったと振り返ります。箱をかぶって穴から外を覗くおじさんの話に見え、覗きの文学かと思ったといいます。
覗きは日本文学でもよく扱われるテーマです。谷崎潤一郎谷崎潤一郎『痴人の愛』などで知られる小説家。倒錯的な愛や執着を主題にした作品を多く残した。や、『眼球譚』のバタイユバタイユ20世紀フランスの思想家・作家。エロティシズムや過剰を主題にした『眼球譚』などで知られる。の名も挙がります。
ただ、安部公房が特殊なのは、その覗きを包む緊張感だと蛇は言います。語り手の特権が「今のところ」で奪われるため、読み手も落ち着いて読めなくなります。
冒頭には謎めいた写真と新聞記事が置かれています。これは『砂の女』でも見られる手法で、蛇はこれを読者の背後から回ってくる仕掛けだと解釈します。
フィクションじゃない顔をして、自分の周りまで近づいてしまっているものが最初に提示されて、その上で強烈なフィクションが来る。
鼠は、これを現実と空想の境界を壊すマジックリアリズムマジックリアリズム現実的な描写のなかに非現実的な要素を自然に溶け込ませる表現手法。ラテンアメリカ文学などで発展した。的な手法だととらえます。ノンフィクションの顔をした導入が、非現実的な前提を読者に受け入れさせるのだと2人は話します。
ストーリーではなく「語り」の文学
鼠があらすじを求めると、蛇はそれが難しいと答えます。『箱男』はストーリーではなく語りの文学だからです。
多くのエンターテインメント小説ではストーリーが重視される。でも安部公房とか一部の特殊な作品は、ストーリー以上に語りが重視されてる。
『箱男』は箱男の手記という形で書かれています。段ボールをかぶった男が箱男ですが、外からは中身が見えません。
その手記が一人の人間によるものか、複数の人が書いたのかは分かりません。真実かフィクションかも判然としない構造になっています。
手記には修正や削除の痕もあります。不都合な真実だから消されたのかもしれない、という余白が残り、全体としては推理小説に近いと蛇は言います。
鼠は、これを普通の世界の関節を外して変なものを生み出す手法だと表現します。その変なものを通してしか見えない世界があり、この時期の小説に多いと語ります。
不在証明と、透明化される作家
蛇は、安部公房の作品に繰り返し登場する「不在証明」という概念に注目します。存在しないことは証明できないという、悪魔の証明悪魔の証明「ないこと」を証明するのは極めて困難、あるいは不可能だとする考え方。哲学や法律の議論で用いられる。に通じるテーマです。
『箱男』では、主人公が自分こそ箱男だと主張する一方、勝手に「偽箱男」と呼ぶ別の箱男が現れ、その存在を否定されていきます。
鼠は哲学の承認論を引きます。カントカント18世紀ドイツの哲学者。人間を手段としてだけでなく目的として扱うべきだという倫理を説いた。、フィヒテ、ヘーゲルヘーゲル19世紀ドイツの哲学者。人が人として認められるための「承認をめぐる闘争」を論じたことで知られる。と続く相互承認の問題を、安部公房は実験として小説でやっていると指摘します。
蛇は、語りとは本来、事実にはなりえないものだと語ります。三人称小説や神の視点は、本当は不可能な語りです。
人は自分の感情しかわからないから、相手の感情はわからないのに、小説では複数の人の感情が出てくる。そんな人はいないわけだから、それ自体が不可能なものなんですよ。
安部公房はその不可能な語りを、語りの複数化や流動性によって軽々と乗り越えると蛇は言います。語り手を透明化することで、フィクションを超えてくる瞬間があるのだと語ります。
こっちに出てくる「君」への親しみと怖さ
鼠は、信用できない語り手はミステリーの常道だと整理します。ただ『箱男』は、その語り手が語り手ですらなくなるかもしれない、極めて不安定な位置に置かれています。
だからこそ読者は、箱男の書いた文章を信用して読めなくなります。蛇はそれを、ある種の誠実さでもあると受け止めます。
さらに蛇は、安部公房の登場人物が読み手に向けて「君」と語りかけてくる点に親しみを感じると話します。物語の存在であるはずの語り手が、こちら側の世界に干渉してくるのです。
鼠は太宰治太宰治『人間失格』などで知られる小説家。私小説的な作風で、自身を重ねた語り手をしばしば登場させた。の『道化の花』を引き、「笑ってくれたまえ、これは僕のことである」と読者を突き放す例を挙げます。
ただ太宰は、太宰治という人間のフィクションとして読めます。一方の安部公房は、語り手の特権を封殺したうえでそれをやるため、フィクションの存在が「ぬんっ」とこちらに出てくると鼠は言います。
蛇は、この小説を読んで「自分にも書けるものがある」と強く思ったといいます。これが文学との出会いになったと語ります。
観察を通して自分を表現する
鼠は、作家を目指す人間には、他人の人生に関与したいという「窃視的」な欲望があると語ります。相手の知らない情報を、その人の言葉として知りたいという欲求です。
その欲求は、私とあなたが明確に分かれているから安心できます。しかし『箱男』は、その境界を意図的に取り払うように作られていると鼠は指摘します。
蛇は、安部公房が自分について書かない作家だと話します。私小説には興味がないと明言し、日本文学の伝統をいったん無視したといいます。
蛇はそれを、自己破壊を免れる方法だと解釈します。私小説を書こうとすれば、自分の毒と向き合い、必ず傷つくからです。
作家としての自分にとってすごく重要なものについて書こうとするときって、並々ならぬ毒と向き合わねばならん。
蛇は、数学者や科学者は論文で自分のことを書かないが、世界をどう見るかという自己表現をしているという話を紹介します。安部公房も理系の作家であり、観察を通した自己表現を志向していると語ります。
安部公房は自分のことは何も書いてないんだけど、世界をこう見るってことを作品の中で書くことによって自己表現をしてる。
この流れから、鼠は新カント派新カント派19世紀後半から20世紀初頭のドイツで、カント哲学を再評価した哲学の潮流。自然科学と価値・世界観の関係を論じた。や「世界観の哲学」、ハイデガーハイデガー20世紀ドイツの哲学者。『存在と時間』で知られる。初期には世界観哲学をめぐる議論も行った。の議論へと話を広げます。世界観について語る哲学の方が、むしろ普遍的でありうるという逆説が示されます。
さらにマイケル・ポランニーマイケル・ポランニー科学者から哲学に転じた思想家。言葉にしきれない「暗黙知」の概念で知られる。の議論も引かれ、科学的に重要かどうかを判断するのは科学ではなく人間だと2人は確認します。科学という体系そのものが、人間的な営みなのだという結論に至ります。
完璧な文章は存在しない、という希望
話は前回の『風の歌を聴け』の冒頭へと戻ります。「完璧な文章なんて存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」という一節です。
蛇は、『箱男』も同じことなのではないかと語ります。書き手が不在証明を続ける営みは、成功する部分もあれば失敗する部分もあります。
結局これは小説であり、安部公房という作家が語ったフィクションであることを免れません。だからこの傑作もまた、完璧ではないのだと蛇は言います。
しかし蛇は、その不完全さこそ美しく、励まされると語ります。無数の作家たちの敗北の歴史の先頭に、偉大な存在として『箱男』が立っているのだと表現します。
鼠は、いつか勝利する日が来るかもしれないという可能性こそ希望だと応じます。パンドラの箱に希望が残っていた理由は、作家がペンを取り続ける理由でもあると語ります。
作家が伝えたいことは伝わっている、けれど完璧には伝わっていない。その不完全さを引き受けながら、2人は自分たちの制作についても重ねて回を締めくくります。
まとめ
『箱男』は、冒頭で語り手の特権が奪われる緊張感から始まり、不在証明という主題を通して作家自身を透明化していく語りの文学です。蛇と鼠は、その不完全さのなかにこそ、フィクションと戦い続ける作家の希望を見出しました。
- 『箱男』は「今のところ」の一言で語り手の特権が奪われ、ストーリーより語りが重視される作品として読み解かれた
- 冒頭の写真や新聞記事は、ノンフィクションの顔で非現実的な前提を受け入れさせる仕掛けだと解釈された
- 不在証明という主題を通し、安部公房は語り手を透明化し、フィクションを超える瞬間を生み出していると論じられた
- 安部公房は私小説を避け、観察と「世界の見え方」を通して自己を表現する理系的な作家だととらえられた
- 完璧な文章は存在しないという不完全さこそ、作家がペンを取り続ける希望だと2人は結論づけた
