奈良県の農家からアメリカへ渡った父の挑戦
キャシー松井さんは日系二世のアメリカ人です。両親は奈良県出身で、1960年代の初めに横浜港から10日間の船旅を経てカリフォルニア州へ渡りました。
その翌年、キャシーさんは現在のシリコンバレー、マウンテンビューで生まれます。当時はシリコンバレーとは程遠い田舎だったといいます。
父が渡米した理由は、実家の小規模な畑を継ぐ未来が見えていたからでした。永住の前年に農業実習生として1年間アメリカを経験し、その規模の大きさに圧倒されたことがきっかけだったと話されています。
絶対僕が奈良県の田舎よりもアメリカのビッグマーケットに挑戦したい、ということで移ったんです。パスポートと1万円札1枚、英語なしで行って、なんとかなると思って。
横浜港での見送りの際、父の母は「この国を出たらもう二度と戻らないよ」と冷たい言葉で送り出したそうです。
父にとってアメリカでの挑戦は、成功する以外の選択肢がないものでした。失敗すれば実家に帰れないというプレッシャーがあったといいます。
キャシーさんが4、5歳の頃、父は自分の農園を持つことを決意します。紙1枚に書いた事業計画を銀行に出し、大規模なローンを成立させました。
「10年後これぐらい大きい規模のお花の畑を作ります、保証します」ということで、ものすごい大規模のローンを成立でき、そこから松井ナーセリーの誕生でした。
松井ナーセリーは菊からバラ、そして現在はランへと切り替え、アメリカ市場の2割を占める大手生産者に成長したそうです。
子供時代の労働体験と「ハーバードか、畑か」
父の農園を支えたのは、キャシーさんたち兄弟を含む日系ファーマーの子供たちでした。週末や夏休み、バレンタインデーや母の日の前は、必ず手伝いに駆り出されたといいます。
当時はみんな嫌でしたね。「なんで私たちだけが」って。結構温室の中って暑いし、腰を痛めるような仕事でしたし。なんでこういうことやらせるのかってずっと思ってたんです。
小さい頃からお小遣いという概念はなく、働けば少しお金をもらえるという感覚だったそうです。
進学をめぐっては、忘れられないプレッシャーがあったといいます。先にハーバード大学に合格した姉に続き、次はキャシーさんの番でした。
父が私に、「キャシー、もしハーバード受からなかったら、この畑を継がないといけない」って。半分冗談ですけど、あの強烈なプレッシャーは地獄のようなプレッシャーでした。
結果として、4人兄弟は全員ハーバードへ進学したそうです。半分冗談、半分本気のルールが、勉強への必死さを生んだと話されています。
佐俣さんは、金融エグゼクティブというイメージが強かったキャシーさんの、起業家的な生い立ちに興味を持ったといいます。
すごい色んな人生のストーリーを聞いて、「あ、こういう風に起業家的に生きてきたんだな」っていうので、キャシーにすごく興味が出てきて。それを聞くのに一番いいのはポッドキャストに呼ぶっていう。
日本との出会いと、金融の道へ
ハーバード卒業直後、キャシーさんは地元のロータリークラブから海外留学の奨学金を得ます。これが初めての来日のきっかけでした。日系二世として、それまで一度も日本に来たことがなかったといいます。
奨学金は通常1年のところ2年もらえました。1年目は集中的な日本語学習、2年目は日本の大学院での研究に充てられたそうです。
期間は1986年から88年、ちょうどバブルの時期でした。「ロータリー奨学生」としてパーティやレセプションに招かれ、とても楽しかったと振り返ります。
あの2年間がなければおそらく私、今日日本にいないと思うんですね。その経験から日本に興味を持つようになって、初めて会ったことのなかった親戚たちにも会えたんです。
その後アメリカの大学院に進学し、修士課程の夏に再び来日します。旧三井銀行で海外からの初の研修生となり、日比谷本店の資本市場部スワップスデスクに配属されました。
この経験を通じて、キャシーさんは日本がさらに好きになり、金融の面白さを実感したといいます。一方で、当時のドメスティックな日本の金融は自分には合わないかもしれないとも感じたそうです。
さらにこの夏、後に夫となるドイツ人のイェスパーさんと出会います。大学院の先輩で、すでに日本で働いていました。
当初アメリカで就職するつもりだった計画は、この出会いで大きく変わります。卒業式にも出ず、片道の航空券を買って日本へ戻ったと話されています。
彼と一緒にいるために戻ったよ。彼のせいですよ。だから本当に人生って、私の場合すべて偶然だらけですね。
日本での就職活動では、日本語で履歴書を書き、ソニーやコンサル会社、富士ゼロックスなど幅広く応募したそうです。金融は志望順位の下の方でした。
証券会社のリサーチ部門にも応募すると、3社からオファーが届きます。選ぶのに迷ったキャシーさんは、各社に半日ずつオフィスで過ごさせてほしいと頼んだといいます。
今ありえないと思うんですけれど、半日各会社のオフィスの風土を見ると、すごい良かったんですよ。全然違いました。
こうして最も賑やかで楽しそうだったバークレイズ証券を選びます。4年後には、上司の後任としてシニアストラテジストの役職に就きました。
ゴールドマン・サックスへの転職と26年
バークレイズで役職に就いていた頃、ゴールドマン・サックスから声がかかります。ただ最初はほとんど興味がなかったといいます。
転機になったのは、ウォール街のレジェンドとして知られる米国株ストラテジスト、アビー・ジョセフ・コーエンさんからの電話でした。かつてバークレイズで同僚だった、キャシーさんの憧れの存在です。
「日本株ストラテジストとして成功するために、グローバル・プラットフォームの方が有利じゃないですか。イギリス系の証券会社より米系の方が大きいですよ」とかすごい説得力あって。
もしクビになってもバークレイズに戻れるだろうと考え、挑戦を決めたそうです。結果として、ゴールドマン・サックスで26年間働き、2020年末に卒業しました。
最後は副会長を務めましたが、本業はあくまで日本株ストラテジストでした。キャリアの大半は、日本株に目を向けない海外投資家が多い弱気相場だったと振り返ります。
デフレに落ち込む、人口が減っていく、財政赤字が膨らむ一方、「成長が一体どこから来るんですか松井さん」って毎日のように海外投資家から質問受けるんですよ。
ウーマノミクスの出発点となった原体験
投資家からの「成長はどこから来るのか」という問いに、答えを出しにくい日々が続きました。その転機となったのが、キャシーさん自身の育児経験でした。
最初の子である息子を産み、4ヶ月の育児休暇の後すぐにフルタイムで復帰します。しかし周りのママ友を見ると、復帰したくても様々な理由でできない人が少なくなかったといいます。
目の前にすごい素晴らしい女性人材が溢れてるのに活用されてない。とにかく一言で「もったいない」と思って。
日本の成長はどこから来るのかという職業上の問いと、女性人材が活用されていないというプライベートの実感。この二つが結びつきました。
アナリストとして、キャシーさんは日本の女性の就業率が先進国の中でも低いことに着目します。その水準が上がればGDPをどれだけ押し上げられるかを試算しました。
それが1999年に発表された第一号のウーマノミクスのリサーチレポートでした。
あくまでもこれは経済合理性に基づく説でしたので。私のコンペティターは中年男性ばかり。きっとこういうテーマについて誰も書かないと思って、ちょっと書いてみました。
育児休暇からの復帰
4ヶ月で復帰したが、復帰できないママ友が多いことに気づく
「もったいない」という実感
活用されていない女性人材の存在をプライベートで痛感する
職業上の問いと結合
「日本の成長はどこから来るか」という投資家への課題と重なる
定量分析
女性就業率の上昇によるGDP押し上げ効果を試算する
レポート発表
1999年、第一号のウーマノミクスのリサーチレポートを発表
アベノミクスとコーポレートガバナンスの変化
発表当初、レポートへの反応は分かれました。海外の機関投資家からは「明るい兆しかもしれない」と好意的に受け止められましたが、国内の反応は鈍かったといいます。
国内はまた中年男性99.9%なので、「面白いテーマですけど、来週水曜日日経平均はいくらになりますか」とかね、そっちの方にすごい興味持ってて。あんまりトラクションなかったんですよ。
状況が変わったのは2013年から14年、第二次安倍政権の時でした。アベノミクスの成功にウーマノミクスが不可欠だと言及されたのです。
キャシーさんが最も評価しているのは、多様性の概念を「平等」や「人権」の文脈から、「ビジネス」や「経済合理性」の文脈へシフトさせた点だといいます。
それまでは人権問題・平等問題に関心ある人しか興味なかったんですけれども、初めてより広い層に届いた。人口の半分をもう少し活用できれば良いかもしれない、ということに繋がったんですね。
1999年から政府の言及まで、実に15年ほどの時間がかかりました。キャシーさんは、あくまで客観的で定量的な分析を出すことを戦略としてきたと話します。
一方でキャシーさんは、ダイバーシティ以前に日本のコーポレートガバナンスについても数多く書いてきたといいます。当時の日本企業は株式の持ち合いが多く、浮動株比率も低く、少数株主の利益がほとんど守られていなかったと振り返ります。
大手自動車メーカーの社長に「松井さん、車のこと全然知らない人、社外役に入れたら何の価値ですか」とか、もうストレートに言われたんですよ。何度も何度も。
当時は「これは日本スタイルのガバナンスだ」と繰り返し言われたそうです。キャシーさんは、そこから起きたガバナンス改革と意識の変化を、大きな変化だったと捉えています。
女性が働くっていう観点から見ても、僕が社会人になったのはもう15年ぐらい前だから、その頃とはもう全然違う。なんかその時代の変化はすごいなとも思う。
まとめ
奈良の農家に生まれた父の挑戦から始まり、偶然の連続を経て日本と金融にたどり着いたキャシー松井さん。育児をきっかけに抱いた「もったいない」という実感が、経済合理性に基づくウーマノミクスの提唱につながりました。時間はかかりましたが、その視点は日本社会の意識変化に関わっていったと考えられます。
- キャシー松井さんの父は、英語もツテもない中で奈良からアメリカへ渡り、農園を起業家精神で築き上げた
- 来日の奨学金や夫との出会いなど、偶然の連続が日本と金融のキャリアへとつながった
- 育児経験から得た「女性人材がもったいない」という実感が、ウーマノミクスの原体験となった
- 1999年のレポートは、多様性を人権ではなく経済合理性の文脈で捉え直した点に特徴がある
- コーポレートガバナンス改革を含め、この20年余りで日本の企業社会の意識は大きく変化した
