高校卒業後、化学試薬会社でのアルバイトが始まる
前回はキャリー・マリスの中学・高校時代が語られました。中学ではロケット開発、高校では小学生向けのサイエンスショーの開催に打ち込んでいたといいます。
今回は高校卒業後の話です。大学に入るまでの間、キャリーはマックスという人物がオーナー兼会長を務めるコロンビアオーガニック社でアルバイトを始めます。父親のコネで入れてもらった、化学試薬の販売会社でした。
コロンビアオーガニック社は自社製品の試薬を多く扱う一方、自社にないものは他メーカーから取り次いで販売していました。
キャリーの仕事は、毎朝オフィスであちこちからの注文を受け、いろいろなメーカーのカタログを調べて一番安く入手できる先を探し、そこから取り寄せてマージンを乗せて顧客に販売する、という取次業務でした。
当時、化学試薬は名前が統一されておらず、キャリーはそれを翻訳するように交通整理していたといいます。バイオ業界と化学業界で、同じ化学物質が違う名前で呼ばれることもあったそうです。
今だと考えられないですよね。その試薬の名前が複数あるとか。
フルカ社の「別名注文」を見抜き、会長の信頼を勝ち取る
ある時、キャリーは重大な発見をします。自社に取り扱いのない試薬を、フルカ社という別のメーカーのカタログから見つけて顧客に取り次いでいたのですが、そのフルカ社が少し経ってから別の名前で、キャリーの会社に注文してきていたのです。
名前が違うだけで、実は同じ試薬でした。つまりキャリーの会社は、自社が扱っている製品を、わざわざ他社に取り次いでいたことになります。
フルカ社はキャリーの会社に在庫があることを知ったうえで、気づかれないよう別名で注文し、それをまたキャリーの会社に流していたのです。
数字を見ると構図がはっきりします。1グラム100ドルでフルカ社から買っていた試薬が、自社の倉庫では1グラム24ドルでフルカ社に販売されていました。フルカ社は差額を大きくマージンとして取っていたことになります。
自社在庫を24ドルで販売
キャリーの会社が保有する試薬を、1グラム24ドルでフルカ社へ売っていた
別名で注文し直す
フルカ社は同じ試薬を別の名前で、キャリーの会社に注文
100ドルで買い戻す
キャリーの会社は自社製品と気づかず、1グラム100ドルでフルカ社から取り寄せていた
この事実を伝えると、会長のマックスはカンカンに怒り、フルカ社の社長を自宅に呼びつけました。両社は長い付き合いだったため手打ちになったものの、キャリーはこの一件でマックスの全面的な信頼を勝ち取り、以後さまざまな相談を受けるようになります。
そういったところまで目が行き届かないというか、矛盾してるなとか、なかなか気づかないと思うので、キャリーの目の付け所というか、すごいなって思いますね。
大学進学と「自分で試薬を作る」という提案
1962年、キャリーはジョージア工科大学に進学します。それでもコロンビアオーガニック社でのアルバイトは続けました。
たまに、製造が終了した試薬の注文が入り、取り次ぎ先にも在庫がないことがありました。要は、売るものがない状態です。そこでキャリーは社長に提案します。
この試薬、僕が作ったら会社として買い取ってくれますか?
ビジネスマンですね。
社長のマックスは面白いと思ったのか、この提案にOKします。材料となる薬品も、会社にあるものを自由に使ってよいと認めてくれました。
さらに、できた薬品は市場価格の60%で買い取るという契約まで、きちんと交わしてくれました。大学生相手でも、パーセンテージのマージンを契約として文書化するあたりに、アメリカらしさがうかがえます。
現在は外資系企業に勤めているというあきは、この点に共感を示します。日本では口約束で進めてしまうことがあるものの、それではだめだと会社から言われる経験をしてきたといいます。
その契約書があるからこそ、しっかり仕事ができるっていうところだったのかなと思いますね。
ガレージが実験室に。「売られていない試薬」の壁
試薬を作る仕事を得たキャリーには、実験場所が必要になりました。かつて一緒にロケット開発やサイエンスショーをしていた友人アルの家のガレージで、合成を行うことにします。
ただ、キャリーとアルはある事実を見落としていました。簡単に作れる試薬は、すでに市場に供給されているということです。裏を返せば、売られていない試薬は作るのが難しい、ということでもありました。
同じように作っても、純度が低いってこともありますからね。そうすると、材料もたくさんいるしとか、そういうケースもありますもんね。
薬学部出身のとみーが指摘するように、純度の問題は合成の大きな壁です。キャリーたちも、なかなか純度の高いものを作れず苦労したといいます。
社長のマックスは、自分でも試薬を作った経験からこの難しさを承知していました。それでも何も言わず、若き日の自分を重ねて二人に挑戦させ、悪戦苦闘する様子を楽しんでいた面もあったようです。
成長を温かく見守るみたいなところでしょうかね。
最初の成功はニトロベンゼン、そして白い結晶へ
キャリーとアルは夜な夜な実験を繰り返しました。まず大学の図書館で無機化学合成法の本を借り、そこから製造法を学びます。
さまざまな薬品を混ぜて熱にかけたり冷やしたりと試行錯誤した結果、ドロッとした茶色い、純度の悪い固形物を100グラム製造することに成功します。最初に作れたのはニトロベンゼンという試薬でした。
純度は悪かったものの、この試薬をマックスは400ドルで買い取ってくれました。当時のアメリカの平均月収が250ドルほどだったことを考えると、大学生としては悪くない稼ぎです。
二人はさらに上を目指します。純度の高いニトロベンゼンは本来白い塊のはずなので、これを純化する方法を試行錯誤し、ついに白い結晶を作り出すことに成功しました。
これを見たマックスは大変驚きます。経験の少ない若い二人がここまでのものを作れるとは思っていなかったのです。彼は大変喜び、二人を養子にしてもいいとまで言い出しました。
遺産とかの相続とか、そういうことなのかなっていう気もしますけど。
薬学部出身者が語る、合成実験の「白い結晶」の感動
ここでとみーが、自身の合成実験の経験を語ります。薬学部では化学・生物・物理それぞれの実習があり、有機合成の実験も行っていたそうです。
本来は白いものでも、不純物が多いと黄色く色がつくことがあり、それは工程を経て最後にできたものを見るまでわからないといいます。だからこそ、白い塊が見えたときは嬉しかったと振り返ります。
合成には肉体労働の側面もあります。不純物を除くために、二層に分かれた液体をドレッシングのように振る作業があり、2リットルほどを手でガシャガシャ振るのは体力のいる仕事だとのことです。工業的には機械化され、大きな釜で混ぜますが、実験室ではそうはいきません。
白いものができたって言った時の感動はすごい。もう一回やってみようっていう、モチベーションにもなるところなので、きっとそこが彼らにとってのモチベーションだったのかなっていう気がしますね。
臭化フェナル合成で近所を毒ガスの臭気に包む
成功に気をよくした二人は、次の合成に挑みます。ターゲットは臭化フェナルという試薬でした。マーケットが小さく、どのメーカーも扱っていなかったといいます。
この合成の途中では臭化水素が発生しました。腐食性のガスで、とても臭く毒性も強いものです。二人はアルの家のガレージの壁のファンを回しながら実験を続けました。
夜中の1時頃、一息つこうと外に出ると、近所一帯がこの毒ガスの臭気に包まれ、とんでもないことになっていたそうです。朝までに臭いが散ってくれと祈るしかありませんでした。
臭化水素って、あの吐いたあとの漂白剤みたいな感じですね。鼻をつくような匂いではないんですけど、ちょっと気持ち悪くなるような感じの匂いがする。
さらに実験を進めると、臭化フェナルの結晶がエーテルの中で成長してきました。ここで先ほどとは全く違う刺激臭が広がります。今度は催涙性のガスでした。
催涙ガスで目を洗っても治らない。素人二人の危うさ
催涙性のガスなので、二人はとてつもなく目が痛くなり、ガレージから飛び出して水で目を洗いました。ところが、いくら洗っても治りません。
後から調べると、この催涙性ガスは親油性で、水では洗い流せないものでした。涙で流れ出して濃度が下がるまで、痛みは引かなかったと考えられます。
とみーは、初めて合成する物質は特性がわからないため、サリンのようなものである可能性さえあると指摘します。だからこそ、実験には誰かが付いていることが安全だと話します。
まさかその催涙性のガスが出てきて、それが親油性だから水で洗い流せないとか、わかんないですもんね。
目の痛みがある程度治まってから、二人は身を低くかがめてガスを避けながらガレージに入り、エーテルの中の結晶を回収してファンを最大限に回しました。扉には立ち入り禁止の張り紙をします。そして、ファンの外に生えていたカメリアの木は枯れていました。
そんなに毒だったのにも関わらず、催涙ガスっていうだけでよかったですね。本当に。失明とかしててもおかしくないぐらいの毒な気がしますよね。
あきは、防毒マスクや目のゴーグルも用意せず、生身でこうした実験をしていたことに驚きます。とみーも、化学実験では手袋とゴーグルは今や常識だとしつつ、大事に至らないのも運であり、その運があるからこそ前に進めるのではないかと語ります。
立ち入り禁止の張り紙も虚しく、実験室を移す
翌日、二人でアルの家に行くと、アルの母親からとんでもない目で睨みつけられます。いつもは気さくに話してくれる相手が、全く口を利いてくれませんでした。
どうやら、洗濯をしようとガレージに入った際、催涙ガスにさらされてしまったようです。立ち入り禁止の張り紙を見ずに入ってしまったのだろうと推測されています。
立ち入り禁止なんて、自分の家に書かれてあっても、なんじゃこれって入っちゃいますよね。
この事件の後、二人は実験室を移すことになります。おそらくガレージはもう使うなと言われたのでしょう。
新しい場所は、アルの義理の兄が持っていた土地にあった、使われていない鶏小屋でした。これを改装して実験室とし、その後2年間の大学の夏休みは、ここで新しい化学合成試薬を作っていたそうです。
あきは、ロケットのときに空き地を教えてくれる人がいたことなども思い返し、土地がたくさんあるアメリカの環境を羨ましいと話します。
こうした大学生活を送りながら、キャリーは1966年、ジョージア工科大学で化学の理学士号を取得します。
薬学部出身者が語る、学生実験と現代の理科教育
エピソード後半では、とみー自身の学生実験の話へと広がります。学生実験は基本的な操作を学ぶ場なので、危険なものは扱わず、酢酸とエタノールを反応させて酢酸エチルを作るような基本的な内容だったといいます。
酢酸エチルはグレープの香りがするそうで、実験の後からグレープ味が苦手になり、ガムのグレープ味を食べなくなってしまったと明かします。身近で毒性のないものを合成する実験だったとのことです。
学生実験では、色素の合成なども行われます。中には発がん性のあるものもあるものの、少し皮膚についただけでがんになるわけではなく、その程度の危なさだといいます。爆発のような経験はなかったそうです。
話は現代の理科教育へと及びます。高校の化学では反応式は習っても、実験まではなかなかできません。詰め込みで実験の時間が取れず、予算の問題もあると二人は話します。
とみーは、私立高校で多少資金に余裕があっても、受験のための時間に使ってほしいという保護者のニーズがあり、実験は難しいと聞くと語ります。
そのうえでとみーは、研究者の立場から、学び方についての思いを述べます。
現代の教育論にまで話が広がりつつ、キャリー・マリスの大学時代のアルバイトの物語が届けられました。次回も大学時代の話が続く予定です。
まとめ
化学試薬会社のアルバイトで会社の不正を見抜いて信頼を得たキャリー・マリスは、自ら試薬合成に挑み、ガレージでの毒ガス騒動を起こしながらも学士号を取得するまで成長していきました。観察眼と挑戦心、そしてそれを見守る大人の存在が、この時期の彼を形づくっています。
- フルカ社が同じ試薬を別名で注文する不正を見抜き、キャリーは会長マックスの全面的な信頼を得た
- 製造終了した試薬を自ら作って売る提案が通り、市場価格60%で買い取る契約まで交わされた
- 最初の成功はニトロベンゼンで、純度の悪い固形物から白い結晶へと純化まで成し遂げた
- 臭化フェナル合成では臭化水素や催涙性ガスを発生させ、近所を臭気に包み、アルの母親も被害に遭った
- 薬学部出身のとみーの経験を通じ、合成実験の感動や安全対策、現代の理科教育の課題にも話が及んだ


