日清戦争後、日本を襲ったコレラと血清療法
前回は北里柴三郎がペスト菌を発見し、その論争に巻き込まれながら長男の誕生を迎えたところまでが語られました。今回はその続きから始まります。
北里が帰国した2日後に始まった日清戦争日清戦争 ── 1894〜1895年に日本と清(中国)が朝鮮半島の支配権をめぐって戦った戦争。多くの日本兵が中国大陸に従軍した。では、多くの日本兵が中国大陸に従軍しました。その中の多くが現地でコレラに感染してしまいます。
下関で講和条約を結んで戦争が終わった後、北里に嫉妬していた陸軍軍医の森凜太郎(森鴎外)が、コレラ患者がかなり発生していると報告します。帰還兵によって国内にコレラが広がることを防ぐため、日本は兵隊の検疫を行うことにしました。
この検疫を担当したのが、北里の盟友である後藤新平でした。苦しい戦いを終えて帰国した兵隊を戦場にとどめておくのかと陸軍には反対も多かったのですが、陸軍次官の児玉源太郎が「調べるんだ」と押し切り、きちんと検疫が行われました。
北里もこれに大いに協力をするということになります。
それでもコレラは漏れ入り、8月には広島や神戸で患者が発見され、東京でも大流行が起こります。コレラ患者は北里たちの病院とは別の広尾病院に入院しました。
東京で発生したコレラ患者270名のうち、138名が亡くなってしまいます。ほぼ半分が亡くなるという事態でした。
コレラ・ジフテリアで火を吹いた血清療法
事態を受けて東京は北里に治療を要請します。北里は筑紫ヶ丘養生園でコレラの免疫血清を製造し、193名の患者に初めてコレラの血清療法を行いました。
その効果は劇的でした。入院後すぐに亡くなった患者を除けば、どんな重症でも注射すると下痢や嘔吐が止まり、2回目で正常に排尿できるようになり、3回目で快方に向かったといいます。
結果、193名中の死亡者は64名にとどまり、救命率は67%となりました。破傷風と同じように、コレラでも血清療法が効くことが証明されたのです。
3分の1、3分の2に上がったんですね。
さらに北里は、ドイツのコッホ研究所時代に手がけたジフテリアの血清療法についても血清を製造しており、伝染病研究所ではジフテリア患者も受け入れていました。
受け入れた353人のうち、322人が完治したといいます。完治率は91%に達し、血清療法はまさに火を吹くような成果を上げていました。
国からの国有化打診と、北里の即断
この免疫血清事業の好調ぶりに国が目をつけます。伝染病研究所で製造されている設備は北里たち民間グループのものでしたが、国はこれを国有化できないかと北里に打診してきました。
免疫血清の製造は、この頃には伝染病研究所を支える中核事業になっていました。患者が次々と治るため入院も増え、この年の売上は10万円、純利益は3万円。現在の価値でおよそ3億円ほどの純利益を出すまでに成長していました。
かつては帰国した北里に研究室すら与えなかった国が、今度はもみ手ですり寄ってきた形です。福沢諭吉や、病院の財布を預かっていた田端は「そんな虫のいい話があるか」と大反対しました。
しかし北里の答えは違いました。免疫血清療法が国家国民の利益になるなら、これを快く国に献上したいと決めたのです。
もうなんかそういう欲はなかったんですかね。
とにかく国費で6年間もやってくれたということを、(北里は国に対して)ずっと裏切れないっていうふうに思ってたみたいなんですね。
北里は、国から与えられた研究の恩をずっと感じていたようです。国は研究所施設に加え、人材の支援も約束したといいます。
人のいい福沢諭吉ですら反対したこの話を、北里はあっさりと受け入れたのでした。
血清役員の設立と、国への技術移転
1896年(明治29年)、施設が起業されます。伝染病研究所の横に、内務省管轄で血清役員という建物が作られました。
北里はそこに、伝染病研究所が所有する馬や羊、設備をすべて寄贈します。さらに免疫血清療法に熟知した高木友栄を院長として送り出し、技術を持つ主要職員を血清役員と伝染病研究所で兼務させました。
そして血清役員が軌道に乗り出すと、北里は伝染病研究所での免疫血清製造を取り止めます。競合しないための判断でした。
取り止めちゃうんだ。
ここで対照的なのが、ドイツ時代の共同研究者エミール・ベーリングです。第1回ノーベル生理学医学賞を受賞した彼は、北里が手伝って作り上げたジフテリアの血清療法の特許を取得し、巨額の特許収入を得ていました。
さすが。そっちはちゃんとビジネスに結びつけたんだ。
北里が国に寄付した治療法は、ジフテリア、破傷風、腸チフス、コレラ、ペスト、赤痢に及びました。当時の主要な感染症のうち、血清で治せるものをほぼすべて渡したことになります。
当時の日本ではちょうど特許制度が始まったばかりで、特許を進めるべきだというのは福沢諭吉がヨーロッパから持ち帰ったアイデアでした。北里もそれを知らないはずはありません。
それでも北里は、特許を取ると患者に素早く治療が届かないと考え、あっさりと国に渡してしまいます。せっかく特許制度を持ち帰った福沢の心中は複雑だったろうと二人は語り合います。
いや、こんな制度、俺せっかく持ってきたのにっていう、渡しちゃうのかよっていう。
日本初上陸のペストと、水際での対応
血清製造に従事した高木友栄は、この年に別の場面でも活躍します。横浜で船が着き、船員が船内でペストらしい症状で亡くなりました。これが日本に初上陸したペストでした。
知らせを受けた高木は素早く横浜へ向かい、すでに埋葬されていた船員の墓を掘り起こしてサンプルを採取し、ペストであると認定します。
その他にも神戸などでペストが疑われる患者が発生し、貿易を重視する日本にとって、感染症の水際対応が課題となる年となりました。
北里に憧れて東大教授の席を捨てた志賀潔
1897年(明治30年)、伝染病研究所から一人のヒーローが誕生します。志賀潔です。明治3年に仙台で生まれ、明治29年12月に帝国大学医学部を首席で卒業した人物でした。
志賀は、ペスト菌発見から帰国した北里と青山の講演会で北里の話を聞き、深く感動します。首席で卒業すれば東大に残って教授の席が約束されているような状況でしたが、志賀は北里のもとへ行くと決めました。
青山胤通は「君、それはないよ。君はもう教授の席を約束されているんだ」と慌てて説得しました。それでも志賀は「私は行きます」と伝染病研究所に入所します。
いや、私は行きますという形で伝染病研究所に入所をします。
帝国大学には細菌学の授業はあっても実習がありませんでした。そこで志賀三郎(志賀潔)は、新しく入所した研究者に細菌の培養方法、顕微鏡観察の染色法、動物試験の方法などを基礎から教えていたといいます。その中で北里は、実験手腕の優れた志賀の才能を見出していました。
入所1年目の志賀に託された赤痢菌の発見
この年の6月、東京で赤痢が蔓延し、筑紫ヶ丘病院は赤痢患者で満員になります。当時、赤痢はまだ原因菌が発見されておらず、治療法も確立していませんでした。
北里は5年ほど前から赤痢を研究したいと考えていましたが、病気がなかなか発生せず、テーマを心に秘めていました。ついに赤痢が現れたことで、北里はこれを志賀にやらせようと決めます。
入所して1年も経っていない志賀にとって、これ以上ない大チャンスでした。志賀は下宿を引き払い、研究所に寝泊まりすることにします。
服などが廊下に山積みになり、先輩たちが「これはどういうつもりだ」と尋ねたところ、志賀はこう答えたといいます。
先生から直々にテーマを与えられて、どうせ夜中まで実験することになるから、寝るためだけに(下宿に)帰るのは通勤がもったいない。
僕はここに寝て、結果が出るまでずっとここにいますっていう風に言ったらしいんですね。
かつて北里がコッホ研究所で10時間も手を動かし続けていたように、同じ気質を持つ弟子が育っていたのです。
赤痢菌をどう見分けたか
赤痢はどんどん大流行し、日本全国で9万人が罹患、25%にあたる2万人以上が亡くなるパンデミックとなりました。志賀は入院患者から集めたサンプルをすべて培養・染色・検鏡し、徹底的に網羅的に調べます。
さまざまな菌が混ざる中で、志賀はようやくある長細い菌にたどり着きます。ただしその菌は見た目も大きさも大腸菌とよく似ており、見分けが難しかったといいます。
そこで志賀は、この菌を赤痢患者の血清と反応させてみました。すると凝集凝集反応 ── 細菌などの粒子が抗体と結合してかたまりを作る現象。患者の血清に含まれる抗体が特定の菌に反応することで、菌の種類を判別する手がかりになる。が起こったのです。
健康な人の血液に菌を入れても凝集は起こりませんが、赤痢患者の血液には凝集が起こりました。患者の体内には赤痢菌に対する抗体ができているため、菌を入れると抗体が集まって凝集が生じたと考えられます。
赤痢菌の患者の血液には凝集が起こると。
さらにこの細菌を純粋培養して実験動物に接種すると赤痢を発症し、コッホの原則コッホの原則 ── ある微生物がある病気の原因であることを証明するための基準。北里の師コッホが確立し、純粋培養や動物への接種による発症確認などを条件とする。を満たすことも確認できました。
弟子の手柄を独り占めしなかった北里
研究開始からわずか6か月後の12月25日、志賀は細菌学雑誌に世界で初めて赤痢菌を発表した論文を掲載します。
この論文を清書して見せたところ、北里は志賀個人の名前で発表しなさいと指示しました。通常は指導者の名前を最初に入れるのが普通です。
指導者のものになっちゃうことが多いですけどね。
しかし北里は、弟子の手柄を取り上げることをせず、共同研究者としての名前すら入れませんでした。学問の名声そのものに、あまり興味がなかったのだろうと二人は語ります。
さらに北里は、日本の雑誌では評価が低いからと、すぐにドイツ語に訳してドイツの医学誌にも寄稿するよう指示します。志賀はこれに従い、見事に掲載されました。赤痢菌の学名シゲラには、志賀の名前が残っています。
すごい、しっかり名前が残りましたね。
同じ年、イタリアのヴェニスで開かれた第10回万国衛生会議では、ペスト菌の第一発見者が北里かエルサンかが議論され、コッホ研究所でペスト菌であると判明します。この時点では「北里エルサン」と呼ばれていましたが、のちにエルサンだけの名になっていきます。
国立化への動きと、福沢諭吉の不信
1898年(明治31年)4月、伝染病研究所を国立化しないかという提案が出てきます。提案したのは、北里の予算獲得に尽力してきた衆議院議員の長谷川泰でした。
長谷川は衆議院議員から内務省衛生局の局長になっていました。今は役人から政治家になる人が多いのに対し、議員から役人になった珍しい経歴だと二人は面白がります。
伝染病研究所の収益は政府の補助金と血清の収益が大半でしたが、血清製造は政府に無償で引き渡してしまったため、研究費がかつかつでした。国立になれば資金が潤沢になるため、北里はこの申し出をありがたく受けることにします。
北里にはもう一つ悩みがありました。優秀な弟子たちを海外に留学させてやれないことです。自分の若い日のように海外で学ばせてやりたいと考えていました。
やっぱり自分がそれでいろんなことをさせてもらったからっていうことが大きかったんでしょうね。
一方で福沢諭吉はこの国立化に反対します。政府が北里を信頼し、思うままにやらせてくれる条件ならよいだろうと、しぶしぶ賛成はしたものの、藩閥政治への不信感が強かったのです。
福沢自身も慶應義塾を国に頼らず自費で作っており、国が噛んでくるとおかしなことになるという考えを持っていたと考えられます。国立化の動きが始まったところで、今回は終わりとなりました。
なぜ北里は迷わず事業を手放したのか
振り返りとして二人は、免疫血清事業を無償で譲ったことに改めて驚きます。せめて一定期間の収益はもらえばよいのに、という思いです。
売上3億円は、やっと軌道に乗ったところの数字でした。しかもそれは、医療がまだ北里のいる東京でしか届けられなかった状況での金額です。
どうしても医療が自分がいる東京でしか届けられないっていうところに、忸怩たる思いがあったみたいで。
病気は地方のあちこちで発生します。国が事業を持てば治療が一気に日本中に広がる。全国に広がればもっと収益は上がったはずですが、北里はそれをあっさり国に譲ったのです。
ひどい仕打ちを受けてきた国に対しても、北里はコロッと事業を渡してしまう。それを見ていた福沢はモヤモヤしつつ、君がそう言うならとしぶしぶ賛成したのだろうと二人は想像します。
迷いもなく、とにかく全国の患者さんに薬を早く届けるには、国有化した方がいいっていう思いは少なからずあったんだと思います。
弟子ができ、味方も少しずつ増えていく。そんな局面で今回は締めくくられました。次回は福沢諭吉が倒れる出来事や、伝染病研究所が無事に国の施設になっていく話が語られる予定です。
まとめ
今回の北里柴三郎は、コレラや赤痢などの感染症に血清療法で立ち向かい、大きな収益を生む事業を築きながら、それを惜しみなく国に献上していきました。名声や利益より、治療を全国の患者へ早く届けることを優先する姿勢が、弟子・志賀潔への向き合い方にも一貫して表れています。
- 日清戦争後のコレラ大流行に対し、北里の血清療法は救命率67%、ジフテリアでは完治率91%という成果を上げた
- 現在の価値で約3億円の純利益を出す血清事業を、北里は特許も取らず無償で国に献上した
- 北里に憧れた志賀潔は東大教授の席を捨てて入所し、入所1年目に6か月で世界初の赤痢菌発見を成し遂げた
- 北里は志賀の論文を弟子個人の名で発表させ、赤痢菌の学名シゲラに志賀の名が残った
- 研究費の確保と弟子の海外留学のため、北里は伝染病研究所の国立化を受け入れたが、福沢諭吉は藩閥政治への不信から反対した


