北里が香港に持ち込んだ「武器」とは
今回のエピソードでは、派閥争いをしていた帝国大学の青山胤通と北里柴三郎が、ワンチームとなって香港でのペスト調査に取り組む場面から始まります。
北里が原因菌の発見のために用意したのは、ドイツ留学時代に愛用していたカールツァイス製の顕微鏡でした。留学先から日本に持ち帰っていたものを、そのまま香港へ携えていったそうです。
顕微鏡に加えて、試験管、シャーレ、そして菌の培養に必要な培地なども準備していきました。現地に道具がそろっている保証はなく、買い集めることも難しかったためです。
そっか、現地にあるとは限らないですもんね。
限らないですね。多分買い集めることもできないと思いますので。
香港2日目、いきなりの解剖と未知の細菌
香港に着いた2日目の6月14日、北里たちはいきなり解剖する機会を得ます。遺族に配慮したためか、遺体の入った棺桶を解剖室に持ち込み、その棺桶の蓋を解剖台の代わりにしたそうです。
執刀は青山が行い、リンパ節、肺、脾臓、肝臓などをサンプリングしました。北里はそれを顕微鏡で観察し、いきなりサンプルからおびただしい数の細菌を確認します。
見えたのは全長わずか2マイクロメートルの微生物でした。ペスト菌である可能性は高いものの、この遺体は死亡から11時間が経っており、他の雑菌が増えている可能性も否定できませんでした。
そこで北里は慎重に判断し、この菌を培地で培養します。並行して、脾臓の一部をマウスに直接接種して観察も行いました。
3日目には、40.5度の高熱を出しながらもまだ生存している患者を診察する機会に恵まれます。北里は患者の指先から採血し、その血液を顕微鏡で観察しました。
すると、前日に見た細菌と形や構造が同じものが見つかります。北里はこれが間違いなくペストの原因菌だと確信します。
1カ月・2700万円という過酷な調査条件
その後も次々と解剖の機会に恵まれ、青山が遺体解剖を続け、北里はそこからのサンプルを観察したり培養したりと精力的に活動します。
ただし調査には厳しい制約がありました。国が与えた期限はわずか1カ月で、予算も2700万円ほどしかなかったのです。その間に必ず結果を出さねばなりませんでした。
厳しい。
晩餐会での異変、医師団を襲うペスト
調査開始から2週間経った6月28日、青山が微熱を出します。
お、ちょっと嫌な予感がします。
翌29日、調査に便宜を図ってくれた香港政庁の要人たちへ感謝を伝えるための晩餐会が開かれました。その席の途中で、青山が倒れます。体温は39.3度に達し、左脇下の痛みも訴えました。
続いて、伝染病研究所の助手として北里が連れて行っていた石神も、高熱を出してうずくまります。
なんで行っちゃったんでしょうね。調子が悪いんであれば。
ラウソン副院長はすぐに指示を出し、香港につけていた病院船ハイジア号に青山と石神を緊急入院させます。左脇下が腫れる腺ペストと診断されました。
彼らの体を観察すると、指先に小さな切り傷がありました。二人とも解剖に携わっていたため、そこから感染したとみられます。
そこ(指先の切り傷)から入っちゃったのか。
さらに現地でチームに加わっていた在住日本人医師の中原も発病し、合わせて3人がペストにかかってしまいます。北里は内務省に電報を打ちました。
青山夫人の気丈な言葉と福沢の焦り
青山の危篤は、森鴎外(森林太郎)を通じて青山の妻に伝えられました。青山夫人は、気丈にこう答えたと伝えられています。
主人は出発の際に「今度は生きて帰らぬかもしれないが、研究だけは立派に成し遂げる」との決意で出かけました。
私も最悪のことがあると思っております。彼が十分な研究ができているのか、これが気がかりです。
気が気じゃないだろうな。駆けつけられないし。
一方、自ら北里に「行ってこい」と勧めて予算まで取ってきた福沢諭吉は、北里が死んでは困ると焦ります。至急帰国命令を出すよう政府に迫ったそうです。
治療法なき時代の看病と、回復と犠牲
青山、石神、中原の3人は英国人の医師と看護師が手厚く看病し、日本人チームも昼夜問わず献身的に付き添いました。とはいえ、当時は治療法がまったくない時代でした。
できたのは、痛みの原因になる肥大したリンパを切除することくらいでした。あとはウイスキーをつけ薬として与えたり、水で高熱を抑えたりする程度だったといいます。
(ウイスキーで)殺菌してるんでしょうね。
それでも手厚い看護のおかげで、約1カ月後に青山と石神は回復します。しかし、現地で合流した中原医師は残念ながら亡くなってしまいました。
コッホの条件をクリアし、ペスト菌を発表
二人が倒れる中でも、北里は見舞いながら研究を続けます。感染者からの採血と顕微鏡観察を繰り返しました。
そして動物実験でコッホの条件をクリアし、調査開始からちょうど1カ月ほどの時に、最初に見つけた棒状の細菌をペスト菌として特定・発表します。
北里はこれをドイツ語と日本語で論文にまとめて雑誌に投稿しました。それをラウソン副院長が素早く英訳し、英語の医学雑誌ランセットにも投稿してくれます。
すごい。素早い。
北里はドイツ語には堪能でしたが、英語はあまり得意ではなかったため、ラウソンの素早い英訳とランセット掲載に深く感謝したそうです。
英雄としての帰国と、迫る日清戦争
北里は予定の滞在30日を8日オーバーし、ペスト菌の菌株を抱えて7月20日に香港を発ち、7月30日に日本へたどり着きます。
帰国の際には医学界の重鎮が出迎えたほか、新橋駅に帰着すると新聞報道で知った多くの国民が自発的に集まり、数千人の一大歓声で迎えられました。
すごい。初めの帰国の時とは大違いですね。
かつてドイツ留学からの帰国時とはうって変わり、ペストを発見した英雄としての凱旋でした。
ちなみに帰国の2日後の8月1日、日本は清国に宣戦布告します。日清戦争が始まる直前のことでした。香港はイギリス領だったため、青山と石神も戦争開始後に無事帰国できたそうです。
ネズミが運ぶ病、人獣共通感染症の発見
帰国後、北里はペスト菌の感染経路の研究に取り組みます。香港での調査中、患者の家のあちこちでネズミの死骸が転がっているのを目にしていたのです。
さらに、14世紀ヨーロッパのペスト大流行の際にネズミの群れが現れたという記述も思い出します。香港で捕獲したネズミを持ち帰って解剖・観察したところ、そのネズミからもペスト菌が確認されました。
そこから北里は、人間より先にネズミが感染し、それが人間にうつる人獣共通感染症ではないかという仮説を立てます。そして、ペストを断つにはネズミの駆除が必要だと提唱しました。
この提案は世界中を駆け巡ります。国際貿易都市だった香港から貨物船に紛れ込んだネズミが、世界中にペストをばらまく恐れがあったためです。
結果として、この時の死者数は約1000万人ほどで止まったといわれます。ネズミに気をつけろという警告が効いたと考えられています。
14世紀の大流行では世界人口の3分の1にあたる約1億人が死んだとされます。1000万人も大変な数ですが、それと比べればだいぶ少なく済んだといえます。
ペスト菌の発見者は誰か、国際競争の内幕
ここで一つの問題が浮かび上がります。ペスト菌を最初に発見したのは誰か、という発見者争いです。
当時ベトナムはフランス領で、細菌学の権威であるパスツール研究所がベトナムに研究所を出していました。アジアで細菌を研究できる施設は、日本の北里の伝染病研究所と、ベトナムのパスツール研究所の2カ所だけだったのです。
そのため香港でペストらしき病気が起こると、両研究所から研究者が派遣され、ペスト菌の発見をめぐる国際競争になりました。
北里は6月14日に解剖を開始し、6月18日に患者とネズミから細菌を検出、6月19日に「ペストの病原を発見せり」と日本政府へ打電しています。
一方、パスツール研究所の研究員エルサンも、翌6月20日にペスト菌を確認し、その論文をパリに送付しました。
論文掲載は北里が8月のランセット、エルサンが9月のパスツール研究所紀要と、北里がわずかに早い発表でした。そのため菌は当初「北里エルサン菌」と名付けられます。
すごい。この僅差ってすごいね。
グラム染色論争と、名前を守った布石
1894年から1896年にかけて、グラム染色論争が起こります。エルサンは論文でペスト菌をグラム陰性と明記しました。
一方の北里は染色液を携帯していなかったのではないかとも言われ、日本に帰国してから染色して発表したとされます。この時に染色をミスしたのか、北里はグラム陽性と主張しました。
後にペスト菌はグラム陰性と判明しますが、北里はグラム陽性だと頑固に主張し続け、途中でグラム陰性だったと撤回します。そのため、最初に見つけたのは別のグラム陽性菌ではないかと疑われてしまいました。
そうだったんだ。
ただ北里は抜かりがありませんでした。自分が発見した菌を培養してコッホ研究所に送っていたのです。
そこで、どちらの菌が本当のペスト菌かを確かめるため、コッホ研究所が両者の菌を調べることになります。結果、両方ともペスト菌だと証明され、先に論文を出した北里が優位になりました。
よかった。
1897年、菌の同一性が証明され、万国衛生会議で北里は共同発見者として認定されます。
消えた「北里」の名、繰り返される嫉妬
しかし20世紀以降、再びグラム染色のミスが追及されます。北里が亡くなった後の話でした。
1976年にはアメリカの第三者機関が北里の研究を再検証し、菌発見の事実は間違いないと結論づけます。ところがそれ以前に、エルサン側の主張が通ってしまっていました。
その結果、菌の名は「北里エルサン菌」から「エルサン菌」だけに変更されてしまいます。北里とエルサンがほぼ同時期に見つけたにもかかわらず、名前からは北里が消えてしまったのです。
いやー悲しい。前もありましたよね、そういうこと。
ノーベル賞が(受賞できず)ダメだったっていうのもありますけれども。
さらに、この発見に対して東大閥が再び嫉妬の火を噴きます。青山は初期に発病して研究チームから離れたため、発見の手柄が北里一人になってしまったのです。
東大閥の緒方正規は、グラム陰性をグラム陽性とするなどあり得ないとして、北里が発見したのは違う菌だという論を日本国内で展開し続けました。コッホ研究所が国際的に北里の菌を認めた後もです。
怖いな。同じ日本人なのに。
そこは素直に褒め称えたらいいのにって思っちゃうんですけど。
森鴎外(森林太郎)も同様の主張を繰り返して北里を攻撃しました。彼はドイツ留学時代に脚気菌の実験を否定されており、その恨みがあったとされます。
男前の批判者たちと、ジャガイモ顔の北里
話者は、北里に嫉妬した森鴎外、緒方正規、青山胤通の3人の顔をネットで調べてみたそうです。すると、いずれもなかなか男前だったといいます。
なかなかみんな男前なんですよね。
今写真見させてもらってますけど、綺麗に、ピシピシ。
当時は髭を生やすのが流行っていたのか、皆きりっとした風貌でした。それに対して北里は、どう見てもジャガイモのような顔をしていたと話されています。
男前なのに、もうちょっと余裕持てよってちょっと思っちゃいますけどね。
一方、北里の周りのチーム、福沢諭吉や衆議院議員の長谷川泰、長与専斎などは、どこか抜けた風采だったといいます。福沢諭吉はシュッとしていたものの、長与専斎は髭がとても長かったそうです。少し軽い余談として語られました。
忙しさの中の長男誕生と家族への配慮
そうした話を挟みつつ、1895年(明治28年)1月12日に北里の長男が生まれます。二人目の子どもでした。
すでに日本に帰国していた北里は、非常に忙しく働いていましたが、研究所で報告を受けると仕事をほったらかして飛んで帰ったそうです。
トラちゃん、よく頑張ったな。
でも顔を見に帰ったんですね。
子どもの顔を見てねぎらうと、北里はすぐに研究所へ戻りました。その後、長女もいて子育てが大変になるからと、実家から両親を東京に呼び寄せたそうです。
次回はコレラの免疫療法へ
今回は、香港でのペスト菌の大発見という山場が語られました。同時に、発見者争いに巻き込まれて菌の名前から北里の名が消えてしまうという、悲しい顛末も明らかになりました。
ペストを発見っていうところで、そこからもまた発見者論争に巻き込まれ、また北里の名前が消えてしまうって、ちょっと悲しいところもありましたけども。
一方で、長男の誕生という嬉しいニュースもありました。次回は、コレラの免疫療法などについて語られる予定です。
まとめ
北里柴三郎は、1カ月・限られた予算という過酷な条件のもと、命懸けの解剖現場で香港のペスト菌をとらえました。原因菌の発見とネズミ駆除の提唱は世界の流行を抑える一助となりましたが、その栄誉をめぐる争いは長く続きました。
- 北里は自前の顕微鏡や培地を香港に持ち込み、着任2日目から解剖と菌の観察を始めた
- 青山や石神ら医師団もペストに感染し、中原医師は現地で亡くなるなど命懸けの調査だった
- 北里はコッホの条件をクリアしてペスト菌を発表し、ネズミを介した人獣共通感染症の仮説を立てた
- 発見はエルサンとほぼ同時で、当初は北里エルサン菌と名付けられたが、後にエルサン菌へ変更された
- 発見をめぐり緒方正規や森鴎外ら国内からも攻撃を受ける一方、多忙の中で長男の誕生を迎えた


