伝染病研究所の国有化に北里が乗った理由
前回の続きとして、伝染病研究所を国立にしていこうという動きが取り上げられます。1898年、明治31年のことです。
伝染病研究所の国有化の話は、元衆議院議員の長谷川泰長谷川泰 ── 明治期の医学者・政治家。医学教育や衛生行政に関わった人物として語られていますによって持ち上がりました。
福沢諭吉は、国有化すると国の管理下に入り自由がなくなるかもしれないと心配していました。それでも予算がしっかりもらえるだろうという見通しもありました。
北里としては、自分の弟子たちを海外留学させてやりたいという気持ちもあり、この国有化の話に乗ります。
福沢諭吉が倒れた日と、ヒル療法という治療
そんな中、この年の9月26日に福沢諭吉が倒れます。筑紫が丘養生園に勤務していた山根医師がすぐ駆けつけて診察を行い、北里もすぐに福沢邸へ向かいました。
福沢諭吉は寝室でいびきをかいて眠っていました。脳の血管が切れた障害だと思われますが、当時は脳手術など夢のまた夢で、MRIもありませんでした。
行われたのは、とりあえず頭を冷やすために氷嚢を乗せることでした。そしてヒル療法が試されます。
ヒル療法は、おでこにヒルを吸い付かせて悪い血を吸ってもらうという、いわゆる瀉血にあたる方法です。
なるほど。へー、そんな治療法があったんだ。
あきさんは、この療法自体には何の意味もなかっただろうと話します。ただ当時はこれがまだ治療法として生きていた形でした。
福沢は数日間一進一退を繰り返しましたが、2週間ほどで意識が回復したそうです。しばらく喋れませんでしたが、1ヶ月ほどで起き上がれるようになり、言葉も徐々に回復していきました。
奇跡ですね。
当時はこうした治療しかなく、一度倒れると回復は難しかったなかで、脳出血のかなり軽い部類だったと考えられます。
国有化の完了と、「妬む者がいる」と書かれた引き継ぎ文書
1899年、明治32年の3月31日、大日本私立衛生会から伝染病研究所が国に献納されることになります。
伝染病研究所が内務省衛生局に移管される際、前衛生局長の後藤新平から、議員を辞めて局長になっていた長谷川泰への引き継ぎ文書が残っています。
その文書には、伝染病研究所の功績は肩を並べるものがないほど優れており、そのせいで功績を妬む一部の学者の中には研究所を非難する者もいる、と書かれていました。
さらに、今後さまざまな免疫血清療法が開発されれば順次国立の血清薬院に移し、全国の需要に対応する必要があるという内容も記されていました。
その通りですけどね。
ちゃんとそこ(妬む者がいること)を書くっていうのがまた面白いなと。
長谷川らの活躍により、伝染病研究所は北里を所長としたまま、内務省管轄の国立研究施設となります。
「辞めさせられたらどうする」と問う福沢の助言
病み上がりの福沢に北里が国有化を報告すると、福沢は北里に尋ねます。国は君を辞めさせることがあるかもしれない、その時はどうするのか、というものでした。
国はですね、君を辞めさせることがあるかもしれない。その時にはどうする。
北里は、そのようなことはないでしょう、少なくとも私が死ぬまではないと答えます。しかし根拠を問われると、長谷川が頑張ってくれている、後藤新平が守ってくれるといった程度で、確たる根拠はありませんでした。
根拠はなかったわけですね。
福沢は助言します。政府は時に防衛を行う、これには抵抗しなければならないし、終始監視しなければいけない、というものでした。
福沢は同じことを後藤新平にも尋ねます。もし国が考えを変えて北里を免職したらどうするのかと詰問しますが、後藤もそんなことはないでしょうと答えました。
さらに福沢は、筑紫が丘養生園に事務長として送り込んでいた田畑にも指令を出します。政府はいつ考えが変わるかわからないから、足元の明るいうちに資金を貯めて独立の準備をしておくように、という助言でした。
福沢諭吉さんがここまで政府を、なんていうか、信用しない理由って何なんでしょうね。
あきさんは、藩閥政治で薩摩と長州が権力を取り合っており、国のことを考えて動いているのかという不信が福沢にあったのだろうと話します。
福沢自身は政府に入るチャンスもあったと思われますが、外から見ておくという姿勢があったのではないかと語られます。
ここまで執念があるのがすごいな。まあそのおかげで進んでいくわけですけど。
ネズミ1匹5円で買い取る東京市の政策
ここで少し脇道に逸れた話として、初代東京市の市長が、この当時ネズミ1匹を5円で買い取る政策を始めた件が紹介されます。
北里は香港でペストを発見しましたが、その後、北里といろいろ争うこともあった緒方正規緒方正規 ── 明治期の日本の細菌学者。北里柴三郎と学説をめぐって対立したことでも知られていますが研究を進めました。
緒方は、ネズミについているノミが人の血を吸うことで最初の感染が起こると証明します。この発見がセンセーショナルで、ネズミがいなければペストは広がらないと考えられました。
そこで税金を使い、ネズミ1匹を5円で買い取る政策が始まります。東京市民はネズミ狩りに励み、毎年20万匹あまりのネズミが買い上げられたそうです。
さらに、裸足で歩くとネズミに噛まれてペストになるとして裸足禁止令も出ました。裸足で歩くと拘束されたり罰金を払わされたりしたそうです。
しかし衛生が悪いからネズミがいるわけで、狩っても隙間ができてまた増えるため、この政策の効果はあまりなかったと言われています。
そもそもね、その環境を変えないとって話です。
あきさんも、下水の整備などが大切だと応じます。国もいろいろ試行錯誤していた時代だったことがうかがえます。
福沢諭吉の死と、長与専斎の別れ
1901年、明治34年、北里48歳の年に福沢諭吉が再び倒れます。足のしびれを訴え、言語不明瞭になり、錯乱状態となって倒れたそうです。
そして倒れて数日で福沢は亡くなります。北里は、私財を投じてまで支援し続けてくれた最大の恩人を失うことになりました。
同じく長与専斎も深く悲しみ、旧友の福沢について「国家の不幸、これより大きいことはない」という言葉を残しています。福沢が近代国家の建設に民間側として尽力したことがしのばれます。
北里は葬儀の際に、自分の科学を育て、事業を守り育ててくれた先生が亡くなったと述べ、福沢の死を深く悼みました。
北里先生がここでなんとかこうやっていけたのも、福沢諭吉の支援がものすごい大きいですもんね。
翌年の明治35年、北里49歳の年には、長与専斎が心臓弁膜症で亡くなります。64歳でした。福沢諭吉も66歳で亡くなっており、この当時としては長生きな方だったと考えられます。
長与専斎は、福沢諭吉を北里に紹介してくれた大恩人でした。内務省衛生局長として北里をドイツに留学させ、ロベルトコッホのもとで細菌学を学ぶ機会を提供した人物です。
帰国後に職が得られなかった時には福沢を紹介し、伝染病研究所の設立まで導いてくれました。北里を作り上げた人物と言ってよく、その恩人が立て続けに亡くなった年でした。
柱が二つ(亡くなってしまった)。
日露戦争下で進んだ3機関の統合
この頃、日本は日清戦争を経て、1904年、明治37年の2月10日に日露戦争が勃発します。不安定な時代が続いていました。
政府は日露戦争に備え、戦費調達のためにさまざまな部門を統合し、運営を効率化しようとしていました。
北里は、伝染病研究所と、天然痘ワクチンをつくる種苗製造所、そしてすでに国に引き渡していた結核薬院の3機関を統合し、効率的に運用しようと内務省に提示します。
国としても予算を減らしたい狙いがあり、良い提案でした。長谷川泰も呼応して動き、翌年の明治38年4月1日に3機関が統合されます。
ただ、組織の組み替えは人事で簡単にできても、場所の統合は難しいものでした。それぞれの人間が兼務しており、勤務しやすくするため一か所に集めることが重要だったからです。
当時の東京府では広い土地が減っていましたが、白金台に広大な土地があることがわかり、確保に成功します。
日露戦争は明治38年、1905年の9月5日にポーツマス条約を調印して終了します。
コッホ・パスツールに匹敵する研究所の落成
1906年、明治39年の11月30日、3機関を統合した大伝染病研究所が落成します。この研究所は後に土地を買い足し、最終的には2万2千坪の敷地になりました。
落成式で北里はこれを誇り、演説します。伝染病研究所がドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所に匹敵する研究所になったと述べました。
諸君、今日は記念すべき日となった。我が伝染病研究所はここにドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所に匹敵する研究所となりましたよ。
北里はこの大研究所ができてから、側近にこれからはさらに講演、つまり講義活動や教育活動に力を入れると宣言します。
全国の衛生技術官、今でいう保健所の職員を研究所に集め、細菌学や予防消毒論、伝染病の治療方法などを講義しました。顕微鏡検査や細菌の培養方法、動物試験のやり方、臨床診断の出し方なども練習させました。
この講義は、地方の衛生行政や感染症の予防・治療に広く役立っていくことになります。北里がどんどん教えていく側に回っていく姿が語られます。
15年ぶりのコッホ来日と、迎えに行った北里
1908年、明治41年の6月12日、北里が望んでいたことが実現します。ロベルトコッホロベルトコッホ ── 結核菌やコレラ菌の発見で知られるドイツの細菌学者。北里柴三郎はコッホのもとで学びましたが北里の招きに応じて来日したのです。
15年ぶりの再会でした。北里は弟子の志賀潔、北島多一、宮島幹之助の3人を従えて横浜港にコッホを迎えに行きます。二人は言葉もそこそこに涙を流して再会を喜んだそうです。
すごい。15年ぶりですもんね。
当時のヨーロッパの遠さは今の比ではなく、再会の喜びは大変なものだったと考えられます。北里はコッホを帝国ホテルに迎えました。
次の日、北里は森鴎外がコッホを表敬訪問するのに同席します。軋轢のある二人ですが、もともと北里がコッホ研究所に残れたのは森のおかげでした。
陸軍軍医の石黒の命令で、森はミュンヘンに行き、代わりに中浜東一郎がコッホのもとへ来る形で交代させていたら、今の北里はなかったといいます。中浜東一郎はジョン万次郎の息子です。森は仲違いはしていても恩人でもある人物でした。
当時の日本はコッホを大歓迎しました。コッホ夫婦が歌舞伎を見学した際には、森鴎外が演目の説明をドイツ語に訳して渡し、コッホ夫人は大変喜んだそうです。
結構ちゃんと歓迎したんですね、日本としても。
なお、コッホ夫人はコッホの30歳年下だったそうです。あきさんが調べたところ、コッホは死別ではなく離婚して、その後に若い妻を娶っていたといいます。
次回は、北里がコッホを日本に招いて案内し、いろいろな人と会談していく様子が紹介される予定です。
コッホ先生自身も北里先生が日本でこう埋もれずにちゃんとやってるってことは嬉しかったんだろうなと思いながら。
あきさんは、北里が自分の力で作り上げた大研究所を、何よりコッホ先生に見せたかったのだと語ります。その続きは次回に回されます。
まとめ
今回は、伝染病研究所の国有化と、恩人である福沢諭吉・長与専斎の死、そして日露戦争下での研究所統合とコッホの来日までが語られました。北里が支援を受ける立場から、自ら研究所を築き、教育する側へ移っていく転換点がうかがえます。
- 伝染病研究所は1899年に国に献納され、北里を所長としたまま内務省管轄の国立施設となった
- 福沢諭吉は政府を信用せず、免職の可能性に備えて資金を貯め独立の準備をするよう北里に助言していた
- 1901年に福沢諭吉、翌年に長与専斎が亡くなり、北里は自分を作り上げた2人の恩人を立て続けに失った
- 1906年に3機関を統合した大伝染病研究所が落成し、北里は教育・講義活動に力を入れると宣言した
- 1908年、ロベルトコッホが15年ぶりに来日し、北里は横浜港まで迎えに行って再会を喜んだ


