執行猶予のキャリーを支えるサポート体制
前回、社内で暴力事件まで起こしてしまったキャリー・マリスは、一年間の執行猶予という形で会社に残ることになりました。
それでも、PCRの糸口は掴んでいそうだと判断され、上司のトム・ホワイトが彼を守ります。
トム・ホワイトは、有機化学合成の専門家であるキャリーが、生化学や分子生物学の実験を十分に理解していないと考えました。
そこで、キャリーのレポートの受け先を、分子生物学者のノーマン・アーハイムに託すことにします。
ノーマンならキャリーをコントロールできると考えたのかもしれません。あるいは、トム・ホワイト自身がキャリーから直接レポートを受けるのに、正直嫌気が差していたのかもしれません。
テニュアとサバティカル、アメリカ研究文化への注目
ノーマン・アーハイムは、ニューヨーク州立大学で生化学の終身在職権を持つ教授でした。
日本には終身在職権がなく、成果を出しても定年退職になる仕組みです。この違いを、番組では日本の惜しい点として話しています。
成果を出している人を定年で退職させるっていうのは、日本はかなりもったいないなと思いますよね。
逆に、成果を出さない人がずっといてるのも、いい加減席を空けろよって思っちゃいますけれどもね。
話は、アメリカでは研究者が企業や役人へと自由に行き来できる点にも及びます。とみーさんは、科学を一般向けに翻訳するサイエンスコミュニケーターという職種があることも挙げました。
1983年の秋、ノーマンはサバティカルを取り、一年間シータス社で過ごしていました。
番組の調べによると、サバティカルには決まりがあり、一年間取る場合は給料が半分になる代わりに最大一年まで取得でき、終了後は大学に戻って一定期間働く必要があるそうです。
キャリーとの決裂、別動チーム「PCRグループ」の発足
サバティカルを終えて一度大学に戻ったノーマンは、その後シータス社から人類遺伝学部門の責任者にとオファーを受け、会社に戻ってきました。
トム・ホワイトはノーマンに、キャリーを預かってPCRを成功させてほしいと頼みます。
この時点でキャリーはPCRの成功を主張していましたが、トムもノーマンも、それが本当に増幅されたDNAのバンドなのかまだ確信を持てずにいました。
そこでノーマンは、増えたと主張するDNAが本物かを確かめるため、キャリーにサザンブロットでの検証を提案します。
ところがキャリーは、この提案を自分への敵視だと受け取り、拒絶してしまいます。対照実験で証明してみては、と言われただけでした。
ちょっと排他的なところだったり、愛されキャラかっていうと、そういうわけではなく、気難しい職人さんというか、そういった印象を受けますよね。
共同研究は難しいと判断したノーマンは、策を取ります。自分の人類遺伝学チームから優秀な人材を集め、キャリーとは別に「PCRグループ」を作ったのです。
メンバーには、実験テクニックに優れたテクニシャンのスティーブン・シャーフや、繰り返し作業を得意とするランディ・サイキが加わりました。
毎週金曜には、一週間の成果を報告し合い、次の改善を議論しました。この席にはキャリーと、彼を唯一慕っていたテクニシャンのフレッド・ファナールも参加を認められていました。
キャリーはフレッドと別枠でPCRを追いながら、報告会に出て相手方の進捗を見つつ議論にも加わる、という形になっていました。
キャリーと右腕のフレッド・ファナールが別枠で独自にPCRを追い求めた
シャーフやサイキら人類遺伝学チームの精鋭が、遺伝子診断への応用を見据えて取り組んだ
PCRの成功と、3〜4日かかった当時の実験
トム・ホワイトのチームが目指していたのは、PCRの技術的成功そのものではなく、会社から命じられていた遺伝子診断法の実現でした。
そのため最初からテンプレートをヒトゲノムに絞り、ベータグロブリン遺伝子を増やせるかを試していました。
試行錯誤の末、キャリーとも仲の良かったスティーブン・シャーフが、1984年11月15日に、ほぼ完全な成功と思われる実験データを得ます。
これはマリスがドライブ中にアイデアを思いついてから、20ヶ月後のことでした。
ただ、同じ実験を何度繰り返しても再現性が得られず、たまたま成功した一回という状態でした。
ここからキャリーも加わり、変数を変えながら検討を重ねます。加熱と冷却のサイクル回数を増やすと増幅量が増え、DNAポリメラーゼを10分の1に減らすと増幅量は減るものの特異性が高まる、といった結果が得られていきました。
当時のPCRは、結果が出るまで3日から4日かかったといいます。
成功確率は徐々に上がっていきましたが、原因もわからず突然失敗することもあったと語られています。
他社に迫られ、特許申請へと走る
1985年の春、アーハイムとトム・ホワイトは、PCR以外の自社技術を大企業に売り込みに回っていました。
その際、PCRについても「DNAを増幅する技術がまもなく開発できる」とちらっと匂わせることがあったといいます。
ところが、売り込み先の大手企業の研究者の中に、PCRの概念をもう少しで思いつきそうなレベルまで考えている人物がいることを知ります。
ここで彼らは危機感を持ちます。早く特許を申請しなければ、他社に先を越され、権利をシータス社から奪われかねないという焦りです。
PCRはそろそろ世間に公表しないと、その権利はシータス社から奪われてしまうかもしれない。とにかく思いついたらすぐに特許申請しておかないとやばい、ということですね。
こうして1985年3月28日、シータス社は慌ててPCRの特許申請を行いました。
この売り込み活動の中で、シータス社はコダックやスミスクラインへの診断技術の売り込みを進め、パーキンエルマー社とはジョイントベンチャー契約を結ぶことにも成功しました。
当時はPCRが商業的に成功するとは誰も考えていませんでしたが、このジョイントベンチャーから多額の資金を得たことで、2年後にPCR用の装置サーマルサイクラーがパーキンエルマー社から発売されることになります。
PCRとパーキンエルマー、そして機器改良の記憶
バイオテックメーカーの営業マンであるあきさんは、最初の勤務先がパーキンエルマーからライセンスアウトを受けたPCRを日本で販売するメーカーだったと明かします。
学生時代に初めて触れたPCR実験もパーキンエルマー製で、感慨深く感じたと語られています。
PCRって今はパーキンエルマーさんのイメージがあまりないので、そういう歴史だったんだなって思って驚きました。
その後、PCRの代名詞はアプライドバイオシステムズ、通称ABIへと移っていきます。とみーさんは、コロナ検査の際にABIの機械が入荷待ちになった話も紹介しました。
初期のパーキンエルマー製PCRには、蓋が熱くなるホットリッド機構がまだありませんでした。
そのため、加熱時に反応液が蒸発しないよう、チューブの液の上にオイルを入れて蓋代わりにしていたといいます。とみーさんはこれを、料理の落とし蓋にたとえました。
蓋が熱くならないため、蒸発を防ごうと反応液の上にオイルを垂らしていた。机が油でベタベタし、コンタミの原因にもなった
蓋自体が熱くなるホットリッド式になり、蒸気が結露せず液が減らない。油が不要になった
あきさんは、蓋を温めるだけで油もコンタミの心配もなくなったこの改良に、当時とても感動したと振り返ります。
たった蓋を温めるっていうだけのことなんですけど、うわ、これはすごいって思いましたね、本当に。
学会発表という次の勝負
パーキンエルマーから多額の資金を得た頃、ノーマン・アーハイムはアメリカ人類遺伝学年次大会への参加要請を受け取ります。
大会はその年の10月末に開かれ、講演趣旨の提出は6月30日でした。
ノーマンはシータス社のボードメンバーと協議し、「人の遺伝病への応用」という形でPCRを発表することで会社の合意を得ます。
ただし発表時間はわずか15分。この短い枠でどう挑むか、彼らは作戦を練ることになります。その中身は次回へと持ち越されました。
まとめ
独善的なキャリーを守りつつも共同研究に行き詰まったシータス社は、別動チームでPCRを成功させ、他社に迫られる中で特許申請へと走りました。技術としてのPCRが、会社の思惑と時代の文化の中で形になっていく過程が語られた回でした。
- 執行猶予中のキャリーはサザンブロットでの検証提案を敵視と受け取り、共同研究は決裂した
- ノーマン・アーハイムは別動の「PCRグループ」を作り、1984年11月にほぼ完全な成功データを得た
- 他社が概念に迫っていると知り、1985年3月28日にシータス社はPCRの特許を申請した
- パーキンエルマーとのジョイントベンチャーが、後のサーマルサイクラー発売と資金確保につながった
- 次回は、15分という短い学会発表枠でPCRをどう披露するかの作戦が語られる
