他社に先を越されまいと立てた発表計画
前回は、他社の研究者がPCRらしきアイデアを口にしたため、シータス社が急いで特許を申請するところまで話が進みました。
そこから会社は、PCRを世に公表する計画を立てます。ノーマン・アーハイムが、アメリカ人類遺伝学会での発表を提案しました。
発表時間は15分と短いため、それに向けてストーリーを組み立てていきます。
会社が決めた計画は2段構えでした。まず、マリスがpBR322プラスミドで得たデータを使い、PCRの基本概念を説明する基礎編の論文をマリスが出します。
続いて、ベータグロブリンの点変異を遺伝子診断できることを、PCRとサザンブロッティングで証明する応用編の論文を出します。これを学会発表後に続けざまに投稿する作戦でした。
基礎編の一番手をマリスに任せたのは、PCRを思いついた本人への敬意からでした。ところが、マリスはこれに反発します。
「秘密にしろ」というマリスの反発
マリスは、PCRは商売上の秘密として一切隠しておけと主張しました。
彼の案は、秘密の溶液だけを発売し、その中にDNAを入れて温度を上げ下げすれば遺伝子診断ができる、という製品として売れというものでした。
しかし、すでに特許を出願済みだったため、特許が通れば技術はいずれ明らかになります。
さらに、試薬をライバル企業が分析すれば中身は解析されてしまいます。結局マリスは折れ、学会発表に同意しました。
ただ、解せないものがあったのか、自分が担当するはずの基礎編の論文には、いろいろな言い訳をしてなかなか手をつけませんでした。
今だと、この順番でこのタイミングでこの内容を発表して、というのは全部決まっていて、自分で選べるものではないというイメージがありますね。
歯車が一つでも違うと、特許や商売で負けてしまう印象なので、そこで「うーん」と言えるのはすごいなと思ってしまいます。
正直、何も考えていないわがままとしか思えなかったんですよね。このわがままさは何なんだろうと思って、調べながらつくづくマリスのことが嫌いになってしまいました。
フラクタルに夢中な発明者と会社の言い訳
この当時マリスが何をしていたか、トム・ホワイトの記憶によれば、彼はフラクタル図形の一種であるマンデルブロ集合図形に夢中でした。
パソコンで数式を書くと複雑な図形が描き出され、それをプリントアウトすることに熱中していたといいます。本来なら実験データをまとめて論文にすべき時期でした。
会社への言い訳もふるっていました。とてつもない金を生むかもしれないPCRのアイデアを提供したのだから、自分は放っておいて自由に遊ばせろ、というものです。
まさしくわがままですね。
本当にわがままですね。こんなことが許されるのかという感じですけれども。
正確な実験を積み上げたPCRチーム
一方、ノーマン・アーハイムは、学会発表と応用編の論文データを集めるため、正確な実験をこなせるテクニシャンとしてランディ・サイキを引き抜きました。サイキは日系人だそうです。
サイキはその正確な腕で実験を繰り返し、データを積み上げました。当時のPCRは温度を上げ、酵素を足す作業を何度も繰り返す必要がありました。
あきは、こうした地道な繰り返しは日本人が得意とするところかもしれないと話します。前回取り上げた北里柴三郎も、ドイツ留学中に精密な実験を重ねて破傷風菌を発見しました。
日本人の方は特に、手先が器用だとか、正確性が高いという形で評価いただけていることが海外では多いみたいですね。
チームを組み上げたアーハイム自身は、8月にシータス社を去ります。南カリフォルニア大学の生物学科長という立場でアカデミアに戻りました。
キャリーに嫌気が差したわけではなく、企業で実用的な開発を十分に経験できたと考えたそうです。その後もシータス社の相談役を続けました。
さらに彼は、たった一つの細胞からゲノムDNAをPCRで増やす技術を確立し、今話題のシングルセル解析ゲノム分野のパイオニアにもなります。
応用編は掲載、基礎編は却下
PCRチームはサイキを中心にデータを積み上げ、9月20日に応用編の論文がサイエンスに投稿されます。10月の学会発表に向けても順調に進みました。
対して、基礎編を書けと言われていたマリスの論文は、一向にできあがる気配がありませんでした。トム・ホワイトは11月1日を最後通告とします。
10月末のアメリカ人類遺伝学年次大会で、PCRが世間に発表されます。発表者はテクニシャンの立場ながらランディ・サイキが登壇し、マリスも共著者として名を連ねました。
発表後の11月15日、応用編の論文がサイエンスに受理され、12月20日号に掲載されます。題名は「鎌状赤血球貧血診断のためのベータグロブリン配列の制限酵素増幅と制限部位解析」でした。
鎌状赤血球症を見分ける仕組み
応用編の内容を簡単に紹介します。まず、鎌状赤血球症を持つかもしれない人や、妊娠中の胎児の羊水からDNAを抽出します。羊水には胎児のDNAが含まれています。
そのDNAを鋳型にPCRを行い、ベータグロブリン遺伝子の変異領域を含む部分を増やします。
次に、DdeIという制限酵素で処理します。制限酵素は特定の配列を認識してDNAをカットする酵素です。
正常型では、この配列が認識されてカットされます。一方、異常型ではカットされません。当時は配列を読むのが手間だったため、この違いを利用して見分けました。
人間の遺伝子は父母から一つずつ受け継ぐ一対です。正常型ホモでは両方が切断され、短いDNAのバンドが2本現れます。
異常型ホモでは両方とも切れず、長いDNAが1本のバンドとして現れます。
最も見分けたいのは、片方が異常で片方が正常なヘテロの場合です。この場合、片方は切れず長いまま、もう片方は切れて2本に分かれ、合計3本のバンドが出ます。
| 遺伝子の型 | 切断 | 現れるバンド |
|---|---|---|
| 正常型ホモ | 両方切断 | 短い2本 |
| 異常型ホモ | 切れない | 長い1本 |
| ヘテロ | 片方だけ切断 | 長い1本と短い2本 |
制限酵素処理の後、電気泳動し、サザンブロッティングでバンドをX線フィルムに焼き付けて確認します。こうして病気の有無や、ホモかヘテロかまで見分けられるようになりました。
研究技術が開発されてすぐに社会に還元されることはなかなかないので、自分がやっている技術も社会に還元されるのかなというところで、すごい衝撃だったのかなと思います。
当時、PCRは金になると思われていなかったようです。うまい制限酵素がなければ使えず、他の病気では難しいのではないかとも見られていました。ただの実験手法として一般化される未来は、まだあまり想像されていませんでした。
会社が尻拭いした基礎編と、PCRが認知されるまで
キャリーは受け持った基礎編を12月にようやく仕上げ、サイエンスに投稿します。
ところが、応用編とどう違うのかを説明する手紙を同封するよう言われていたのに、面倒がってやりませんでした。サイエンスはオリジナルではないと判断し、却下します。
トム・ホワイトは慌ててマリスと一緒に事情説明の手紙を書き、再投稿しますが、再び拒否されます。
マリスは、こうなったのは会社のせいだと逆恨みし、自分の手柄はサイキらに盗まれたと怒り出しました。
焦った幹部たちは、掲載してくれそうな雑誌を探し回り、Methods in Enzymologyという雑誌が引き受けてくれました。
捨てる神あれば拾う神ありというところで、酵素に関する論文だったからこそ、そういうニッチな雑誌で「ぜひ掲載してください」となったタイミングもあったかもしれないですね。
1986年の早い時期に出版される予定でしたが、遅れに遅れて、実際に出版されたのは1987年でした。この頃にはPCRはすでに広く知られた技術になっていました。
キャリー・マリスが世間からPCRの発明者と認知される最初のきっかけを作ったのは、シータス社分子生物学部門のディレクター、フランク・マコーミックでした。
彼は、DNAの二重らせん構造を解明した一人であるジェームス・ワトソンが運営するコールドスプリングハーバー研究所に連絡を取ります。
そして1986年5月、同研究所の「ホモサピエンスの分子生物学」というシンポジウムで、マリスにPCRを発表させるべきだと強く要請しました。この頃にはヒトゲノム計画も始動していました。
その中心がPCRだろうというところで呼ばれたのかなと思いますが、今となってはそうなので、そこは先見の明というか、ワトソンさんのすごさかなと思います。
この発表のおかげで、マリスは科学の大舞台で初めて「PCRのキャリー・マリス」として認知されます。彼はここで発表できたことを、その後ずっと誇りにしていきました。
人力のPCRと、自動化への課題
ただ、この時点でのPCRは、熱に弱いDNAポリメラーゼであるクレノウ断片を使っていました。そのため、1サイクルごとに酵素を足す必要があり、非常に大変な実験でした。
PCRが知られるようになってからも、論文はたった一報しか出ていませんでした。温度を上げ下げするたびに酵素を足す手間と、クレノウの性能の低さから、なかなか成功しなかったと考えられます。
日本に入ってきた時にはすでに改良された形だったので、自分の手でやる経験をされた先生は少ないのですが、最先端でやれた先生やアメリカに留学された先生からは、そういう話を聞いたことがありますね。
95度のお湯につけて、また37度の水につけて、というのを手作業でやっていましたという話は聞きました。
最初のPCR機材はパーキンエルマーのもので、日本では宝酒造が総代理店としてライセンスを受けて輸入・販売していました。宝酒造のバイオ部門は現在、タカラバイオとして独立しています。
あきが営業マンの先輩から聞いた話では、その機械は当時一台300万円もしたそうです。温度を上げ下げするだけの機械としては、かなり高価なものでした。
300サイクル温度を上げて下げてするだけの機械が300万円したらしいので、なかなか大変な機械だったんだなということですね。
いずれにせよ、この作業を自動化しなければ、いつまでも人間の手に頼ることになります。次回は、その自動化への道が語られます。
まとめ
PCRを世に出す過程は、発明者マリスのわがままと、それを支えた会社の戦術のせめぎ合いでした。応用編は遺伝子診断という具体的な成果で衝撃を与え、会社の尽力でマリスは発明者として認知されていきます。それでも当時のPCRは人力頼みで、次の課題は自動化でした。
- 他社に先を越されまいと、シータス社は特許申請と学会発表を急ぎ、基礎編と応用編の2段構えの論文戦術を立てました。
- マリスは秘密主義を主張し、担当の基礎編を後回しにするなど、わがままな態度で会社を振り回しました。
- ランディ・サイキらが積み上げた応用編は、鎌状赤血球症の遺伝子診断を実現し、サイエンスに掲載され研究者に衝撃を与えました。
- マリスの基礎編は却下が続き、会社が探し回ったMethods in Enzymologyに1987年ようやく掲載されました。
- 当時のPCRはクレノウ断片を使う人力の実験で機械も高価であり、次回のテーマである自動化が大きな課題として残されました。
