戦場になったハンガリーと母の少女時代
今回はカリコ教授の母の話の途中から続けられます。時代背景を丁寧に伝えたいという狙いから、詳しく語られていきます。
母は1943年、14歳のときに町の薬局で働き始めたそうです。中学2年生の年齢から独り立ちしていたことになります。
祖母はガチョウを育てて売り、3人の娘を育てていました。そのガチョウを売り払い、第二次世界大戦の足音が迫るなか、町にいた方が安心だろうと町へ移り住みます。
ところが、ハンガリーにドイツ軍が侵攻し、それと戦うためにソ連軍も入ってきました。ハンガリーは意図せず戦場になってしまいます。
家族は防空壕に逃げ込みました。外に出てみると、安心だろうと思って買った家は焼けてしまっていたそうです。
燃え残ったのは家畜を飼うための離れの小屋でした。それを改修して人が住めるようにし、祖母は最後までそこに住んでいたそうです。
そうなんですね。家畜小屋で。
家畜小屋を改修して家にして。すごいですね。
占領下の記憶と両親の出会い
町はソ連側に占領されました。祖母は兵隊のご飯を作るよう、ソ連の兵士から命じられたそうです。
命令に近い依頼でしたが、この町に来たソ連兵はとても優しかったといいます。
なんかソ連兵ってめちゃめちゃ乱暴者で。日本兵なんかもむちゃくちゃされたっていう、シベリア抑留とかのイメージがあるんですけれども、ここに来たソ連兵たちはすごい優しかったそうです。
一方で、戦場になった町には壊れたソ連の戦車が放置されていました。母がぼそっと語った思い出によると、当時15歳の母と同じくらいの年頃の少年兵の死体が、その戦車の周りに転がっていたそうです。
なかなかきついですね。
きついですね。本当に戦争って嫌なもんだなっていうのがよくわかります。
その後、母は集団農場で経理の仕事をするようになります。数字が得意だったのだと考えられます。
同じ集団農場で働いていた父と出会い、頭が良くて勤勉な父にすぐ夢中になって、出会って数か月で結婚したそうです。当時は出会ってすぐ結婚するのが普通だったといいます。
財産没収とハンガリー動乱
共産党政権のハンガリーは、まず多くの人々の財産を没収しました。経済は一気に低迷し、生活水準は悪くなって、戦後の食料は配給制になったそうです。
そして1956年10月、カリコが生まれた翌年に、ブダペストで学生たちが立ち上がります。反政府の意思を示し、議会に向かってデモ行進をしたそうです。
背景には隣国ポーランドの動きがありました。ポーランドでは選挙があり、改革派が主導権を握って、ソ連の軍事介入を回避することにも成功していたといいます。若者たちはその動きを見ていたと考えられます。
しかしハンガリーは悲惨でした。政府がソ連に助けを求め、ソ連軍が軍事介入のために入ってきたのです。
これは僕、動画で見たことあるんですけれども、ソ連の戦車が本当に普通に街に入ってきて、民衆に発砲するというような形で。
この蜂起はハンガリー動乱と呼ばれます。死者は数千人、逮捕者は数十万人にのぼり、2万2千人が投獄され、数百人が処刑されたそうです。
これ翌年ってことは、カリコ先生が1歳ってことですよね。
1歳ですね、の時期ですね。
見せしめにされた父と、それでも支えた町
父は治安が危なくなるのを心配し、地域の人たちと警防団を組織しました。不安から事件を起こす人が出るのを抑止するための活動でした。
ところが反政府活動に政府が敏感になっていた時期だったため、父の行動も反政府的だと見なされて逮捕され、集団農場の仕事も奪われてしまいます。
せっかく守ろうって組織したのにね。
自由のない社会では、政府に睨まれた人を雇うと、その雇い主も睨まれる可能性がありました。そのため父は誰からも雇ってもらえなくなります。政府に反抗するとこうなる、という見せしめにされたのかもしれません。
ただ、父は町の人々から愛されていました。闇家畜を解体してソーセージを作る仕事を頼まれたり、学校を建てる工事に駆り出されたり、春には羊の毛刈りの出稼ぎに出たりして、なんとかお金を稼いだそうです。
父の母が言った「肉の捌き方を知っていれば一生食べるに困らない」という格言が、このとき正しいと証明された形になります。
すごいな。すごい時代を本当に生き抜いてきたっていう感じですね。
1961年、父はついにパブの従業員という定職に就くことができました。姉と大きくなったカタリンも、店の掃除やタバコの在庫補充、空き瓶のリサイクルなどを手伝ったそうです。
このパブで、置いてあるワインが発酵しすぎてお酢になっていないかを確かめるため、9歳のカタリンがワインを味見していたといいます。当時は割と普通のことだったようです。
人口を増やす政策と手厚い医療
この時代は東西冷戦の真っただ中でした。東側のハンガリーは西側より優れていると示すため、教育に力を入れていたそうです。
もう一つの課題は人口でした。ハンガリーは第二次世界大戦で百万人が亡くなっており、もともと人口の少ない国にとって大きな痛手でした。
人口を増やすため、ハンガリー政府は中絶を禁止しました。その結果、子供は爆発的に生まれ、政策は成功します。ただし貧しいため、どう食べさせるか困る家庭も多かったそうです。
学校では生徒が急増し、1クラス50人でも収まりきらず、午前と午後に分けたそうです。先生も足りず、退職した先生を呼び戻したといいます。
そのため、カタリンの2年生の担任は、祖母も母も教えたことのある先生でした。三世代を教えたことになります。
一体いくつなんですかね。
子供の健康もとても大事にされました。医者がオートバイでやって来て、調子の悪い子に抗生物質やビタミン剤を処方してくれたそうです。子供は人口を増やすために大切にされていたと考えられます。
ポリオワクチンとロックダウンの記憶
カタリンは幼稚園の頃、みんなで歩いて街の病院に行ったことがあります。そこで医療チームがいて、スプーンで液体を飲まされたそうです。
後から考えると、それはポーランド生まれのウイルス学者セービンが開発した、経口のポリオ生ワクチンだったといいます。
怖いですけどね。ちょっと菌普通に取ってるってことですかね。
ポリオは神経系に入り込むと麻痺や呼吸困難を起こし、死亡することもあります。後遺症で一生歩けなくなる子供もいました。
ハンガリーは取り組みが早く、カリコが14歳になった1969年にはポリオの症例がなくなったそうです。これはアメリカより10年、イギリスより15年早い達成でした。
だいぶ早いですね。
当時は誰も嫌がらず、口答えせずワクチンを受けていたそうです。あきは、コロナのワクチンをめぐる議論があったからこそ、カリコは自伝で当時の様子を書いたのではないかと話しています。
口蹄疫やインフルエンザの流行のときも、町の人々は自主的に外出を控えていました。1963年に家畜の口蹄疫が流行った際は、町の人たちが感染拡大を防ぐために家にこもったそうです。
1968年、13歳のときには香港風邪と呼ばれたインフルエンザが猛威を振るい、このときも行動制限が行われました。彼女にとってロックダウンは当たり前のことだったのかもしれません。
なんか彼女からしたらロックダウンは普通じゃんみたいな、そういう感じもあるんだと思います。
農業で豊作になると、農家だけでは手が足りず、学校の全生徒が収穫を手伝うこともよくあったそうです。小さな世間ならではの団結が根づいていたと考えられます。
努力の人へ、そして恩師との出会い
カタリンは1、2年生の頃、五段階評価でほとんどが4でした。周囲から見れば十分な成績ですが、本人は悔しかったようで、努力を始めます。
努力して勉強すれば脳が鍛えられると学び、3年生以降はすべての成績が5になったそうです。ここから彼女の人生はずっと努力の人でした。
知れないことを知れるっていうのが、本人はめちゃめちゃ楽しかったみたいで。とにかく知りたい知りたいっていう知識欲で勉強をしまくったみたいですね。
中学1年にあたる7年生の頃から、本来は高校生が出るような科学や生物学、地理のコンクールに参加していました。中学2年にあたる8年生のときには、キシュイスラーシュの生物のコンクールで1位になり、県大会に進んで優勝したそうです。
父が働くパブには学校の先生がよく飲みに来て、父の前でカタリンを褒めてくれたそうです。父は鼻高々で、自慢の娘だったのでしょう。
県大会優勝で全国大会に進み、ブダペストへ向かいます。コンクールは紙の試験ではなく、人体を流れる血液の量や骨の名前を問われたり、草原に連れて行かれて名前を知っている草を全部集めてこいと言われたりしたそうです。
結果は全国3位でした。賞品もはっきり覚えていて、1位はチェコスロバキアへの1週間の旅行、2位はソ連製のラジオ、3位のカタリンはソ連製のカメラをもらったそうです。以来、生活の様子をカメラに収めるのが趣味になったといいます。
全国大会では、自動車で来る子がいたことに驚いたそうです。自家用車を持つ人は周りにおらず、非常に驚いたと語られています。ラジオ番組にも出演し、町に戻ってからその放送をわくわくして聞いたそうです。
いよいよ高校では、生物と、一生を決めてくれる恩師に出会います。トートアルベルト先生です。
先生は生物学部という部活の担任で、カリコもそこに所属しました。何か問題があると、答えを教えるのではなく「どう思う?」と聞いてくれたそうです。これが本当に良かったと語られています。
トートアルベルト先生はいまも元気で、カタリンと定期的にやり取りを続けているそうです。
まとめ
戦争、財産没収、父の逮捕という苦難のなかで、カリコの家族は懸命に生き抜きました。そして手厚い医療や熱心な教育、努力を楽しむ性格と恩師との出会いが、幼いカタリンを少しずつ形づくっていきます。
- 母は14歳から働き、戦場となった町で少年兵の死体を目にする少女時代を過ごした。
- 父は警防団を組織したことで反政府的と見なされ逮捕されたが、町の人々に支えられて生き抜いた。
- 人口を増やす政策のもと、ハンガリーは早くからポリオワクチンを普及させ、手厚い医療を整えていた。
- 口蹄疫やインフルエンザ流行時の行動制限など、カリコにとって感染対策は当たり前の経験だった。
- 努力を楽しむ性格でコンクールに勝ち進み、高校で「どう思う?」と問いかける恩師トートアルベルトと出会った。
