番組紹介とカリコ教授の概要
この番組は、生命科学で画期的なブレイクスルーを成し遂げた研究者たちの人生と、その背後にあるドラマを紹介するものです。
記念すべき第1回で取り上げるのは、メッセンジャーRNAワクチン技術のパイオニアであるカタリン・カリコ教授です。
とみーは、カリコ教授の経歴を次のように紹介しています。
カリコ教授は1955年、ハンガリーの小さな町に生まれ、幼少期から科学への強い好奇心を抱きました。
大学では生物学と生化学を学び、1982年に生化学の博士号を取得します。
ただ、当時のハンガリーではRNA研究に必要なリソースが限られていました。そのため、より自由に研究を進めようと、1985年にアメリカへ移住する決意をします。
たった1,200ドルを娘のテディベアに隠して渡米したという話は、彼女の決意と挑戦心を物語っています。
この技術は、のちにCOVID-19ワクチンの開発を通じて多くの命を救うことにつながったと話されています。
「亡命」から「正式な渡米」への訂正
冒頭で、あきは前回の説明にあった誤りを訂正します。
カリコ教授はアメリカに「亡命」したのではなく、きちんとビザを取って手続きを経て渡米したという訂正です。
正式なルートで渡ったってことですね。
正式なちゃんと手続きを経て渡ったということになります。
戦後ハンガリーの村での暮らし
ここから、あきがカリコ教授の幼少期について語り始めます。
ハンガリーでは日本と同じく姓が先に来るため、現地では「カリコ・カタリン」と呼ばれます。ただし番組では、アメリカ式に「カタリン・カリコ」と呼ぶことにしています。
彼女は第二次世界大戦後、ハンガリー中央部の{要確認: キシューイサラーシュ}という人口1万人ほどの農業の街で生まれました。お父さんは肉屋を営んでいたそうです。
印象的なのは、当時の家の様子です。あきは、日本の田舎を思わせるような住まいだったと話しています。
当時のハンガリーですね。家は粘土と藁で固めた日干しレンガですね。
その上を漆喰で固め、分厚い茅葺き屋根が乗っていたといいます。
ハンガリーの冬はとても寒く、部屋がいくつかあっても、家族は一つの部屋に集まって暮らしていました。
部屋の隅にはおがくずを燃やすストーブがあり、燃料のおがくずは近所の木のおもちゃ工場からもらってきたそうです。自動車がなかったため、馬で家まで運びました。
何でも活用する、サスティナブルな生活
当時の暮らしは、あらゆるものを無駄なく使い切るものでした。
庭ではさまざまな野菜を育て、町の外のトウモロコシ畑では、実を家畜の餌に、芯を燃料にしていました。燃やせるものは何でも燃料にしたそうです。
そもそも、ゴミを捨てるという概念自体がなかったといいます。あきはこの暮らしぶりに驚いたと語ります。
サスティナブルな世界だったから、多分世界中そういう世界だったんだろうなと思うんですけども。
牛乳は近所の牛を飼う家へ空き瓶を持って姉妹でもらいに行きました。飲んだ後に瓶を洗った白い水も、豚にあげていたそうです。
当時はプラスチックが生活に入る前で、役に立たなくなったものは燃やす、そんな時代だったと語られています。
名前の日、ワクチン初体験、身近な科学
ハンガリーには「名前の誕生日」という独特の風習があると、あきは紹介します。
名前にて誕生日があるらしくて、博士はカタリンっていう名前なので、カタリンの日っていう形で、11月25日が彼女の名前の誕生日になるみたいなんですけれども。
毎朝ラジオでアナウンサーが「今日は誰々の日です」と伝え、学校ではその名前の子におめでとうと言う習慣だったそうです。
生まれた日とは別に、それぞれの名前に対応する日が決まっているという点が特徴です。とみーも興味を持った様子でした。
暮らしの中には、のちの科学者につながる体験もありました。10歳までトイレは家の外にしかなく、冬の夜はおまるで済ませていました。
家の井戸水は硬水すぎて洗い物に使えなかったため、お父さんが共同給水場まで毎日バケツで水を汲みに行っていたそうです。
情報の伝わり方も昔ながらでした。街には馬に乗った人が来て、太鼓を叩いて政府の決め事を知らせたといいます。聞き逃した人は井戸端会議でそれを知りました。
そうした「お知らせ」の一つが、鶏の予防接種の日でした。獣医学生が家を回り、子供たちが鶏を一羽ずつ捕まえて渡していたそうです。
これがですね、カリコ博士が世界を救うことになるコロナウイルスワクチンを開発した、あのカリコ博士のワクチン初体験ということのようです。
あきは、身の回りのあらゆる場所が科学の学びの場だったと語ります。木に登って鳥の巣を覗き、卵がかえって巣立つまでを観察していました。
豚の脂に炭酸ナトリウムを混ぜて石鹸を作る様子や、ジャガイモの害虫を壺に集めて鶏の餌にする体験もありました。彼女はこうした経験から、自分も食物連鎖の輪の一つだと学んだと話されています。
母方の祖母の花を市場に売る手伝いを通じて、植物にも詳しくなり、それが後々役立つことになります。
父の人生~肉屋の腕と激動の時代
家には少しだけ電気が来ており、レコードやラジオを聴けました。お父さんは音楽の才能があり、バイオリンや{要確認: シター}という楽器を弾けたそうです。
お父さんは小学校しか出ていませんが、二桁の掛け算を暗算でこなすなど、頭の良い人でした。9歳の時には両親が中古の泥レンガの家を買い、姉妹とお父さんで自分たちの手で修繕しました。
ここから、あきはお父さんの人生を紹介します。私生児として生まれ、「肉の捌き方を知っていれば一生食べるのに困らない」と母に言われ、12歳で肉屋の見習いに出ました。
第一次世界大戦後、ヨーロッパ全土が飢餓状態にありましたが、肉屋に入ったおかげで食事に困ることは少なかったそうです。腕を磨き、腕のいい肉屋になりました。
しかし第二次世界大戦が勃発し、お父さんはハンガリー王立陸軍に入隊します。
戦後、ハンガリーでは共産党が権力を掌握し、東側の国となります。ここから暮らしが大きく変わりました。
工業、金融、交通、教育などが国有化され、裕福な家は家や財産を奪われました。お父さんが働いていた精肉店も取り上げられてしまいます。
共産党は力を見せつけるため、秘密警察による監視や密告の奨励、政敵の処刑などを行い、多くの市民が投獄・移送された厳しい時代だったと語られています。
お父さんは肉を作ることも禁じられ、家畜は国有の生産場へ送られました。それでも人々は隠れて家畜を飼い、お父さんはそれを屠殺する闇仕事をしていたそうです。
夜、暗い中で家に呼ばれて作業をする際、子供たちは道を見張り、人が来ると知らせる係をしていました。カリコもお姉さんもそれをやっていたといいます。
いろんな環境下にはやっぱりそういうね、時代背景も入ると結構複雑な生活をしていたってことですね。
母方の家族と、続きへ
続いて、あきは母方の家族の話に移ります。こちらもかなり不幸な歴史を抱えていました。
ひいひい爺ちゃんとひいひいばあちゃんが殺され、残された子供たちが世間に放り出されました。その一人がひい爺ちゃんです。
ひい爺ちゃんは第二次世界大戦で兵士として戦い、戦死したと伝えられました。妻は絶望して自ら命を絶ってしまいます。
ところが戦争が終わると、戦死は誤りで、本人が帰ってきたそうです。あきは「いい加減な世の中だった」と当時を振り返ります。
残されたひいばあちゃんは、ガチョウを育てる農場を女手一つで営み、三人の娘を育てました。そのうち二番目の娘が、カリコの母ジュジャンナです。
なお、カリコの周りには姉やいとこなど「ジュジャンナ」という名前の女性が多く、区別がつかないほどだったといいます。お姉さんに「ジョーカー」という愛称がついていたのも、そうした事情があるようです。
今回はPart.1として、カリコ教授の生まれ育った幼少期と、父母それぞれの家族史までが語られました。続きは次回に持ち越されています。
まとめ
Part.1では、ノーベル賞科学者カタリン・カリコの原点として、戦後ハンガリーの村での暮らしと、激動の時代を生きた家族の歴史がたどられました。何でも活用する生活と身近な自然が、彼女の科学への好奇心を育てた土壌だったと考えられます。
- カリコは1955年、戦後ハンガリー中央部の農業の街で肉屋の娘として生まれた。
- 粘土と藁の家、おがくずストーブ、共同給水場での水汲みなど、あらゆるものを使い切る暮らしだった。
- 鶏の予防接種の手伝いが「ワクチン初体験」となり、身の回りの自然が科学の学びの場になっていた。
- 父は腕のいい肉屋だったが、共産化で店を奪われ、闇の屠殺仕事を続け、子供たちは見張り役を担った。
- 母方の家族も戦争に翻弄され、誤報の戦死や自死といった複雑な歴史を抱えていた。
