恩師トート・アルベルト先生との出会い
高校生になったカタリン・カリコは生物学クラブに入り、そこで生涯の恩師と出会います。
その先生の名前はトート・アルベルト先生です。男性の先生で、まだご健在だと話されています。
トート先生とカリコ先生の交流は長く続き、ノーベル賞を受賞した後、ご高齢になってからもカリコ先生はきちんと会いに行ったそうです。
なんか先生と生徒のすごいいい関係なんだろうなというのを、ちょっと感じますね。
トート先生の教え方には特徴がありました。問題や疑問があると「どう思う?カリコ」と尋ねてくれたそうです。
日本の教育では、問題が出たときに解き方や正解を教えてしまうことが多いかもしれません。
一方でトート先生は、正解ではなく「どう思うのか」を問いかけてくれたと話されています。
なんかこういう子供の育て方っていいなと思いました。
感銘を受けた科学者セント・ジェルジ・アルベルト
ある時、トート先生はハンガリー出身の科学者セント・ジェルジ・アルベルト博士のことを教えてくれました。
カリコはこの博士に非常に感銘を受けたそうです。博士は初めてビタミンCを単離した人物として知られています。
当初は豚の膵臓などにその物質が多いことが発見され、その後、柑橘系の果物にも多いことがわかったと話されています。
さらにパプリカに大量に含まれていることが判明しました。豚の臓器からわずかしか取れなかったものが、パプリカから簡単に集められるようになったそうです。
これにより、それまで非常に希少で研究にお金がかかっていた物質が、集めやすくなったと語られています。
博士はさらに、細胞がどう酸素を取り込みエネルギーとして利用するかという、クエン酸回路の解明も成し遂げました。
この博士は1937年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
トート先生は、この博士の言葉を使ってカリコ先生に問いかけました。生命を深く探求していくと、その過程で生命は次第にぼやけていき、最後には手の中に何も残らない、という趣旨の言葉だったそうです。
深いですね、なんかこの言葉。
あきさんは、この言葉を学問の世界に置き換えて「タコ壺化」という現象と重ねて解説しています。
たとえば医学の研究を進めると、肝臓の専門家、さらに特定の細胞の専門家、そしてその細胞で起こる現象の専門家へと、どんどん細分化していきます。
そうなると、本来は全体の命を見ているはずなのに、ものすごく細かい世界だけを見ることになってしまいます。
全体が見えていかなくなるってことですよね。
深掘りは必要だけれど、全体も見なければならない。行きつ戻りつしながら、タコ壺化しないようにという示唆だったのではないかとあきさんは話しています。
「科学研究者たちへ」の手紙
この素晴らしい博士は、その後アメリカに行ってしまっていました。そこで生物クラブのみんなで手紙を書こうということになったそうです。
面白いのは、博士がアメリカのどこにいるかわからなかったことです。有名人だから届くだろうと考え、郵便局員に相談しました。
そして住所を「アメリカ合衆国 セント・ジェルジ・アルベルト様」とだけ書いて送ったそうです。
おお。
すると数ヶ月後、返信が返ってきました。アメリカの郵便局員が一生懸命探してくれたのだろうと話されています。
返信は「紀州サラウシュの熱意あふれる科学研究者たちへ」という書き出しで、クラブの子どもたちを「科学研究者」として扱ってくれていました。
この「科学研究者たちへ」というタイトルを見て、カリコ先生は確信したそうです。偉大な科学者が自分に語りかけてくれたのだと感じたのです。
ここから交流はずっと続き、しょっちゅう手紙のやりとりをしていたそうです。トート先生はこの手紙を全部大切に残しているとのことです。
ストレスという概念を作ったハンス・セリエ
トート先生が紹介してくれ、カリコが感銘を受けたもう一人の人物がハンス・セリエです。
この人物が発見した、というより作り上げた考え方が「ストレス」という概念でした。
それまで、医学の中でストレスというものは存在として定義されていませんでした。
たとえば下痢という同じ症状であっても、感染症が原因なのか、がんが原因なのか、ストレスが原因なのかという区別が、以前はあまり考えられていなかったそうです。
セリエは体系的に一つずつ形を作っていき、その中でストレスも原因の一つになることを明らかにしました。
そもそも「ストレス」という言葉は、もともと物理学の言葉だったそうです。金属を押す側の物質をストレッサー、押されて形が変化する側をストレスと呼んでいたと話されています。
これを医学に持ち込んだのです。今では当たり前に使うストレスという言葉が、100年ほど前には概念すら存在しなかったのです。
概念がなかったんだ。100年前なのに。今やもうほとんどがストレスで出来上がってますけどね。
刑事コロンボが教えた探究の姿勢
第二次世界大戦後、ハンガリーは共産国家になっていました。そんな中で彼女が非常に好きだった番組が「刑事コロンボ」です。
これはハンガリーで唯一放送されていたアメリカのテレビドラマだったそうです。
コロンボはロサンゼルス市警殺人課の刑事で、みすぼらしいボサボサ頭に、ヨレヨレのトレンチコートを着たおじさんとして描かれます。
この番組は、いきなり殺人シーンから始まります。視聴者は一緒に推理するのではなく、コロンボがどう推理していくのかを楽しむ構成です。
犯人はたいてい裕福で頭が良く、自信のあるタイプです。コロンボは自分がバカなふりをして相手を油断させ、要所要所で鍵となる質問をしていきます。
そして最後、帰るふりをして振り返り、「あと一つだけ」と言って、グッと押し込むような質問をするのが定番でした。
なるほど。もう原点ですよね、刑事もののね。
このスタイルが、カリコが将来科学者になっていく中で影響を与えました。決め手に手が掛かりそうになるたびに「あと一つだけ」と思って実験を組み立てていたそうです。
刑事コロンボが、彼女の探究の原点になったのかもしれないと話されています。
勉強に打ち込んだ高校時代とライバル
当時の高校では、女子が男子の2倍いたそうです。ただし、女子は2年経つうちにどんどん中退していったと話されています。
最初は男女別で女子が2クラス、男子が1クラスだったのが、2年後には女子1クラス、男子1クラスと半分に減ってしまったそうです。
とみーさんは、当時は女性の学力があまり評価されず、結婚や家事が重視された背景があったのではないかと話しています。
女の子たちは髪型やおしゃればかり気にしていたそうです。田舎町でダサい服しかなかったため、多くの女子は服を自分で縫って作っていたと語られています。
一方でカタリンは、おしゃれにも男の子にも興味がなく、とにかく勉強ばかりしていたそうです。
クラスには数学のライバルがいました。マリーという女の子で、二人は同じ問題をいつも違う方法で解き、答えは同じになったそうです。
どちらの解き方が正しいのか、二人は授業中に熱い議論を交わしました。先生はそれを面白がり、同級生たちは二人が戦い始めると休憩時間のように手紙を回し合っていたそうです。
いつの時代でも、どこの場所でも同じなんだなって。
肉体労働者の娘という立場と大学への道
共産国であったハンガリーでは、学生名簿もきちんと作られていました。カリコの名前の横には「F」と書かれていたそうです。
このFはフィジカルのFで、肉体労働者の娘という意味があったそうです。父親が豚の解体業をしていたことに由来すると考えられています。
共産国では労働者階級を引き上げようという社会的な意識がありました。エリート階級に偏りがちな高等教育に、労働者階級にもチャンスを与えようとしていたのです。
そのため、肉体労働者の娘であるカリコは書類審査で注目されやすく、高校時代に大学の夏期講習に参加するチャンスを得られたのではないかと彼女は推察しています。
西側諸国では裕福な人でないと大学に行けない状況があったかもしれませんが、社会主義国のハンガリーでは、裕福でなくても頭が良ければ引き上げようという力が働いたと話されています。
1970年代のハンガリーでは大学に行くこと自体が非常に難しく、大学の数も少なかったそうです。そのため夏期講習への参加は、大学進学のチャンスにつながる貴重な機会でした。
1972年、17歳のカリコは町を出て、セゲド市にあるセゲド大学の夏期講習に参加します。
この大学は、彼女が尊敬するセント・ジェルジ・アルベルトがビタミンCとクエン酸回路を発見した場所でした。尊敬する博士が重大な発見をした場所に行けたのです。
過酷な夏期講習と収穫作業でのトラブル
夏期講習の内容は過酷でした。朝5時に起床して課題に取り組み、朝から夕方まで授業に出て、夕方からもまた課題に取り組んだそうです。
少しだけ寝て、また朝5時に起床する。ひたすら勉強に打ち込む毎日でした。
本人は、大学で学べるものをすべて頭の中に入れたかったそうです。この生活は苦ではなく、むしろ楽しかったと語られています。
すごい。やっぱ違うな。
夏期講習を終えて高校に戻ると、今度はトウモロコシの収穫の手伝いに行くことになりました。ここであるトラブルが発生します。
カリコは小さい頃から家でもトウモロコシを作っていたため、割り当てられた場所をすぐにこなし、友達と休憩していました。
そこにロシア語の先生が近づいてきて「お前ら何さぼってんだ、畑にすぐ戻れ」と言ってきたのです。
頑固なカタリンは「私たちの分はやったよ、もう作業には戻りません」と強気で答えました。
先生は反抗されたことに腹を立て、他の生徒の分を手伝えと言ってきましたが、カリコは自分たちの分は終わったと譲りませんでした。
大学進学を阻もうとした先生と、彼女を守った人々
この一件を、ロシア語の先生は学校内で騒ぎ立てました。反抗と受け取り、大学進学を望むカリコに対して、書類上のことなどさまざまな手を使って妨害しようとしたそうです。
先生は、自分に反抗したカタリンにやりたいことをやらせないよう、他の先生にも「彼女は反抗的だから停学にしよう」と訴えたと語られています。
怖い。
しかし他の先生たちは「そんな子じゃないでしょ」と取り合わず、この先生の試みは失敗に終わりました。
もしここで妨害が成功していたら、世界を救ったカタリン・カリコは生まれなかったかもしれない、とあきさんは話しています。
まとめ
Part.3では、カタリン・カリコの高校時代を通して、恩師トート・アルベルト先生や科学者たち、さらには刑事コロンボから受けた影響が語られました。過酷な学びと理不尽な妨害を乗り越えていく姿から、科学者としての原点が見えてきます。
- 恩師トート先生は「どう思う?」と問いかける教育でカリコの思考を育てた
- ビタミンCやクエン酸回路を発見したセント・ジェルジ・アルベルトへの憧れが進路を導いた
- 刑事コロンボの「あと一つだけ」という姿勢が、後の実験の組み立てに影響した
- 社会主義国ハンガリーでは、肉体労働者の娘という立場が進学の機会につながった
- 理不尽な妨害を受けたが、周囲の先生に守られ大学への道が閉ざされずに済んだ
