血清療法から共同研究、そしてノーベル賞の誤解へ
前回は、北里柴三郎が破傷風菌の純粋培養を電気製の装置を作って成功させ、さらに免疫血清療法まで開発したところまで紹介されました。
純粋培養はわずか2ヶ月で成功させたといいます。一気にスターダムにのし上がったうえ、治療法まで作り上げてしまったわけです。
この頃、同僚のエミール・ベーリングはジフテリアの免疫研究に取り組んでいました。しかしなかなか成果が出ず、それを心配したコッホは「北里から助言をもらえば」とアドバイスします。
こうして北里とベーリングは、コッホの指導のもとでジフテリアの免疫療法を共同研究します。1890年には二人の共著で「動物におけるジフテリアおよび破傷風免疫の成立について」という論文を発表しました。
ただ、この論文の内容はジフテリアの治療についてはほとんど書かれておらず、大部分は北里が行った破傷風の血清治療の話だったそうです。
ああ、やっぱりそうなっちゃうんですね。
その後、ベーリングは北里のアイデアをもとにジフテリアの血清療法を確立します。同じ手法で、ジフテリアに対しても血清が有効だと証明したのです。
そして1901年、第1回のノーベル生理学・医学賞の選考が行われます。二人が候補となりましたが、これらの仕事はベーリング一人のアイデアと誤解され、彼だけが受賞することになりました。
なんで誤解されちゃうんですかね。
誤解の理由については、いろいろな説があると話されています。論文のタイトルでジフテリアが先に来ていたことや、当時が白人至上主義の社会だったことも指摘されます。ただし、ノーベル選考委員会はそれを明確に否定しています。
もう一つ挙げられたのは、政治的な事情です。ベーリングには多くの研究者が票を入れた一方、北里は日本で疎まれており、日本の研究者の誰も北里に票を入れなかったといいます。
日本で疎まれてましたので、日本の研究者の誰も北里に票を入れる人がいなかったみたいなんですね。
悲しい。
選考の詳細ははっきりしない部分も多いようです。興味がある方は調べてみてほしいと話されています。
コッホのツベルクリン発表と、隠された結核患者
1890年、師匠のコッホは結核の治療法を研究していました。そして第十回の万国医学会で、その成果を報告する演題に立ちます。
コッホが発表するのは久しぶりだったそうで、世界各国から7000人もの聴衆が集まったといいます。
この講演内容は、北里が日本にも知らせています。大日本私立衛生会雑誌90号にその記事が載っているそうです。
私、コッホは数年前から結核菌を治療する薬品の研究開発に取り組んできた。その中には結核菌の成長を防ぐものもあったが、死滅させるまでには至らなかった。
しかし最近になって治療に有効なツベルクリンを発見し、動物実験でその効果を得た。今後は人間にも使えるようになるだろう。
この講演は拍手喝采、熱狂の渦で閉幕しました。日本ではすでに帰国していた森琳太郎、つまり森鷗外が熱狂し、雑誌や新聞でこのことを報じます。
実はこの時、森鷗外はすでに結核にかかっていたようです。自分の病気が治るかもしれないと、狂喜乱舞したのではないかと話されています。
それめっちゃ隠してたってことですよね。
めちゃめちゃ隠してて、家族も最後の最後まで知らなかったんですよね。
当時、結核にかかったとわかると出世に響き、差別を受ける可能性もありました。誰かにうつすかもしれないという不安もあり、とても怖い病気だったのです。
コッホはツベルクリンを、結核菌のグリセリン抽出液からタンパク質を取り出し、その抗原を患者に接種して治療や診断に活用するものと説明していました。つまり、結核のワクチンのようなものを作ろうとしていたと考えられます。
コッホ自身は、これを自らの体に注射して安全性も確かめています。当時、こうした治療を開発した人は、自分自身に打って人体実験をすることが少なくなかったようです。
自分自身の体をもって。姿勢がすごいですね。
ツベルクリンをめぐる政治と、研究者派遣の門前払い
この発表を聞きつけ、ドイツ中の結核患者がベルリンに集まってきました。世界中からもコッホの研究室に人を送り込もうとする動きが起きます。
当時、結核は日本でも国民病と呼ばれ、世界中に患者があふれていました。将来的に死んでいくことが約束されてしまうような病気だったのです。
実はコッホは、まだこの成果を発表したくなかったようです。しかしドイツ政府が国力増強のために圧力をかけ、発表させたと話されています。
そういうところの政治的なところがあるんですね。
日本でも、研究者をコッホのもとに送り込もうという動きがありました。ちょうどこの頃、第1回の帝国議会が開催された時期です。
お医者さんで最初に代議士となった浜田昇が、この案を出します。北里一人では心もとないので、さらに三名を派遣して学ばせ、帰国後に全国の開業医へ技を伝授させようという内容でした。
この案は反対もなく承認され、東大医学部から三人が人選されてコッホのもとに送り込まれます。ところが、コッホは彼らを門前払いしました。
日本政府は北里が私の元にいることを忘れたのかと、そういうふうに北里の目の前で怒るものだから。
北里の目の前で怒られたため、北里は「日本の文部省は私を信用していないのだろう」と考えたそうです。
背景には、内務省と文部省の対立があったと見られます。北里は内務省管轄の予算で送り込まれ、東大医学部の三人は文部省管轄の人間でした。
さらに北里は、文部省傘下の東大の尾形が発表した「脚気細菌説」を否定していました。これも、文部省が北里を目の敵にした一因ではないかと話されています。
内務省管轄の予算で留学。コッホの信頼が厚く、研究チームの中心にいた
文部省管轄で派遣されるが、コッホに門前払いされる
ちなみにコッホは、日本だけでなく世界中からの研究者派遣を断っていました。そのうえでツベルクリンの実用化に向け、北里をチームに加えて臨床応用の研究を推し進めていきます。
留学延長と、明治天皇からの御下賜金
この頃、認めてもらっていた北里の留学延期が終わりに近づいていました。これを一番心配したのがコッホです。北里が帰ってしまうと、ツベルクリン研究が中断してしまうからです。
北里自身もまだ帰りたくありませんでした。そこでコッホは、駐ベルリンのドイツ公使であった西園寺公望を通じて、内務省に留学延長を働きかけます。
しかし内務省は、すでに二年延期しているため、これ以上は予算を割けないと渋ります。それに対しコッホは、国が認めないなら自分が私費で雇うとまで言ったそうです。
コッホはですね、国の延期が認められないんだったら、僕が私費で雇うとまで言ってくれたみたいですね。
本当に大事な右腕というか。
内務省が渋ったことに対し、上司の永井が動いてくれます。永井は、北里の帰国でツベルクリン研究を日本へ持ち帰るのが遅れることを危惧しました。
永井はいろいろなつてを頼り、宮内省に上奏します。つまり、天皇陛下にお願いに行くということです。
この陳情はあっさりと聞き入れられ、明治天皇から特別恩賜として学資金千円が下賜されます。現代のお金でおよそ一千万円にあたります。北里は、さらに一年間の留学延期を認められました。
一方で、忘れてはならないのが妻の乕(とら)ちゃんです。留学はこれで六年になりました。
三年でも寂しいなと思っていたのが、あれよあれよという間に六年帰ってこないみたいな、そんな感じですよね。
だって十六歳から六年って、一番顔変わりそうですよね。
乕ちゃんは十六歳から十八歳ごろの二年間だけ、日本にいた北里と過ごしました。その後は「私の旦那はどこなのよ」という待ての状態が続いていたのです。
世界からの破格の招聘を断り、帰国を選んだ理由
この時期、北里は世界的な研究者として、とんでもない誘いをいくつも受けています。
たとえばイギリスのケンブリッジ大学からは、新設する医学部細菌学研究所の所長として来ないかと誘われました。新しい研究部署の所長という好条件です。
留学が終わりに見えた頃には、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学から教授にならないかと誘われ、ニューヨークのブルックリン病院からも高待遇での招聘話が出ます。
さらにフィラデルフィアのペンシルベニア大学からは、年俸四万円、自由に使える研究費が年額四十万円という申し出がありました。
当時、明治二十年代の内閣総理大臣の年俸が一万円、現代でおよそ一億円ほどだったといいます。つまり四億円の年俸と、四十億円の研究費を自由に使えるという破格の待遇でした。
でも断っちゃう。
はい、断っちゃいますね。
これらを断り、北里は日本への帰国を決めます。その心にあったのは、コッホとパスツールの存在でした。
コッホは、私が細菌学を志したのはドイツ国民の命を支える杖になりたいからだと言っていたそうです。
フランスのパスツールは「科学に国境はないが、科学者には祖国がある」と語っていました。パスツールは、普仏戦争で荒廃したフランスを捨てず、微生物研究所を立ち上げています。
もう一つの理由は、六年もの留学資金を出してくれた日本への感謝でした。北里は日本に帰り、国民に恩返しをしなければならないと固く心に決めていたのです。
十七年ぶりの再会と、スターに囲まれた一枚の写真
帰国の前、北里は内務省の通達を受け、1891年にロンドンで開かれた第七回万国衛生博覧会に出席することになります。
その途中、ベルリンからロンドンへ向かう道すがら、北里はオランダを訪れます。熊本医学校で医学の道を志した最初の師匠、マンスフェルトに会うためでした。
オランダのハーグ駅で、かつての先生と生徒が再会します。二人は手を握りしめ、ただただ再会を喜んでボロボロ泣いたそうです。十七年ぶりの再会でした。
マンスフェルトは五十九歳、北里は三十八歳になっていました。マンスフェルトは北里のベルリンでの活躍を知っており、偉大になった弟子がわざわざ会いに来てくれたことを大喜びしたといいます。
ただ、マンスフェルトには少し切ない事情もありました。北里を教えたと周囲に話しても、誰も信じてくれなかったのです。
いろいろな人を紹介するから、俺から学んだと言ってくれないかと、北里に頼んだらしいです。
もっとも、オランダでは時間が取れず、証明できたのは数名だけだったそうです。
その後ロンドンの学会で、ケンブリッジ大学に誘っていたヘンキン博士から改めて声をかけられます。日本には十分な最新設備がないのに、本当に研究できるのかと問われました。
それでも北里は、祖国に恩返しをしなければならないので行けません、と丁寧に断ります。ヘンキン博士は、北里がもっと良い条件を示した別の場所を選んだと思っていた様子でした。
この学会の写真が残っています。白人のスター細菌学者たちに囲まれ、たった一人の東洋人である北里が、見事に真ん中の方に写っているそうです。彼自身もスターだったのです。
まとめ
Part.7では、ノーベル賞をめぐる誤解や政治の壁を乗り越えつつ、破格の招聘を断って帰国を選んだ北里柴三郎の信念が語られました。研究者としての実力と、祖国への恩返しを貫く姿勢が、一貫して描かれています。
- 北里はベーリングとの共同研究を支えたが、第1回ノーベル賞はベーリング一人が受賞し、北里は誤解と政治的事情で外れた。
- コッホのツベルクリン発表は熱狂を呼び、その裏では森鷗外が自らの結核を隠し続けていた。
- 留学延長をめぐり内務省と文部省の対立が影を落とすなか、コッホや上司の尽力で明治天皇から御下賜金が下された。
- ケンブリッジやペンシルベニア大学からの破格の招聘を断り、北里はコッホやパスツールの言葉と祖国への感謝から帰国を決めた。
- 帰国の途上、十七年ぶりに師マンスフェルトと再会し、スター細菌学者に囲まれた学会の写真に北里は堂々と写っていた。
