帰国前の視察旅行とコッホからの免許皆伝
いよいよ北里が日本へ帰ってくる場面からのスタートです。ロンドンの学会からベルリンに戻った北里に、内務省から一つの通達が届きます。
帰国前に、フランス、イギリス、アメリカを視察し、各国の衛生事情を調査せよという使命でした。
留学を頑張ったから、公費でひと足伸ばしてきなさいという、政府なりの粋な計らいだったと話されています。
これね、税金の無駄遣いとか言って、今だとすごい怒られそうな話なんですけれども。
いや、大事なことですけどね、こういうのはね。
そしてコッホのもとを去るとき、北里は師に挨拶へ行きます。
その時にですね、コッホ先生は言います。「北里くん、私が教えることは何もなくなったよ」と。
わずか六年での免許皆伝は、非常に早いと二人は驚いています。
憧れのパストゥールとの対面
1892年3月23日、北里は六年半を過ごしたベルリンを出発します。翌日パリに着くと、思いがけずパリ市民から熱烈な歓迎を受け、新聞記者のインタビューも受けました。
フランスでは、破傷風菌を治す道を開いた人物として、北里はスター扱いだったのです。
日本公使館で石黒{要確認: 石益久次郎}と面談した後、北里は憧れの人に会いに行きます。その相手は、コッホと並ぶ細菌学のスター、ルイ・パストゥールでした。
パストゥールは46歳のときに脳卒中で倒れ、左の手足が不自由でした。この当時は70歳を超え、健康も害していたと話されています。
それでも研究が気になるのか、毎日研究所に出社し、狂犬病の研究に取り組んでいたそうです。
パストゥールはこの面会を楽しみにしてくれていました。会談の最初に、北里へこう語りかけたと伝えられています。
私はあなたの活躍を頼もしく感じて見ていました。今度は何を発表するのかと心待ちにしていましたよ。
北里は、自分の研究が偉大なパストゥールに注目されていたことに、素直に感動しました。
そして北里は、かねて気になっていた疑問をぶつけます。普仏戦争のとき、イタリアからの誘いを断ったと聞いています、という問いでした。
パストゥールはこの問いに、はっきりと答えました。
悲劇の母国を差し置いて良い地位を求めることはできない。私は脱走兵にはなりたくなかった。
「必ず日本に戻る」という信念を持っていた北里にとって、この言葉は自分の思いと重なるものだったと考えられます。
会談の最後、パストゥールは壁にかけてあった自分の写真を手に取ります。そこに献辞と署名を書き入れて、北里へ手渡してくれました。
北里博士、素晴らしい研究に敬意と祝福を込めて、ルイ・パストゥール。
北里はこの写真を終生大事にしたそうです。とみーさんは「お守りみたいなもんですよね」と話しています。
パストゥールはこの三年後、72歳で亡くなります。最期の言葉として、次のように語ったと伝えられています。
大陸横断とドイツ皇帝からの称号
パストゥールと会った後、北里はイギリスに一週間滞在します。その後、大西洋を渡ってニューヨークへ入りました。
そこから列車でカナダのバンクーバーまで、大陸横断鉄道で東から西へと横断しています。
北里は旅程を細かく記録していましたが、各地で何をしたのかは書き残していません。そのため、どこにいたかはわかっても、行動の内容はよくわかっていないそうです。
北里がバンクーバーにたどり着いた頃、ドイツ医学会は彼の前人未到の研究成果を評価しました。
そしてドイツ皇帝ヴィルヘルム二世の名で、大博士(プロフェソル)の称号を北里に贈呈します。
この称号はドイツ人でもなかなか取れないもので、海外の人に与えられるのは非常に名誉なことだと話されています。師のコッホも、愛弟子の受賞をとても喜んだそうです。
この賞状は在ドイツ日本大使館に届けられ、公文書として日本の外務省へ送られました。
誰も出迎えなかった帰国
バンクーバーで称号の知らせを聞いた北里は、太平洋を横断する船に乗り込みます。
約二週間の航海を経て、1892年、明治二十五年五月二十八日に横浜港へ到着しました。
ところが、プロフェソルの称号を受け、パリで大歓迎を浴びたスター研究者の帰国を、日本では誰も歓待しませんでした。インタビューを申し込む記者もいなかったそうです。
そんな感じだったんだ。あら。
北里は横浜から汽車を乗り換え、新橋駅にたどり着きます。改札を出ると、留学予算を工面してくれた上司の長与や、陸軍医の石黒が出迎えてくれました。
その場で、届いていたプロフェソルの称号を受け取り、北里は家に帰ります。妻の寅は二十五歳になっていました。
三十二歳ほどで日本を発ち、三十八歳ほどで帰ってきた北里です。久しぶりの再会に、お互い「こんな顔だったっけ」と感じたかもしれないと、二人は想像を交わしています。
それにしてもね、カナダではとか、ドイツではこんなにも英雄というかスターで来たのに、日本からは誰もいないっていうのはちょっと寂しいですね。
無職無給で過ごした冷遇の日々
帰国後の北里は、出迎えもほとんどなく、非常に冷遇されていきます。帰国後の行動を詳しく調べた本によれば、基調講演の記録もなく、凱旋帰国を伝える新聞もなかったそうです。
明治天皇が予算を出してくれたにもかかわらず、宮中に参内して研究成果を報告する機会も設けられませんでした。
さらに深刻だったのは職の問題です。内務省衛生局は、留学延期中の休職期間の延長手続きをしておらず、北里は無職になっていたと話されています。
そのうえ内務省は復帰もさせず、出身校の帝国大学も研究室一つ与えませんでした。
なぜこんなに有能な人が、いろいろな誘いを蹴って日本に帰ってきたのに冷遇されたのですか。
記録が残っていないため想像の域を出ませんが、あきさんはパステール論争が発端だと推測しています。北里が緒方正規{要確認: 緒方正人}の実験を否定したことに、東大や陸軍の医学界が反発し、根に持っていたのではないかと語られています。
あきさんは、新聞報道による歓迎まで手を回して止められたのではないかと見ています。とみーさんは「この時から情報操作が」と応じています。
今もよく騒がれている「伝えない自由」っていうやつが使われたのかなと。
一方でドイツは北里を高く評価し続けていました。ドイツの特命全権公使グードシュミット{要確認: グードシュミット}は、皇帝ヴィルヘルムから日本の天皇陛下へ伝言を託されて来日します。
その内容は、優れた人材である北里をドイツへ送ってくれた日本の天皇陛下への感謝でした。この伝言は外務大臣の陸奥{要確認: 陸奥}を通じて、速やかに天皇陛下へ伝えられたそうです。
北里が冷遇された背景として、あきさんはパステール論争での対立をあらためて挙げます。東大総理の加藤弘之や内科教授の青山{要確認: 青山種三}らの東大閥が緒方の味方をし、陸軍の石黒忠悳{要確認: 石黒忠徳}や森鴎外もこれに加担したというのです。
またツベルクリン研究の際、東大から送り込まれた人が、北里がいることを理由に門前払いされた出来事もありました。これが東大閥の自尊心を傷つけ、いわば男の嫉妬につながったのではないかと話されています。
怖い怖い。男の嫉妬。
この半年間、北里は無職無給のまま過ごすことになります。二ヶ月で実験を成功させるほどの人物にとって、大きなロスだったと二人は嘆いています。
それでも北里はこの期間を無為には過ごしませんでした。世界の伝染病研究所を見て回った経験から、日本にも伝染病を調査研究できる施設が必要だと訴え、内務省や文部省などに働きかけて回ります。
行動はし続けてました。ただですね、誰も耳を傾けてくれなかったんですね。
福沢諭吉と森村市左衛門、援軍たちの後押し
孤軍奮闘する北里に、二人の援軍が現れます。
一人は、かつて北里を推薦した長与専斎{要確認: 長世宣斎}の後を継いだ、新しい局長の後藤新平です。もう一人は、医師で衆議院議員でもある長谷川泰{要確認: 長谷川タイ}でした。
二人は、伝染病研究所を設立して北里に一任するよう政府へ働きかけます。しかし妨害が多く、予算がつかず、なかなか進みませんでした。
すでに内務省衛生局を引退していた長与も動いてくれます。このままでは北里が海外へ行ってしまうと考え、宮内省に再度働きかけましたが、その動きも潰されてしまいました。
もうこんな日本の宝、海外に行っちゃっていいのかということですね。
諦めない長谷川は、適塾の同志だった福沢諭吉に相談します。当時の福沢は『西洋事情』や『学問のすすめ』を書き、啓蒙思想家として非常に有名になっていた頃でした。
福沢は、北里を無職のまま置くのは国のためにならないという長与の意見に耳を傾けます。そして、自分の芝公園内の土地に研究所を建てて研究を始めさせよと申し出ました。
この土地は、福沢が将来子どもに住ませようと買っていたものでした。しかし、子どものためよりもこの研究所のために使おうと考えてくれたのです。
ただし、慶応大学の運営や若者の支援に財産を使っていた福沢からは、建設資金まではすぐに出てきませんでした。
そこで福沢は、自分が育てた優秀な人材に資金提供を頼みます。その一人が、実業家の森村市左衛門でした。
森村は江戸・京橋の生まれで、陸軍への納入で財を成し、その後は福沢の勧めで弟をアメリカに留学させ、貿易会社の森村組を作って巨万の富を築いた人物です。
この時、妻の寅も動いてくれました。寅の父は大蔵省主計局にいて、将来の日銀総裁とも目された人物で、財界の森村とも懇意だったのです。
福沢と寅の父の両方から働きかけを受けた森村は、「そんな立派な学者さんなら」と建設費用として千円を寄付してくれました。
こうして、十坪、二階建て、上下六室の小さな研究所が準備できることになりました。北里の住まいも兼ねた、ささやかな一歩でした。
いよいよいろんなところを蹴って日本に帰ってきたのに、この冷遇さっていうところから、ちょっと光が見えてきたっていうところですね。
まとめ
世界的功績を挙げて帰国した北里柴三郎を待っていたのは、職も肩書きもない冷遇でした。しかし長与や福沢諭吉、森村市左衛門、そして妻の寅の後押しにより、小さな研究所という新たな出発点を得るところまでたどり着きます。
- 帰国前の北里はパストゥールとの対面やドイツ皇帝からの大博士称号など、海外では英雄として遇された。
- 一方の日本では、休職延長の手続き漏れで無職となり、大学からも研究室を与えられない冷遇を受けた。
- 冷遇の背景には、パステール論争やツベルクリン研究をめぐる東大閥・陸軍との対立があったと推測されている。
- 無職の間も北里は伝染病研究所の必要性を訴え続け、後藤新平や長谷川泰らが援軍となった。
- 福沢諭吉が土地を提供し、森村市左衛門が資金を寄付したことで、小さな研究所を建てられることになった。
