前回の訂正とベーリングという名前
冒頭で、とみーさんが前回の訂正を切り出します。北里と共同研究したのはエミール・アドルフ・フォン・ベーリングですが、似た名前の企業が別に存在していたための混同でした。
ドイツで同じくベーリンガーっていう会社があるので、どっちだと思って言ってしまったんですけど。
あきさんも、ベーリングという名前の血清会社が別に存在すると補足します。その設立者が北里の同僚であり、最初のノーベル医学生理学賞を受賞した人物です。
水素で酸素を追い出す実験装置
前回、破傷風菌が嫌気性ではないかという見立てにたどり着きました。今回は、無酸素の環境を作る実験からのスタートです。
あきさんによると、北里はまず水素を発生させる「キップの装置」を使いました。火を使わず、鉄に硫酸や塩酸をかける化学反応で気体を発生させる仕組みです。
この装置なら、コックを閉めれば液体が固体と触れなくなって反応が止まります。火を使わずに気体をコントロールできる点が便利でした。
北里は、この水素をシャーレに吹き込んで酸素を押し出そうと考えます。ただ、ガラスの蓋では水素がすぐ隙間から抜け、空気が戻ってしまうのが問題でした。
カメノコシャーレという発明
そこで北里が開発したのが「カメノコシャーレ」です。密閉して無酸素状態を保つための、独自の器具でした。
形はビール瓶の胴体を踏み潰したようなもので、上下に注ぎ口があります。首から水素を入れ、胴体に栄養のゼラチンや寒天を入れ、尻尾から空気を逃がす構造です。
カメノコだからカメの形ってことですね。
カメの形で首があって尻尾があるみたいな、そういうような形になるんですけれども。
胴体のゼラチンに破傷風菌を塗り、首から水素を送って酸素を追い出します。最後は尻尾のガラス管をバーナーで炙って溶かし、密閉しました。
ただ、この方法は水素を出しているそばで火を使うため、非常に危険でした。水素は爆発するからです。
案の定、北里は何回も実験装置を爆発させてます。爆発したガラス片を浴びて、怪我も結構したみたいです。
それでも北里は負けず、実験を繰り返しました。ゴム栓で塞げばよいのではとあきさんは疑問を口にしますが、当時はこの方法しかなかったのだろうと話します。
でも考えて考えて、それに至ったってことでしょうね。
世界初、破傷風菌の純粋培養に成功
無酸素にしたカメノコシャーレを20度から25度で培養し、観察を続けます。するとある日、一つのシャーレの中でコロニーが育っていました。
顕微鏡で見ると、マッチ棒のような形をした5ミクロンほどの破傷風菌で溢れていました。1889年4月、世界初の破傷風菌の純粋培養の成功です。
すぐにコッホへ報告しますが、コッホは最初信じられませんでした。テーマを与えてからわずか2ヶ月という速さだったからです。
すごいね、二ヶ月だもんね。年とかじゃなくて。
後にコッホは日本を訪問した際、弟子の志賀にこの時の驚きを語っています。老練のフリュッゲ教授らが数年苦労しても成功していなかったため、すぐには信用できなかったといいます。
しかし、培養した菌で動物実験をすると、破傷風固有の症状が見事に現れました。コッホはすぐ北里の部屋へ行き、大成功を祝したそうです。
コッホはさらに、4月27日にベルリンで開かれるドイツ外科学会での発表を持ちかけます。4月に成功し、その月内に発表するというスピードでした。
発表はドイツの新聞で大きく報じられ、医学雑誌にも速報されます。北里は一気に細菌学会のスターダムに上り詰めました。
一気にデビューしたって感じですね。
治療へ向かう研究者の視点
同僚たちは、北里が次にどの病原菌をハンティングするだろうと考えていました。しかし北里の関心は違いました。
彼が次のテーマに選んだのは、破傷風菌の特性を研究し、治療方法を確立することでした。細菌ハンターではなく、苦しむ人を助けることを目指したのです。
やっぱここがあれですね、研究者の視点の違いなんでしょうね。
この選択の背景には、彼が若い頃に書いた「医道論」の信念がありました。医学の基本は病を治療して予防することにある、という考え方です。
毒素が原因だと突き止める
治療のヒントを探るため、北里は破傷風にかかった動物を解剖します。下半身に菌を打たれた動物は後ろ足が硬直し、首の筋肉もおかしくなりました。
明らかに神経が侵されているのに、解剖しても神経の中から破傷風菌は見つかりません。筋肉を見ても菌はいませんでした。
この様子が毒物の中毒症状に似ていることから、北里は仮説を立てます。破傷風菌は増殖しながら毒素を出し、その毒が神経を侵すのではないか、というものです。
菌自体じゃなくてってことですね。
検証のため、液体培地で菌を増やし、そこから菌を取り除いて培地成分だけを残す実験を組み立てます。当時は遠心機がなく、北里は自ら「細菌濾過器」を開発しました。
ヒントになったのは、当時あったシャンベランの濾過器です。素焼きの陶器で濾過すると、細菌がトラップされて液体だけが出てくることが分かっていました。
ただ、濾過した液を動物に打っても毒素が薄く、反応がありません。そこで毒素を濃縮する必要が出てきました。
ソーセージがヒントになった濃縮法
水分を追い出そうと熱をかけると、毒性がなくなってしまいます。タンパク毒が変性してしまうためだと考えられます。
熱を使わずに濃縮する方法として、北里が思いついたのがソーセージでした。血を固めた真っ黒なソーセージです。
ソーセージ。
このソーセージは、動物の腸に血を詰めて作ります。腸が半透膜になっているため、水分だけが外に出て、固形成分が中に残るのです。
この原理を毒素の濃縮に応用しました。あきさんによれば、これは今もよく使われる透析の原理で、北里が初めてタンパク質の濃縮に使ったといいます。
顕微鏡で菌が残っていないことを確認したうえで、濃縮した液体をマウスに注射します。するとマウスは痙攣して死亡しました。破傷風菌の毒素が病気を起こすことが証明された瞬間です。
死なないマウスから治療のヒントへ
さらに北里は、致死量の毒素を打っても死なないマウスがいることに気づきます。再度致死量を打っても、そうした強いマウスは死にませんでした。
何度やっても死なないってことですね。
ここで北里が思い出したのが、コカインやモルヒネに溺れる人々の存在でした。最初は少量で効いても、慣れて量を増やさないと効かなくなる現象です。
この「慣れ」がマウスにも起きているのではと考え、ウサギで実験します。薄めた毒素から始め、徐々に濃くしていくのです。
結果、このウサギは致死量の20倍の毒素にも耐えられるようになりました。
すごい20倍。
一方、培地だけを打って生き残ったマウスに破傷風菌そのものを注射しても、破傷風になりませんでした。北里は、毒に打ち勝つ物質がどこで作られるのかを調べます。
生き残るマウスや慣れさせたウサギを徹底的に解剖し、肺、脾臓、リンパなどを調査します。そして、血液の中に毒素を打ち消す物質があるのではと仮説を立てました。
さすがマンスフェルト先生が、最初に熊本医学校で解剖学が大事だとたたき込んだのが、こういったところで生きてくるんだなと思いますね。
血清の中の抗毒素、免疫血清療法へ
次に北里は、毒素に慣れさせたウサギの血をマウスの腹腔に注射します。そのマウスに24時間後、破傷風の毒素を打ちました。
このマウスは、あらかじめ毒素に慣れさせたわけではない普通のマウスです。それでも毒素で死なず、菌を混ぜて打っても死にませんでした。慣れたウサギの血液には、毒素に対抗できる何かがあると分かったのです。
さらに血液を分解します。ウサギの血液を放置して凝固させ、上澄みの血清をネズミに注射しました。すると、通常の血液より多くの毒素を打っても生き残りました。
血清の中にこそ、毒素を中和する物質があると推定されました。北里はこれを「抗毒素」と名付け、感染症の治療に使えることを世界で初めて明らかにします。
あきさんは、コロナ流行時にいち早く登場した中和抗体薬に触れ、この技術が今も使われていると話します。抗原抗体反応で抗体が毒素を落とす仕組みですが、当時はまだそれが分かっていませんでした。
破傷風菌の純粋培養が1889年4月、免疫血清療法の発表が1890年。とみーさんが計算すると、この一連の道のりはわずか1年余りでした。
さらっと流せば流せるけど、ものすごい実験量だったんだろうなってのが。
体内の全ての臓器を調べ、器具を丁寧に洗いながら膨大な実験を重ねた道のりだと二人は締めくくり、次回への期待を語ります。
まとめ
今回は、北里柴三郎が世界初の破傷風菌純粋培養に成功し、そこから免疫血清療法を確立するまでの1年余りをたどりました。カメノコシャーレやソーセージからの発想など、独自の工夫と膨大な実験の積み重ねが語られています。
- 無酸素環境を作るため、北里はキップの装置とカメノコシャーレを自ら開発した
- 1889年4月、世界初の破傷風菌の純粋培養に成功し、コッホも驚かせた
- 神経や筋肉に菌がいないことから、病気の原因を「菌が出す毒素」だと突き止めた
- 血を固めたソーセージから、透析の原理で毒素を濃縮する方法を着想した
- 毒素に慣れた血液の血清に抗毒素があると見抜き、免疫血清療法を世界で初めて確立した
