61歳の北里を襲った「突然の移管」という大事件
1914年、大正3年。北里柴三郎は61歳になっていました。コッホを見送り、幸せな時間を過ごした直後のことです。
10月14日、伝染病研究所が突然、文部省に移管されると発表されます。北里への事前の断りは一切ありませんでした。
突如か。
それまで伝染病研究所は内務省の管轄でした。文部省への移管は、事実上、東大閥の傘下に入ることを意味します。
気にしてたことが起きてしまったってことですね。
かつて福沢諭吉が懸念していたことが、予言通りの形で現実になったのです。
なぜ移管はひっくり返せなかったのか
第14代内閣総理大臣・大隈重信の内閣は、北里に断りなく移管を閣議決定し、同日発行の官報でこれを公示しました。
官報に載るということは、発行前に天皇が承認するということです。天皇に基本的に拒否権はなく、いったん官報に出てしまえば、覆すことはほぼ不可能でした。
えー、知らしめちゃうんだ。
つまりこの移管は、帝国大学の傘下、青山胤通学長の軍門に下ることを意味していました。
移管の裏で動いた青山胤通の焦り
この移管には裏がありました。総理大臣・大隈重信の主治医が、東大医科大学の学長・青山胤通だったのです。
青山は健康診断を名目に、大隈の私邸へ自由に出入りできる立場にいました。
ああ、そういうこと。
青山には強い危機感があったと考えられます。当時の伝染病研究所は、東大医科大学すら持っていない最新設備を備えていたからです。
遠心分離機、殺菌装置、微生物用の冷蔵庫。これらを駆使して免疫血清を製造できる、日本で唯一の医療機関でした。
さらに、各地の衛生課の課長は必ず伝染病研究所で北里から衛生学の講習を受けていました。全国に北里の弟子が散らばっている状態だったのです。
地方の開業医は、その衛生課の人間を通じて感染症の診断や治療を学んでいました。北里が地域医療を支える柱になっていたわけです。
東大閥からすれば、自分たちの立場を危うくする人間が増えていく状況でした。自分の遅延の政治家が総理大臣になったことをいいことに、青山は工作を仕掛けたのだと考えられます。
いやー、嫌だな。
移管を察知していた北里の静かな反応
官報に出る前に、この話が新聞にちらっと出たようです。北里はそれを知ると、養生園の病院で経営を任せていた田端を呼び出します。
行政整理という名目で、青山がおそらく大隈総理を動かし、研究所が文部省に移管される。すぐ官報に出るだろう、と北里は田端に伝えました。
この時点で青山が動いてるっていうのはもう察知してたんですね。
田端の日記によると、北里はこのとき特段慌てもせず、その後どうするという相談もなく、ニュースを淡々と伝えただけだったといいます。
青山の思惑を暴いた長与又郎の日記
青山の動きは、長与仙斎の息子・長与又郎の日記から判明しています。
長与又郎は東大医学部に進み、この時点では病理学の教授でした。東大閥に属しながら、長与仙斎を通じて北里とは親戚ぐるみの付き合いがある立場です。
青山は、北里は文部省移管を受けて辞表を出して辞めるだろうと見ていました。そうなれば、非常にいい形で研究所が手に入ると考えていたのです。
一方で青山は、北里は新しい研究所も作れず、また文部省に泣きついて戻ってくるだろうとも見ていました。こうした本音を長与又郎に漏らしていたようです。
弟子たちについても、青山は誰も辞めないだろうと踏んでいました。もし辞めそうになっても、東大教授の椅子をやると言えば慰留できると考えていたのです。
権威を振りかざしたわけですね。
そして青山は、伝染病研究所からのアクションをうまく収めるよう、親戚関係にある長与又郎に立ち回りを頼んでいました。
「絶対に軍門には下らない」と宣言した北里
実際の北里は当然、激しく怒っていました。自分が育てた研究所が文部省の下につくことも、東大の軍門に下ることも、絶対にしないと宣言します。
新聞記者の取材にもそうした発言をしたようです。それが人づてに伝わると、青山は若干慌てたといいます。
青山は長与に対し、北里がおとなしく文部省の傘下に入り、所長を続けるよう説得を依頼しました。研究所が手に入っても、それを使える人がいなければ困るからです。
結局ね、研究所が手に入っても、それを使える人がいないっていう状態になっちゃうってことですね。
官報後の慰留工作と、北里の辞表提出
大正3年10月14日、官報に正式に移管が発表されます。その2日後の10月16日、文部大臣・一木喜徳郎は北里を官邸に呼びました。
文部官僚が作成した文章を読み上げる一木大臣に対し、北里は「官報に書いてある通りじゃないか」と取り合わなかったといいます。
一木大臣は、このまま研究所にとどまってくれないかと慰留を求めました。しかし北里は面談後すぐに辞任を決め、19日に大隈首相宛の辞表を提出します。
当時、辞表には診断書を添えるのが常でした。北里は神経症があるという診断書をつけて辞表を出したそうです。
北里は「ドンネル親父」、つまり雷親父と呼ばれていました。研究者をしょっちゅう怒鳴りつける激しい気性は、年を取るほど強まっていたといいます。
ひとりずつの切り崩しに、七人の高弟が結束
政府は北里の辞任を受けて慌て、高弟を一人ずつ官邸に呼んで慰留工作を始めます。まず北里の右腕である研究部長の北島多一を呼びました。
北島がこれを一蹴すると、次に第一部長の志賀潔が呼ばれます。志賀もこれを断りました。
この動きで、政府が北里ひとりを追放し、他の所員を残そうとしていることが弟子たちに伝わります。七人の高弟は結束を固めました。
そして七人全員で、文部省に辞表を提出します。政府の思惑通りには進まなくなったのです。
さあ、向こうのね、幕通りがいかないぞっていう。
所員への最後の訓示に込めた思い
翌20日、北里は所員を集めて語ります。研究所は突然文部省に移管され、今後は東京帝国大学医科大学に併合されて大学所属の機関となる、と。
自分が目指してきた研究所とは相容れないので辞表を提出した。そう説明したうえで、北里は若い所員たちへ思いを伝えます。
国民のためにこのまま伝染病研究所にとどまってほしい。北里はそう最後の訓示を述べ、その場を立ち去ったそうです。
うわぁ、なんか最後までやっぱり人のためというか。
「どうして私たちだけ残れというのか」
続いて、七人の高弟のトップである北島多一部長が前に出ます。我々は北里先生についていく、と告げました。
そのうえで北島は、若い所員には前途があるので、慎重に考えてここにとどまり研究を続けてほしいと伝えます。
すると助手の一人が立ち上がり、詰め寄ったといいます。
所長もいなくなって、部長たちもいなくなって、どうして私たちだけここに残れというんですか
その後、助手や助攻などが別室で協議した結果、ほぼ全員が辞表を提出することを決めました。
やっぱりそれだけみんなやっぱり向こうの下には付きたくなかったんですね。
福沢諭吉の助言が生きた「30万円」の備え
全員が辞めれば、新しい研究所が立ち上がらないかぎり、研究者たちは散り散りになってしまいます。そこで田端が七人の高弟を集めて伝えました。
養生園の経営で貯めたお金がある。これを基に新しい研究所を作ることができる、と。かつて福沢諭吉が田端に指示していた通りでした。
お金はちゃんと貯めとけよってやつですよね。
田端が養生園の運営で貯めていた資金は30万円。約30億円に相当する額を、田端はこの日のためにため込んでいたのです。
「立つ鳥跡を濁さず」の引き渡し
11月10日、伝染病研究所が引き渡されることになります。研究所側は、後で恥ずかしくないように、そして患者に迷惑をかけないようにと準備を進めました。
引き渡し日までに免疫血清を一生懸命増産し、約1年分を備蓄したのです。自分たちが去れば作れなくなることを見越しての行動でした。
そこはしっかり。
職員たちは福原文部次官に帳簿を手渡し、引き渡し日まで掃除を続けました。乗っ取られる研究所の隅々まで掃除をし、各施設を案内して引き渡しを完了させています。
乗っ取られるのに、すごい。
所員183名のうち、105名が北里についていった
この時、研究所で働いていた所員は183名。そのうち北里についていった人間は105名にのぼりました。半分以上です。
この人数は、所員名簿から分かったものではありません。閉鎖時に所員全員で撮った写真を、北里柴三郎の本を書いた著者が一枚ずつ数えたものだそうです。
この時点では、新しい研究所はまだ立ち上がっていませんでした。辞めた人間には、しばらく給料が入らないことになります。
先が見えない中でも105人がついていったのです。北里がどれだけ慕われていたかがうかがえます。
新研究所が立ち上がるまでの約1年間、彼らの給料がどうされていたのかは分からなかったと話されています。内職をしたのか、運営資金の一部を分けたのかは不明とのことです。
国会に持ち込まれた移管問題
この問題は国会でも追及されます。12月10日の議会で、清水市太郎代議士が移管問題を取り上げました。
清水議員は、北里は天才で偉大な学者であると訴えます。北里のおかげで伝染病研究所はパスツール研究所やコッホ研究所と並ぶ世界最大の研究所と言われるようになった、と。
それにもかかわらず、北里に何の相談もせず、一片の知らせだけで組織変更するのは、国家が天才に対してとるべき処遇ではないと批判しました。
さらに清水議員は、学理を究める大学と、学理を実地に応用する伝染病研究所とでは目的が全く違うのではないか、と質問を投げかけます。
これに対し一木文部大臣は、政府が学者を重んじないことは決してないと答えます。ただし行政の所管変更は研究に差し支えないので、特に相談する必要はないと判断した、と述べました。
腹立ちますね、これ。
大隈総理の答弁は、さらに人を苛立たせるものでした。清水議員は誤解している、答弁をよく読めばその考えは誤解から生じたと分かるだろう、という趣旨の発言をしたのです。
ひどい。もういかに丸め込まれてるかっていう。
最初の研究所は北里の私費で作られたものです。それを踏まえると、この答弁は答えになっていないと二人は指摘しています。
「質問のごとき事実なし」の一言
帝国医科大学を卒業し、医師から議員となった若杉代議士も動きます。自分の出身大学への自戒も込め、32名の賛同者とともに質問趣意書を提出しました。
若杉議員は、青山学長が私情をもって公事を犠牲にし、学者としての本分を忘れて、衛生行政と伝染病研究所に多大な障害を生じさせたと批判します。
さらに、他の教授たちはただ学長に盲従するのみで、北里以下の所員が辞表を出してもなお平然として、空いたポストに就任し学閥の勢力拡大に余念がないと指摘しました。
若杉議員は、伝染病研究所と医科大学の業績も比較します。北里の破傷風菌の培養、志賀の赤痢菌の発見、秦のサルバルサンの創製、梅野のワクチンの創製など、世界的な大事業があると挙げました。
対して医科大学には世界的な大発見をした人はほとんどなく、あるのは伝染病研究所への嫉妬心のみである。こんな教授に習った学生が社会に出ることは憂慮すべきだ、と若杉議員は述べます。
思い切った発言を。
政府は後日、文書で回答すると約束しました。しかし最後に出てきた文章は、「質問のごとき事実なし」という一言だけだったといいます。
一言で終わらせられた。
権力と信念の衝突を振り返って
一連のドタバタを伝えたところで、この回は締めくくられます。二人は大隈首相への評価を語り合いました。
お髭の気のいい首相っていうイメージがあったんですけど。
いい政治もしただろうが、是々非々で見て、このことはひどすぎる。そうした見方が示されます。
同時に、権威や欲にまみれた行動がこの時代にあったことがよく分かる、とも語られました。
一方で北里については、最後まで市民や患者のためを思った姿勢を見習ってほしい、という言葉で締めくくられます。
次回は、田端が残してくれた資金を使い、新しい研究所を立ち上げていく展開が語られる予定です。
まとめ
内務省管轄だった伝染病研究所の突然の文部省移管は、東大閥の勢力拡大をめぐる権力の駆け引きでした。北里と弟子たちは慰留工作をはねのけ、全員辞職という道を選びます。福沢諭吉の助言による資金の備えが、次の一歩を支えることになります。
- 1914年、伝染病研究所が突然文部省に移管され、事実上東大閥の傘下に入ることになった
- 移管の裏には、大隈総理の主治医でもあった青山胤通の危機感と工作があったと考えられる
- 政府の一人ずつの慰留工作に対し、七人の高弟は結束し、全員が辞表を提出した
- 所員183名のうち105名が、給料の当てもないまま北里についていった
- 福沢諭吉の助言で田端が貯めた30万円が、新しい研究所設立の原資となった


