立派になった自分を見せたかった、恩師コッホの来日
前回に続き、この回では北里柴三郎が15年ぶりに恩師コッホと再会した場面から話が始まります。あきさんは、北里が立派になった自分の姿を見てほしかったのではないかと語ります。
とにかくあの北里はですね、立派になった自分を見て欲しかったのかなと思います。
北里がコッホに一番見せたかったのが、自ら立ち上げた大伝染病研究所でした。コッホの研究所と同じくらいの規模感だったと紹介されています。
コッホは研究所に来て本当に褒め、さまざまな実験を見て回り、北里の弟子たちにもアドバイスをしてくれたそうです。
君のような弟子を持って僕は誇りに思うよという形で言ってくれたそうです。
その後、本館の玄関前には月桂樹が植樹されました。あきさんは、この月桂樹を枝分けしたものが日本各地の医学部に植わっているという話も聞いたことがあると語ります。ただし、確かめたわけではないと断りを入れています。
ビスマルクの顔の上に「毒滅」、コッホが怒った看板騒動
コッホが日本で気になったものの1つが、薬屋の看板でした。そこにはドイツの宰相ビスマルクの似顔絵が描かれ、その顔の上に「毒滅」という文字が書かれていたそうです。
コッホは、自分の国の英雄の顔の上に文字が書かれていることが非常に不愉快だったようで、北里にどうにかならないかと詰め寄ったといいます。
北里はすぐに時の警視総監に連絡し、この看板を取り締まってほしいと訴えました。北里にはそういった顔利きがあったのだと考えられます。
警察は当時、内務省に所属していました。そのつてもあってか、3日もしないうちに東京中の看板のほとんどが撤去されたそうです。薬の宣伝としてかなりの数が掲げられていたと考えられます。
脚気について恩師に意見を求めた3人の因縁
6月22日、北里はライバルの青山胤通、そして森鴎外の3人でコッホを訪ねます。目的は、当時原因も治療法もわかっていなかった脚気についてコッホの意見を伺うことでした。
北里はドイツ留学中に、緒方の脚気細菌説そのものではなく、その実験手法がおかしいと指摘して発表していました。そのため東大閥とは非常に仲が悪くなっていました。
一方で、この年の5月には臨時脚気調査委員会が立ち上がっていました。会長には陸軍軍医の森鴎外が就任しています。
この委員会には、東大を代表して青山、伝染病研究所からは北里が臨時委員として任命されていました。仲が悪いながらも、国から脚気を何とかするよう命じられた3人だったわけです。
白米が広めた国民病、脚気とはどんな病気だったのか
脚気は江戸時代、江戸や大阪、京都といった大都市で流行し始めました。江戸で患う人が多かったことから「江戸患い」、大阪では「大阪腫れ」などと呼ばれていたそうです。
症状は全身の倦怠感から始まり、知覚異常、足のむくみ、運動麻痺が起こり、衰弱して死に至るという恐ろしいものでした。心臓障害から突然死することもあり、これは「脚気衝心」として恐れられたといいます。
今では明らかになっていますが、脚気は都市部で白米食が一般化して始まった病気です。米ぬかをあまり食べなくなり、ビタミンが欠乏したことが原因でした。
ビタミン不足ですよね。
当時、脚気は結核と並ぶ国民病でした。特に富国強兵を進める陸海軍では、兵隊が脚気で病死する問題が深刻でした。日本海軍では、航海中に多数の乗組員が脚気になり航行不能になるケースもあったといいます。
麦飯で脚気が激減、それでも採用されなかった高木の説
この事態を憂慮した海軍省の医務局長・高木は、栄養の問題かもしれないと考えました。明治17年から白米ではなく麦飯やパン食に切り替えて実験航行したところ、翌々年には脚気の発生率が激減したそうです。
高木はパン食により脚気は制圧できるという論文を書きました。ただし、これは結果論であって、なぜ撲滅できるのかという理論は書かれていませんでした。当時はビタミンという概念自体がなかったためです。
高木は鹿児島藩で生まれ、明治8年から6年間イギリスで医学留学をしていました。明治14年には成医会、後の東京慈恵医大を設立し、英国医学を実践していました。
当時の医学には国ごとの派閥がありました。英国医学は臨床重視で、患者に治療効果があれば理論はあまり問わない傾向がありました。
対して、森や青山、北里が学んだドイツ医学は基礎医学を重視し、理論を大事にしました。日本は基本的にドイツ医学で進んでいたため、理論のない高木の論文は重視されず、答えがあったのに採用されなかったのです。
臨床を重視し、患者に治療効果があれば理論は深く問わない。高木が学んだ流派
基礎医学を重視し、理論を大切にする。森・青山・北里が学び、日本の主流だった流派
2万7000人が亡くなっても、細菌説にこだわった森鴎外
特に森鴎外が高木の論文を軽んじた背景には、森が陸軍、高木が海軍というライバル関係もありました。ただ、あきさんは学問的な基盤の違いのほうが大きかったのではないかと語ります。
海軍は洋食が脚気に良いとしていましたが、陸軍は米食の何が悪いのかという姿勢で、まったく取り合わなかったといいます。
その結果、日清戦争では3900人、日露戦争では2万7000人が脚気で亡くなりました。これは相当ひた隠しにされていたようです。一方、米食をやめた海軍では脚気の死亡者は1人だけだったそうです。
それでも森鴎外は脚気栄養説を取らず、細菌説にこだわり続けました。あきさんは、2万7000人が亡くなってもこだわり続けた姿勢を「意固地」と表現しています。
コッホの助言と、報われなかったバタビア調査
当時は脚気の原因について、米に毒があるのではという米中毒説もあったそうです。この年はオランダ領のバタビア、現在のインドネシア・ジャカルタでも脚気が流行していました。
森はコッホに解決のきっかけを求めに行きました。コッホはヨーロッパに脚気がないため事情がよくわからず、まずは森の説明を黙って聞いていたそうです。
そして、軍隊の集団生活や都市部の人口密集地で流行するという点から、コッホも細菌性の疑いがあると考え、森にアドバイスします。
細菌かもしれない。ただ、証明にはコッホの三原則を満たす必要があるよと。
森と青山は、世界的な細菌学者コッホのお墨付きを得たと考え、この会談に満足して帰ってきました。一方、北里は脚気に正直あまり興味がなく、冷めていたそうです。
委員会は帝国大学、伝染病研究所、陸軍から1人ずつ研究者をバタビアに派遣しました。しかし細菌が原因ではないため、成果はなく帰ってくることになります。
脚気を解いた1本の抽出、それでも認めなかった人々
脚気が解明されたのは明治43年、1910年でした。鈴木梅太郎が米糠からオリザニン、現在でいうビタミンB1を抽出し、この欠乏によって脚気が引き起こされることを解明します。
結果的に、最初に高木が唱えた「白米ばかり食べさせなければ大丈夫」という説が正しかったことが証明されました。
ただ、1910年になっても脚気細菌説の人たちは往生際が悪かったといいます。米糠で脚気が治るなら小便を飲んでも治るだろう、といった暴論を吐く者までいたそうです。
最後まで新しい説を認めない姿勢について、あきさんは学者として厳しい見方を示しています。
73泊74日、恩師と巡った日本各地の旅
コッホは当初10月まで滞在する予定でしたが、9月21日にワシントンで開かれる万国結核会議への出席を、ドイツ皇帝から直々に依頼されます。皇帝の依頼は断れず、急遽予定を短くすることになりました。
北里は非常に残念がりました。故郷である熊本の小国に恩師を連れて行き、そこをメインに九州旅行をしようと考えていたからです。あきさんは、北里が自分の育った故郷を見てほしかったのだろうと語ります。
最後は鎌倉を訪れ、箱根で富士山を眺め、名古屋を通過して関西に入りました。伊勢の神宮を参り、奈良や京都で神社仏閣を見て回っています。コッホは日本美術や古い建物に大変関心を持ってくれたそうです。
神戸では遊覧船を貸し切って瀬戸内海を周遊し、広島の厳島神社にも立ち寄りました。宮島を最後に汽車で移動し、横浜のオリエンタルホテルで日本を発つ日まで過ごすことになります。
へー、しっかり観光してますね。
日銀総裁が主催した晩餐会と、妻・寅の感慨
日本を発つ前には晩餐会が催されました。主催したのは北里の妻・寅の父である松尾で、当時ついに第6代日銀総裁となっていました。
この会には寅も柴三郎とともに和装で出席しました。あきさんは、寅にとってこの晩餐会は非常に感慨深いものだったと語ります。
自分の父が日銀総裁として世界的な細菌学者コッホを歓待し、そのパーティーでコッホをアテンドするのが自分の夫の北里である、という場面だったからです。
寅さんにとってはコッホは初めましてですもんね。
とみーさんは、寅がコッホに対する夫の対応を見て、偉大な先生だといろいろなことを感じたのではないかと想像します。あきさんも、父が主催する会でもあり、とても誇らしかっただろうと応じています。
73泊74日の滞在を終えて、コッホが日本を発つ日
8月24日、いよいよコッホが日本を発つ日が来ます。73泊74日、2ヶ月あまりの滞在でした。一朝一夕に来られる時代ではないため、日本の全てを見て回ろうという滞在だったと考えられます。
最後の晩は、オリエンタルホテルの一室でコッホ夫婦と北里、志賀潔など数名の弟子たちが最後の食事を共にしました。
船が発つ時、横浜港では陸軍軍医の石黒や森鴎外、横浜医師会の数百人が見守っていました。その中をコッホの乗った客船は日本を離れたそうです。
コッホは日本が大好きになったようで、滞在中はよく和装を楽しんでくれたといいます。あきさんは、そうした写真も残っていると紹介しています。
ノルウェーでの再会が、最後の別れとなった
1909年、明治42年、北里は5ヶ月間欧州を視察し、ベルリンにコッホを訪ねます。今度は逆に、コッホが北里をいろいろと歓待してくれたそうです。
この欧州視察のメインの目的は、ノルウェーで開催された第2回ハンセン病会議に、北里が議長として招待されたことでした。北里はここで「日本におけるハンセン病」と題する特別講演を行っています。
北里は、日本でハンセン病をどのように治療していくかという最初の企画にも携わっていました。学会ではそうしたことを語ったといいます。
この再会が、実は非常に大きな意味を持ちました。翌1910年、明治43年の5月27日、コッホは心臓病のために亡くなってしまいます。67歳でした。
本当にその前年にですね、お会いできてよかったなと思いますね。
御神体となった遺髪、伝染病研究所に建てられた祠
北里は5月30日、伝染病研究所でコッホの哀悼式を執り行います。あきさんは、北里が本当にコッホを尊敬していたことがわかるエピソードを紹介します。
北里は、コッホが日本で散髪した際の髪の毛を大切に保存していたそうです。さらにコッホ夫人からも遺髪を送ってもらいました。
北里はこの髪の毛を御神体とし、伝染病研究所内にコッホの祠を建立しました。このコッホ祠は今でもあるそうです。
なぜ髪の毛だったのかについて、あきさんは、戦争で遺体を持ち帰れない時に指や髪の毛を遺族に送っていた例などを挙げ、日本人は体の一部を大事にしたのではないかと語っています。
まとめ
この回は、15年ぶりに再会した恩師コッホの来日から別れまでを、当時の国民病だった脚気をめぐる論争と重ねてたどりました。北里の恩師への思いと、理論に固執した明治医学の光と影が浮かび上がります。
- 北里はコッホに、自ら立ち上げた大伝染病研究所と立派になった自分の姿を見せたかった
- 脚気は白米食による病気だったが、当時は原因も治療法もわからず、細菌説と栄養説が対立していた
- 麦飯で脚気を激減させた高木の説は、理論がないとして日本の主流だったドイツ医学の側に採用されなかった
- 森鴎外は日露戦争で2万7000人が脚気で亡くなっても細菌説にこだわり続けた
- コッホは73泊74日にわたり日本各地を旅し、翌1909年の欧州での再会が最後の別れとなった


