辞任した北里に、なぜ世間は同情したのか
前回、北里柴三郎が所長を務めていた伝染病研究所は、内務省から文部省へと管轄が移されました。あきさんによれば、これは東京帝国大学の青山先生による陰謀によるものだったとされています。
この結果、北里は所長を辞任することになります。さらに弟子たちや伝染病研究所の所員も、北里に続いて辞任しました。
伝染病研究所を去った北里に、新聞記者たちが今後どうするのかと質問します。北里の答えは前を向いたものでした。
初めから国に頼らず独立して研究を続けていれば、今回のようなことは起こらなかっただろう。
今後は機を見て、さらに新しい私立の研究所を興す計画だ。
このニュースは世間の目を大きく引き、特に北里に世間は同情しました。あきさんは、その気持ちは我々と同じだと語っています。
同情の背景には、当時の重い税負担がありました。日露戦争の戦費を海外での国債発行でまかなっていたため、それを返すために税金が重くなっていたのです。
あきさんは、ロシアの巧妙な外交により日本は戦争を続けられず、賠償金のない講和を飲まざるを得なかったと説明します。その負担は最終的に国民に行ってしまったというわけです。
こうした重税への不満が政府への攻撃につながり、政府の理不尽な振る舞いに対して人々は北里に同情しました。
政府へのね、反感が高い時期だったんですね。
あきさんは、財務省解体論が出るような今の空気とも少し似ているかもしれない、と述べています。
「政府が北里を毒殺した」新聞の見出し
当時は第一次世界大戦の最中でした。日本は日英同盟を結んでいたため連合国側に立ち、ドイツが植民地を持っていた青島を攻撃していました。
あきさんによれば、この戦争のニュースよりも、北里をめぐるニュースの方が世間で騒がれたそうです。
新聞は政府と帝国大学を攻撃する形で、強烈な見出しをつけました。
すごい。新聞社がそれをつけたってことですね。
なかなかキャッチーな見出しですね。
妻・寅の後押しと、素早い研究所設立の動き
世論の同情を追い風に、北里は素早く動き出します。まず田端が病院経営から貯めてくれていた資金がありました。
その額は、現在の相場で30億円ぐらいの規模になるとされます。ただ、それでも足りないかもしれないと考え、北里は自分の資産も整理してさらに資金を増やそうとします。
そこで北里は、妻の寅に相談します。返ってきたのは迷いのない言葉でした。
(寅は)もちろんもう全て売り払って、研究所の資金にすればいいじゃない(と言ってくれた)。
あきさんは、寅ちゃんは本当に支えてくれている、と語ります。快諾を得た北里は大喜びで、片腕の北島に電話をかけ、新研究所の創設に踏み出します。
次の課題は運営資金です。養生園の病院経営の収入だけでは研究所を維持できないため、北里は血清とワクチンを製造販売したいと考えます。
血清やワクチンは、一度は国に明け渡したものです。それをもう一度自分たちで製造して販売しようという構想でした。
当時、この製造許可は警視庁が管轄していたとされます。片腕の北島が内務省の貿易課長を兼任していたため、そのルートを使って素早く許可を取り付けることができました。
世界で第三の研究所、「北里研究所」誕生
新しい研究所の名前も検討されます。コッホ研究所やパスツール研究所に倣い、世界で第三の研究所という位置づけが意識されました。
周囲からは、ぜひ先生の名前を付けてくださいと言われます。北里は最初は恥ずかしがっていたものの、最終的に新しい研究所の名前は北里研究所となりました。
ちゃんと名前が出た。
資金は、病院の運営資金30万円と、北里個人名義の全ての資産を合わせたものでした。さらに、全国の講習生たちが自発的に動きます。
北里の指導を受けた人々が、北里研究所後援同窓会を結成し、寄付を寄せてくれました。
えー、すごい。なんか温かいですね。
寄付はかつての弟子たちだけではありませんでした。政府の理不尽に同情した多くの国民からも寄付が集まったのです。あきさんは、まるでクラウドファンディングのようだと表現します。
すごい慕われてたんですね。やっぱ先生は。
北窓にこだわった、ドイツバロック風のモダンな建物
潤沢な資金が集まり、北里はかなり立派な研究所の建築を依頼します。北里研究所には3棟の建屋がありました。
本館はコッホ研究所を模倣し、ドイツバロック風を基調にしたモダンな装いでした。中央に八角形の塔が建ち、その両翼に木造2階建ての建物が配置されていました。
車寄せの屋根の正面には、北里を世界的な研究者へと押し上げた破傷風菌と月桂樹を図案化した紋章があしらわれていました。
すごいこの紋章、破傷風菌だったんだ。
紋章の中央には、マッチ棒のような形の破傷風菌がバッテンに配置されていました。その両翼に月桂樹があり、下には「北」の文字が入っています。
この建物は薄いグリーンで、非常にモダンな外観でした。現在は愛知県犬山市の博物館明治村に移築されています。
この建物で特にこだわったのが窓の配置です。光を取り入れる窓は、すべて北窓からの採光としました。
これは太陽光の変化を少なくするためでした。当時の顕微鏡は鏡で光を集めてレンズに集めるタイプで、部屋の明るさが激しく変わると細菌の見え方も変わってしまうからです。
あきさんによれば、顕微鏡観察のために、あえて光の変化が少ない北窓を採用したとのことです。一般には北向きの部屋は好まれませんが、北里は実験の必要性を優先しました。
面白い。
本館の裏手には血清室や培養室、化学室などの平屋があり、さらに奥には大講堂や講義室、実験室が入った棟が並びました。潤沢な資金で、一気に大きな私立研究所を建てることができたのです。
後藤新平の祝辞に込められた、政府への皮肉
1915年、大正4年の12月11日、事件から約1年ほどかけて立派な建物が完成しました。敷地は2500坪で、筑紫ヶ丘養生園のほぼ正面に建てられました。
この12月11日は、北里の師にあたるコッホの誕生日でした。この日に合わせて開所式を盛大に挙行し、2000人もの関係者が詰めかけました。
開所式では力士たちが会場の世話をしてくれるなど、客寄せ的な役割も担ったと書かれています。
式では北里が挨拶し、後藤新平が祝辞を述べます。あきさんはこの祝辞が面白いとして抜粋を紹介しました。
後藤は、伝染病研究所を国に移管すれば国は北里を免職するかもしれない、と福沢諭吉に詰め寄られた過去を振り返ります。
当時の後藤は、そこまで国を信用できなくなるのかと福沢にあきれ、そんなことは決してないと答えたといいます。しかし結果は福沢の予言どおりでした。
福沢先生には先見の明がありました。自分の不明を詫びたい。
さらに後藤は、この式に大隈総理や一木文部大臣の姿がないことに触れます。
(彼らが)来ない理由は、賢明な皆様のご想像にお任せします。
あきさんは、この締めくくりを嫌味が効いていると評します。会場からは万雷の拍手が沸き起こったそうです。
血清を作れる人材がいなかった帝大側の窮地
北里が去った後の伝染病研究所は、東京帝国大学の下につき、帝国大学の教授陣が引き継ぐことになりました。しかし、そこには大きな問題がありました。
教授陣の中に、有効な免疫血清を製造できる能力を持った人間が一人もいなかったのです。
これが国民に知られれば、さらに大きな責任問題になると考えた青山は慌てて暗躍します。かつての教え子で、今は北里の右腕となっている北島泰一を引き抜こうとしました。
青山は、研究所所長の椅子と大学教授の兼任という条件をちらつかせれば協力するだろうと見ていました。
あきさんは、名誉欲に取り憑かれた人は他人も同じだろうと考えてしまうのかもしれない、と指摘します。この引き抜き策は森倫太郎に依頼されましたが、北島があっさり断ることで頓挫しました。
いの一番に「私、ついていって辞めます」って言ってる人ですからね。ついていくわけない。
一方で、この青山の危機を救ったのも森倫太郎でした。森は陸軍の軍医でした。
伝染病研究所は感染症医療の機能を高めるため各種の講習会を行い、陸軍もそこに軍医を派遣していました。その中に、血清製造技能を習得した者がいたのです。
その2名を伝染病研究所に送り込み、血清製造に当たらせることで青山の危機を救いました。あきさんは、逆に言えば北里が誰にでも分け隔てなく技能を教えていたことの証だと語ります。
そういう意味では素晴らしいですね、本当に。
長与又郎が緩衝材となった、帝大との和解
大正8年の6月11日、長与又郎が北里を訪問します。長与又郎は長与仙斎の息子で、北里からすれば小さい時から知っている人物でした。
長与又郎は帝国大学の病理医学の教授になっており、北里とは家族ぐるみの親しい間柄でした。その彼が伝染病研究所の所長に任命され、挨拶に訪れたのです。
長与は、北里と帝大とのいざこざをある程度ほぐしておきたい、自分が緩衝材になるべきだと考えていました。
積年の恨みがあるでしょうけれども、ぜひ先生、私の所長就任式に挨拶に来てもらえませんか。
北里も大きく、喜んで出席すると伝えます。6月26日、帝国ホテルで就任式が開かれ、元伝染病研究所の北島や志賀なども同席しました。
あきさんによれば、これは医官事件以来、初めての両関係者の同席となる会だったそうです。
北里は祝辞を述べますが、医官問題には全く触れませんでした。長与仙斎以来の長与家との関係を語り、招待への謝辞と研究所の発展を祈念する内容にとどめました。
新聞も注目していました。長与は乙なことをする、それを受けた北里も大きい、という内容で両者を褒め称えたそうです。
すごい繋ぐ役として頑張ったんですね。
福沢への恩返し、慶応大学医学部の創設
続いて北里は、最後の仕事と言っていい仕事に取り掛かります。北里はずっと福沢諭吉に恩を返したいと考えていました。
そこに、慶応大学に医学部を創設する話が立ち上がります。当時の慶応大学には文系の学部しかありませんでした。
一方で卒業生には実業家として成功した者が多く、技術は金になると理解されるようになっていました。次は技術者の育成をしなければ、という機運が高まっていたのです。
そんな中で工学部や理学部の話が先に進んでいましたが、医学部については病院を併設すれば運営費も出せるという理由から、話がどんどん進みました。
運営の取りまとめを誰に頼むか、という段になって名前が挙がったのが北里でした。福沢への恩返しを願っていた北里は、喜んでこれを受けます。
教師陣は北里研究所のスタッフを派遣し、兼任してもらう形をとりました。土地は信濃町に確保し、大正8年4月から生徒の受け入れを始めます。大正9年には全ての建物が完成し、本格運用となりました。
権威主義を避けた、北里流の大学運営
1920年、大正9年の11月6日、北里が67歳のときに慶応大学病院の落成式が行われ、北里が挨拶に立ちました。
北里は、福沢門下ではないけれども先生に受けた恩恵は門下生以上であり、そのために進んでこの大任を引き受けた、と語ります。
(学内は融合して)一つの家族のごとく、全員が研鑽に努力することを目指したい。
北里が目指したのは、各科の仲間割れという医学界の悪い習慣を防ぎ、基礎医学と臨床医学の連携を緊密にすることでした。
あきさんは、基礎医学と臨床医学があまり仲がよろしくないのは今でもある、と補足します。臨床系が予算を取りすぎていると怒る基礎研究者もいるといいます。
北里は、帝大系が陥っていた権威主義や硬直した組織の弊害を避ける運営を目指しました。伝染病研究所で培った組織の運営方式を、慶応大学にも当てはめたのです。
権威主義を外したものを作っていたんですね。
長男の心中事件と、学生たちの籠城
最後の大仕事を成し遂げた北里ですが、1925年、大正14年6月15日、72歳のときにスキャンダルが起こります。
北里家の長男・俊太郎が、日光で赤坂の芸者と心中を図ったのです。夜中に田端が呼び出され、北里から震える声で後処理を依頼されました。
二人は帯で固く体を結んで水中に身投げしましたが、俊太郎は泳ぎが得意で死にきれませんでした。たまたま通りかかった漁師が二人を救い上げます。
しかし芸者はすでに亡くなっており、息子一人が助かりました。新聞は大細菌学者の息子のスキャンダルを面白おかしく書き立てます。
北里は責任を取り、全ての公職を辞任すると言い出します。ところが、これに慶応大学医学部の学生たちが猛反発しました。
学生代表11人が北里宅に押しかけ、次々に留任を訴えます。
親父は不人情です。我々を見捨てないでください。
最後には、撤回してくれるまでこの家に籠城すると言い出す始末でした。これに北里は感動し、泣きながら留任を撤回します。
あきさんは、慶応大学医学部でも北里は生徒たちから愛された存在だったのだろう、と語ります。
偉大な先生だったんでしょうね、きっと。でも雷親父とも言われてましたけどね。
ドンネル親父と呼ばれ、突然怒り出すので皆に恐れられていました。それでもしっかりと教えてくれる先生だったのだと、二人は振り返ります。
最後にあきさんは、田端が金も集めれば裏仕事もこなす存在であったことに触れます。ありがたい人間を側に置いてくれたのは福沢諭吉だと語り、この回を締めくくりました。
まとめ
陰謀とバッシングで伝染病研究所を追われた北里柴三郎は、私財と全国からの支援を集め、私立の北里研究所を設立しました。帝大との和解や慶応大学医学部の創設にも関わり、最後まで研究と教育に情熱を注いだ姿が語られました。
- 内務省から文部省への管轄移管と青山の陰謀で、北里は所長を辞任し、弟子や所員も後に続いた
- 重税への不満を背景に世論は北里に同情し、弟子や国民からの寄付が北里研究所設立を支えた
- 北里研究所はコッホ研究所を模したモダンな建物で、顕微鏡観察のためにあえて北窓の採光を採用した
- 血清製造の人材を欠いた帝大側は窮地に陥り、長与又郎が緩衝材となって両者の和解が実現した
- 福沢への恩返しとして慶応大学医学部の創設に関わり、権威主義を避けた家族的な組織運営を目指した


