バークレー校の「いいおもちゃ」だったNMR
前回まではマリスがカリフォルニアに移り、LSDやマリファナを体験した壮絶な日々が語られました。今回はその続きで、バークレー校での研究生活が中心になります。
マリスが移ったカリフォルニア大学バークレー校には、当時最新の磁気共鳴装置がありました。一般にNMRと呼ばれる機械です。
この装置は、商業化されて世界で最初に市販されたものが大学にあり、学生が自由に使えるのが特徴でした。マリスにとっては格好の「おもちゃ」になったといいます。
聞き手のとみーは、高額な最新機器を学生が自由に触れるのは今では考えにくいと話します。
今でもNMRって高額機器になるので、有機合成に特に力を入れている大学でも古いものを2、3台置いて、少しずつ新しいものに置き換えていくイメージなんですよね。
とみー自身も学生実習でNMRを使った経験があり、合成した化合物が思った通りにできているかを確認したそうです。
作ったものが混ざっていて純度が高くないと、グラフの山がきれいに見えないんですよね。実習だとほとんどきれいに見えなくて、教科書通りにはうまくいかないんだなと感じました。
NMRの原理は、病院で使われるMRIにも応用されています。強い磁気を使うため、金属やスマートフォンを持ち込むと引き寄せられて危険だという点も語られました。
南京錠の応酬と、電子キーをめぐる決着
マリスはこの装置に夢中になり、マニュアルを熟読してさまざまな化学物質の構造を調べていました。飛行機のコックピットのようなコンソールの前で、ダイヤルやスイッチをいじる機械だったといいます。
ところが二学期に入って装置を触りに行くと、機械には箱がかぶせられ、南京錠で開けられないようにされていました。
調べると、化学部門の研究員の仕業らしいとわかります。この装置は使わない期間が長くなると調子が悪くなる性質があり、休み明けは磁気共鳴を起こす3つの軸が微妙にずれて、調整に何時間もかかりました。
その性質を理解していなかった研究員が、休み明けの不調を「誰かが無茶な使い方をした」と誤解し、鍵をかけてしまったのだと考えられます。マリスにとっては濡れ衣のようなものでした。
これに対してマリスは、南京錠がかかっているところにもう1つ別の鍵を買ってきて取り付け、両者とも使えないようにしてしまいます。
そんな制限する意味ないだろうって思っているキャリーの気持ちが、その行動にそのまま出てる感じですね。
化学部門の教授がマリスのところに来て問いただすと、マリスはこう提案します。使う人間を集めて使い方を協議するので、そちらが鍵を外すなら自分も外すと。
双方が鍵を外すことに合意し、妥協案として使用者だけが使える電子キーを渡すことになりました。ところがマリスは、その電子キーを持ち歩くのが面倒で機械の裏に吊るしておいたそうです。
やがて「機械の裏に電子キーがある」とみんなに知れ渡り、結局は誰もが自由に使える状態に戻りました。
使わないと調子が悪くなる機械だからこそ、みんなで使うことが一番の解決策だったのかもしれません。
物理の直感を書いた論文が、なぜかNatureに載る
こうした学生生活の中で、マリスは専攻の化学ではなく物理について考えた論文を書き、それがなぜかNatureに採用されます。
日本語に訳すと「時間逆転の宇宙的意味」というような表題で、宇宙全体の創生と終わりを、彼の想像力をもとにほぼ直感で論じたものでした。
内容は、物質は過去から未来へ流れるという当たり前の感覚とは別に、未来から過去へ逆に流れているものもあるのではないか、というものです。量子力学が発展していく時期でもあり、一つの説として面白いと採用されたと考えられます。
奇想天外なSF小説に聞こえるかもしれない。しかしアメリカの科学者の鋭い洞察によれば、宇宙に存在する物質の半分は時間を逆行しているという。
この論文は通信社が配信し、新聞記事にもなりました。天文学者でもない一介の大学院生に、世界中から論文の抜き刷り請求が届き、マリスはプチ有名人になって有頂天になったといいます。
01の発見と再現性、いま研究論文に問われるもの
論文が実験なしの理論だけで採用された点について、とみーは現在の研究事情に話を広げます。
近年は研究不正や再現性の話題がよく取り上げられます。ある細胞が本当にもう一度作れるのか、といった議論は日本でも大きく起きました。
研究者の人たちは、なんでかわからないけどうまくいったみたいなことでも、発見ではあるので、その発見を報告するのが研究者の仕事なんですよね。それってやっぱり0か1なので。
一方で、その現象が再現するかどうかまで確認するとなると、別のプロセスが加わります。仮説を唱えるだけでなく、それが本当かまで証明しないと投稿できないのが今の流れだと、とみーは話します。
もっと自由な研究をしていくためには、うまくいったんだよねという発見でも投稿できるようになるといいなと思うんですが、逆に再現しなくてもいいなら、嘘でもいいから書いておけということにもなってしまう。そこが難しいところなんですよね。
この難しさから、査読を経ずにネット上へ先に公開する動きも広がっていると二人は指摘します。物理や数学の分野では、そもそも査読できる専門家が世界に数人しかいない場合もあるといいます。
あまりにも厳しくしすぎると論文が出ないので、新しい発見もできませんし、検証まで求められるとすごくお金がかかってしまう。そこはどんどん変えていかないといけないと思いますね。
博士号とは何か、「ドクター」と呼ばれる人たち
マリスは1973年にバークレー校で生化学の博士号を取得し、同大学で生化学の講義を担当し始めます。この時期に最初の結婚をして長女が誕生し、学費と生活費のために高校時代から続く化学試薬会社のアルバイトも継続していました。
新聞社が一介の大学院生を「キャリー・マリス博士」と書き、ファンレターやサインを求められることもありました。まだ博士になれたらと思っていた段階でのこの扱いに、マリスは違和感を覚え、後のメディア不信の片鱗が見えます。
この流れで、とみーが博士号のしくみを解説します。「博士」は何かに詳しい人という敬称的な意味で使われることもありますが、世界的には博士号を持つ人を指す言葉です。
博士は国際資格になりますので、日本で取っても、世界のどこの国に行っても博士は博士なんですよね。
英語圏では、博士号を持つ人にミスターと呼びかけると失礼にあたり、ドクターと呼ぶのが通例だといいます。一方で、経歴を調べる手間を避けるために、英語のメールでも日本式の「さん(-san)」を使う動きが広がっているという話も出ました。
博士までの道のりについても整理されました。
学部や分野、大学のポリシーによって条件は異なり、有名雑誌への掲載が必須だったり、複数著者の論文で筆頭でないと評価されない場合もあります。
とみー自身は薬学部の6年制で、修士がなく博士が4年制だったと説明します。医学部や獣医学部も同様で、満期退学のように卒業はできても博士号を取得しない道もあります。
PhDは博士号を意味し、本来はPhilosophy(哲学)のPhとDoctorのDから成り、哲学博士を指します。これとは別に、臨床で一人前であることを示すMD(Medical Doctor)やPharmDなどの資格もあると紹介されました。
脇道の解説を経て、今回はここで一区切りとなりました。次回は、離婚を経て2回目の結婚をし、カンザスシティへ移り住むところから始まります。
まとめ
バークレー校の最新装置NMRに夢中になったマリスの逸話から、直感で書いた論文がNatureに載った出来事、そして研究論文の査読や博士号のしくみまでが語られた回でした。若き日の破天荒さと、現在の研究者が向き合う課題が重なって見えてきます。
- バークレー校では世界初市販のNMRを学生が自由に使え、マリスはそれに夢中になった。
- 鍵をめぐる南京錠の応酬は、電子キーを機械の裏に吊るすという形で全員が使える状態に戻った。
- 物理の直感で書いた「時間逆転」の論文がNatureに載り、マリスは一時プチ有名人になった。
- 0か1の発見を報告するのが研究者の仕事だが、再現性の証明まで求められる難しさが今はある。
- 博士号は国際資格で、PhDは研究の学位、MDやPharmDは臨床の一人前を示す資格という違いがある。
