カンザスシティでの研究と自宅実験
前回はNMRへの熱中やNatureへの論文掲載などが語られました。今回はその後のキャリーの歩みを追っていきます。
キャリーは一度離婚したあと、二人目の妻と結婚します。妻がカンザスシティの医学部に通うことになり、キャリーもついていくことになりました。
カンザス大学で小児循環器の博士研究員の職を得て、子供の慢性肺疾患を生化学の側面から研究します。ただ研究はすぐに停滞し、イライラが募っていきました。
さらに毎日ラットを殺す動物実験にも飽き飽きしていたようです。二回目の結婚もすぐに破綻し、妻は新居を出て行きました。
マリスはそのまま新居に住み続けます。カンザスシティの研究センターは入れ替わりが激しく、毎月のように研究室が潰れたり、別の機関へ移っていったりしていました。
その度に不要になった実験機材が出るため、マリスはせっせともらってきては自宅の元妻の部屋に置き、実験を楽しんでいたそうです。
いやーすごいですね、家でも実験をしようっていう。
自宅実験と「意志の力」への挑戦
キャリーは何か面白いことをしようと考えます。インドの修行者サドゥーの中には、意志の力で冬眠状態を作り出せる人がいるという話を聞いたことがあったそうです。
あきは子供の頃、テレビ番組でサドゥーがガラスの箱に入って冬眠状態になり、水中に1時間ほどつけても生きているという映像を見たことがあると語ります。
さらに若い頃インドを訪れた際、地面に顔だけ埋めて逆立ちする人など、わけのわからない修行をする人が大勢いたと振り返ります。
通り過ぎようとしたら、そいつがいきなりガバッと起きて、お前見てたなら金払えって言われたことがあります。
キャリーも自分でそうした状態を作れないかと考え、拾ってきた機材で自分自身を実験台にします。まず両手首に電極を取り付け、9ボルトの電圧をかけて体内の抵抗値を測定しました。
つまらない時や瞑想状態では抵抗値が上がって18万オームに達し、興奮状態になると9万オームまで下がることを確認します。皮膚の汗などで電流が流れやすくなったためと考えられます。
さらにオシロスコープにつなぎ、意志の力で波形をコントロールし、最終的に全くブレない一直線を作り出せるようになりました。かなりの訓練が必要だったようです。
ところが人に見せても「ふーん、すごいね」程度の反応で、期待した看護学生の女の子たちにも興味を示してもらえず、がっかりしたそうです。
間違いなく女の子には受けないですよね、これは。
遠隔操作の「手品」と職業の転換
キャリーはこの能力を使って手品を作ろうと考えます。意志の力で電圧を操れるなら、遠隔で何かを操作できるはずだと発想しました。
ラジコンを分解して電波の受信機と送信機を取り出し、通りを隔てた部屋の電球と手元の電圧器につなぎます。意志の力で向こう側の電気をつけたり消したりすることに成功しました。
これを看護学生たちに見せると、今度は喜んでもらえたそうです。子供の頃に電磁石で鍵を作ったこともあり、こうした細工はお手の物だったのかもしれません。
1975年、毎日動物を殺すことに飽き飽きしたマリスは、ガラッと職を変えることにします。
化学者がバイオで感じた「曖昧さ」
とみーは、化学が専門だったキャリーが動物を扱うバイオの領域に移った点に注目します。バイオは比較的新しい学問で、当時は分析技術が未発達だったといいます。
NMRのように綺麗に結果が見える化学に比べ、バイオは結果がふわっとしていて、とっつきが悪いと感じる人が多いそうです。
一足す一は二っていう世界なので、一かもしれないものと一かもしれないものを足したから二じゃなくて三っぽいなみたいなのがそのバイオのイメージですね。
とみー自身も化学が得意で薬学部に入り、「これからはバイオの時代」と聞いて生化学に飛び込んだ経験から、化学とバイオの間で苦労したのではないかと語ります。
あきも、リアルタイムPCRが初めて出てきた時、酵素が1サイクルで倍に増えることを疑ったと振り返ります。生物由来の酵素がそんなに正確に働くはずがないと思い込んでいたそうです。
とみーによれば、最近の改良された酵素でも増幅効率は1に対して0.98ほどで、ものによっては0.8のこともあるといいます。生物は複雑で、綺麗に測るのは難しいのです。
一足す一は二のように結果がはっきり出て、NMRなどで綺麗に見える
生き物を扱うため結果が曖昧で、増えていればOKといった感覚になりがち
コーヒーショップ店員から製薬研究へ
職を変えたマリスは、当時付き合っていた恋人を連れてバークレーに戻ります。三番目の妻となるはずだった女性と書かれていたそうです。
そこでキャリーは、最初の妻が運営していたレストラン兼コーヒーショップで店員として2年間働き始めます。娘を一緒に育てた元妻の店に、別の恋人を連れて戻った形でした。
元奥さんのところに何か別の女の子連れて戻るって、なかなか進んでるというか、厚顔無恥というか、何というか。
研究職をすっかり辞めての2年間でした。生化学で成功するのは難しいと感じ、研究に嫌気が差していたのかもしれません。
この頃、バークレー校時代の友人トムホワイトと再会し、職を紹介してもらいます。カリフォルニア大学サンフランシスコ校の製薬科学部門でポスドクとして採用されました。
そこではエンドルフィンの研究に関わります。ちょうどエンドルフィンが発見された時代で、研究対象として人気を集めていました。
モルヒネとエンドルフィンの化学構造式がほぼ同じと分かったことは、当時大きな衝撃でした。脳内の仕組みを外部からモルヒネとして取り入れて気持ちよくなっていたと理解されたのです。
キャリーはエンドルフィンの抽出に携わりますが、これはかなり難しい作業でした。エンドルフィンは生成の途中で簡単に分解されてしまうためです。
脳内で作られたエンドルフィンが永遠に残れば気持ちいい状態が続いて危険なため、速やかに分解されるのは当然です。分解物質と共存する中でエンドルフィンだけを取り出す必要がありました。
キャリーはうまく抽出する生成方法を編み出します。ただしラットの脳下垂体から抽出する作業のため、また毎日ラットを殺す日々になり、この仕事にも飽きてしまいました。
動物実験をめぐる現実
とみーは、実験で使われるラットの大きさについて補足します。よく使われるマウスは手のひらほどですが、ラットは肘までの45〜50cmほどあり、感情もあって怖がったりするといいます。
下垂体しか使わない場合、それ以外はゴミになってしまいます。1日に数10匹必要になることもあり、気持ちの面で難しい作業でした。
なぜ動物実験が許されてきたのかについても語られます。ラットやマウス、ハエやゴキブリなどはもともと害獣・害虫で、処分するくらいなら有効活用しようというのが始まりだったといいます。
近年は犬がほぼ使えなくなりました。心臓が人に近いことから使われていましたが、食用でも使われる豚に置き換わる流れがあるそうです。目の試験にはウサギがよく使われます。
やっぱりラットは私はその感情があるので苦手ですね。
製薬メーカー時代の先輩が痛みの薬の試験を行った際、ラットが警戒して歯をむき出しにして嫌がったという話も紹介されます。動物を使わない方向へ進むのがよいと二人は語ります。
運命の会社シータス社への入社
嫌気が差していたキャリーに、再びトムホワイトが仕事を紹介します。シータス社が有機化学合成ができる人間を探しており、仕事はDNA合成でした。
1979年、キャリーはバイオテクノロジー企業のシータス社に就職します。トムホワイト自身がシータス社の社員で、キャリーの入社を望んでいたと考えられます。この会社でのちにPCRが生まれます。
シータス社は1971年、カリフォルニア州バークレーで設立されました。共同創業者の一人ロナルド・エー・グレイザーは、泡箱の発見でノーベル物理学賞を受賞した物理学者です。
設立当初は、産業用の微生物を選別し、化学原料や抗生物質、ワクチン成分をより多く簡単に生産する自動化技術の開発を目指していました。
1970年代後半には、組み換えDNA、遺伝子発現、モノクローナル抗体という3つの革新的技術が登場します。シータス社はこれらを使って成長しようとしていました。
1981年、バイオ関係のベンチャーとしては初期のIPOを行い、最大規模となる1億8千万ドルを調達します。
その背景には特許をめぐる転換がありました。1980年、ジェネラルエレクトリック社の微生物学者アナンダ・チャクラバーティが、石油を分解する遺伝子を組み込んだ微生物の特許を争います。
最高裁は、人間によって作られたものであれば生命体でも特許になり得ると判断しました。それまで生き物は特許にならないという風潮があり、この判断がバイオ企業を活気づけたのです。
本当にその特許が取れるかどうかって、ビジネスをする上ではとても大切なことですもんね。
特許が認められなければ他者に真似され放題になり、新しいものを作る意味がなくなってしまいます。この転換は画期的な一歩でした。
とみーは自身が携わった核酸医薬の経験から、並べ替えただけでは新規性が認められず特許が取りにくかったこと、しかし機能が違えば用途特許が取れる場合があることを語ります。
コロナのワクチン以前からmRNAやDNAを使った医薬品の研究をしていたそうで、こうした技術が社会に還元されることで、特許を認める流れも変わっていくのではないかと話します。
こうした時代の始まりの中に、キャリー・マリスはシータス社の一員として飛び込んでいったのです。
まとめ
毎日ラットを殺す研究に嫌気がさしたキャリー・マリスは、研究職を辞めてコーヒーショップの店員になるという異色の道をたどり、友人の紹介で運命の会社シータス社にたどり着きました。
- キャリーは研究の停滞と動物実験への嫌気から、1975年に研究職を辞めた
- 化学者だった彼は、結果が曖昧なバイオの領域に強い違和感を抱いていた
- コーヒーショップで働いたあと、友人トムホワイトの紹介で研究職に復帰した
- 1979年、生命体の特許が認められ始めた時代にシータス社へ入社した
- このシータス社での出会いが、後のPCR発明とノーベル賞につながっていく
