CD5高発現細胞を追い詰めきれなかった前回の続き
前回、京都大学に戻った坂口先生は、モノクローナル抗体を使って、CD4ポジティブでCD5が高いレベルで発現しているリンパ球を集めました。
そのリンパ球を取り除くと、免疫の暴走を抑えられることを突き止めたと紹介されています。
ただ、このCD4ポジティブでCD5がハイの細胞は、キラーT細胞全体の八十パーセントもの大きな割合を占めていました。
論文を読んだ人からは、ある分画の八十パーセントを取り除いたら、他にもおかしなことが起きて自己免疫疾患が出るはずだ、というツッコミが入ったと話されています。
そこで坂口先生は、免疫を抑える細胞をさらに追い詰めたいと考えていました。
特許を取らなかったモノクローナル抗体の発明者
前回の補足として、この研究で目印を探すために使うモノクローナル抗体を発明した、ジョルジュ・ケーラーとシーザー・ミルスタインが紹介されます。
彼らはこの技術を発明した後、科学界全体にとって重要すぎると考え、特許を取りませんでした。
そのおかげで、世界中の研究者がこの技術を自由に使えるようになり、モノクローナル抗体を使った実験が一気に可能になったと話されています。
今ではこの技術から、抗がん剤のオプジーボやハーセプチン、サイトカインストームを抑えるアクテムラ、コロナで使われたロナプリーブなどの薬が作られていると紹介されました。
もし特許を取得されてたとしたら、多分とてつもなく大富豪になってられたのかなと思うんですけれども。
科学界の発展のために取らなかったっていうのは、ほんとすごいなと。
熱狂の末に否定されたサプレッサーT細胞
ここで、坂口先生が事実を突き詰めた頃には終わってしまっていた研究、サプレッサーT細胞について時代背景が語られます。
免疫はウイルスや細菌などの敵を攻撃するものですが、自分自身を攻撃してしまうものもいます。それを止めるブレーキ役として、サプレッサーT細胞がいるはずだと考えられていました。
アメリカのある研究者がこの細胞の存在を言い出し、証拠も見つかったとして、1970年代に世界中で大ブームになったと話されています。
ただ、この時代には突き止めるための実験技術がまだ開発されておらず、みんなが間違ったものを追いかけてしまいました。
今では、探されていた細胞はCD8ポジティブの中にいると言われていたことがわかっていますが、実際にはそこにはいなかったのです。
それらしい結果がどんどん論文に投稿された一方で、1980年代には細胞の目印が結局わからないという結論になりました。
そして、サプレッサーT細胞はいないとされ、免疫学の中から完全に否定されたような状態になってしまいます。
坂口先生はCD8ではなくCD5の方を追いかけていましたが、考え自体が否定される世の中になり、日本で研究職の籍を見つけるのが難しくなりました。
サプレッサーT細胞は存在しないという話に世間がなった時に、日本ではもうその研究にお金を出してくれないということですか。
そうした流れに加え、サプレッサーT細胞の遺伝子を捉えたと言い出したのが日本の研究者であり、その結論も結局は全然違ったとされたため、日本の中では特に難しさがあったのかもしれないと話されています。
退路を断って渡米、認められなかった論文
テーマを変えて日本に残る道もありましたが、坂口先生はこの研究をどうしてもやりたかったのだと思われます。
日本ではダメでも、アメリカなら籍があるかもしれないと考え、活路を求めることにしました。
1983年、32歳のとき、奥様の紀子さんを共同研究者として伴い、ジョンズ・ホプキンス大学医学部の客員研究員として留学します。
留学中の1985年には、京都大学時代に見つけたCD5陽性のT細胞が免疫を抑えるという論文を投稿しました。
しかし、この論文はほとんど注目されず、アメリカでも認めてもらえなかったそうです。
坂口先生は、認めてもらえなかったのはサプレッサーT細胞の否定的な影響だろうと振り返っています。
運命を変えたルシールPマーキー奨学金
留学期間は2年間で、その間に次の職を求めて、坂口先生はさまざまな奨学金に応募していました。
そこで射止めたのが、ルシールPマーキー奨学金です。
この奨学金は、競走馬の牧場とサラブレッドのオーナーでもあった大富豪の夫人が遺したものでした。彼女は数百億円の遺産を、すべて医学研究のために15年で使い切ってほしいと遺言を残したそうです。
この遺言をもとに、スタンフォード大学などに研究のためのビルが建てられ、それでもまだ余裕があったといいます。
そこで、全米から医師8人と生物系の研究者8人、合計16人を毎年選び、一人につき8年間、給料と研究費を支給する仕組みが始まりました。
坂口先生は、CD4ポジティブでCD5の亜集団がどういうものかを突き止めたい、という研究テーマで応募します。
選考にはノーベル賞受賞者たちが関わっており、面白い視点で研究者を選ぼうという目的があったと話されています。
選考では、流行の研究をしているかではなく、その理論は正しいか、その問いは生物学的に重要かを見ていたそうです。
人物についても、過去の業績のリストよりも、面談で目の前の研究者がどれだけ深く考え、追い続ける執念がありそうかを評価していたのではないかと言われています。
細かい実験データの揚げ足取りではなくて、君の考える免疫学の根本的な問いは何かといった、本質的な議論を求められた。
坂口先生は見事にこの奨学金に採用され、留学の2年に加えて、さらに8年間アメリカで研究を続けられることになりました。
抗体を融通し合う研究文化とCD25への絞り込み
奨学金には、8年のうち最初の2年は別のところで勉強するという条件がついていました。
そこで坂口先生は西海岸に行こうと考え、カリフォルニア州のスタンフォード大学の客員研究員になります。
2年が過ぎると、次は英語で講義をする自信がなかったため、授業をしなくてよい研究職を探し、サンディエゴのスクリプス研究所の免疫学部の助教授として採用されました。
この期間、坂口先生は一年に一本ほど論文を書くペースを保ち続けていたそうです。
そのなかで、後に制御性T細胞、Tレグと名付けることになる、CD4ポジティブでCD5ハイの細胞の、より確実なマーカー探しに打ち込みます。
坂口先生は、これは日本にいてはできなかったと後に回想しています。
その理由が、モノクローナル抗体をめぐる研究文化でした。アメリカでは多種多様なモノクローナル抗体が売られ、あるいは研究者が自作して存在し始めていたのです。
日本ではそれを輸入して買うため非常に高価でしたが、アメリカでは高価とはいえ買うことができました。
さらに、いろいろな免疫学者が別々のターゲットを研究していたため、抗体をお互いに融通し合うことができたそうです。
この抗体、ちょっとだけ分けてくれない?っていうふうにお願いしたら、いいよっていう感じで、割と融通してくれる人たちがいっぱいいた。
こうしていろいろな抗体を試すなかで、最終的にCD25という抗体が、免疫を制御するT細胞のマーカーになりそうだというところまで絞り込めてきました。
そして8年の月日が経ち、坂口先生は次のポジションとして日本に帰ることを決めます。
最後に、抗体を融通し合える研究文化が、特許を取らなかった発明者たちのおかげであることが改めて語られます。
抗体を融通し合えるとか研究が盛んというのは、最初の特許を取りませんでした話のおかげということですか。
その通りだと話されています。もし特許を取っていれば、モノクローナル抗体を作るたびにロイヤリティが発生し、研究にもっと高額な費用がかかっていた可能性があり、免疫学の発展にとってありがたい限りだとまとめられました。
番組では、以前扱った北里柴三郎も血清の特許を取らず、作成技術をオープンにして医学の発展に役立てた例として触れられます。
まとめ
今回は、否定されたサプレッサーT細胞の研究を捨てずに渡米した坂口先生が、奨学金と抗体を融通し合う研究文化に支えられ、制御性T細胞のマーカーであるCD25にたどり着くまでが語られました。
- CD4ポジティブでCD5がハイの細胞はキラーT細胞の八十パーセントを占め、さらに追い詰める必要があった
- サプレッサーT細胞は1970年代に世界中で熱狂されたが、間違った標的を追った末に否定された
- 坂口先生は日本での籍が難しくなり、1983年に退路を断って渡米した
- 大富豪夫人の遺産によるルシールPマーキー奨学金が、8年間の研究を支えた
- 抗体を融通し合える研究文化に助けられ、最終的にCD25というマーカーへ絞り込んだ
