薬を捨てる決断と理想の患者レスリー・ブラウン
前回は、体外受精による胚移植で子宮外妊娠に至り、体外で作った胚が人に根付くことを科学的に証明できたところまで紹介されました。
ただし、きちんと妊娠を成立させるには、子宮環境を荒らす排卵誘発剤の使用をやめようと、ボブとステプトが話し合って決めた、というところまで話が進んでいます。
このプロトコルを捨てると決めた後、彼らの前に理想的な患者としてレスリー・ブラウンさんが訪れます。
彼女は9年間子宝に恵まれず、原因もはっきりしていました。両方の卵管が詰まる卵管性不妊卵子や受精卵が卵管を通れず子宮に届かない状態。卵子や子宮そのものは健康なことが多い。という状態です。
一方で、子宮環境や生理の周期はとても健康的でした。卵子は排卵されるのに卵管に吸われず子宮まで届かないだけなので、外で胚を作って戻せばうまくいきそうだと容易に想像できる状態だったといいます。
排卵周期が読みやすく、子宮も健康な彼女こそ、薬を使わない自然周期法が使える患者だと彼らは考えました。
3時間おきの尿検査と持田製薬の試薬
1977年11月、薬を使わない採卵に挑みます。これまでは排卵誘発剤とホルモンで排卵日をコントロールしていましたが、それは5年間積み上げた成果でもありました。
その方法を捨てるということは、逆に自然な排卵がいつ起こるのかを突き止める必要が出てきたということです。
レスリーさんの自然な周期から、だいたいこの辺で排卵になるという予測はつきました。しかし、何時に排卵するのかまで突き止めないといけません。
卵子はおよそ37時間かけて成熟するため、一番いいところで取りたいという狙いがありました。そこでジーンはレスリーさんの尿を3時間おきに採取します。
排卵のサインであるLHサージ排卵の直前に黄体形成ホルモン(LH)が急激に増える現象。このピークを捉えることで排卵のタイミングを予測できます。のピークがいつなのかを、3時間ごとに測り続けて待ちました。
ここであきが日本人として嬉しかったと語るのが、当時の持田製薬が作っていた検査試薬です。ハイゴナビズという試薬がホルモン値を捉えるのにとても良かったそうで、チームはこれを採用していました。
ただし、この試薬でも尿を採取してから結果が出るまで2時間かかりました。だから3時間おきに採取していたのだろう、とあきは推測しています。
今だと、もうおしっこをかけたらすぐわかるみたいなものが出てるみたいなんですけれども、この当時はおしっこを取ってから結果がわかるまで2時間もかかったということですね。
たった一つの卵子から始まった受精と移植
11月10日の夜、ジーンが「今が一番いい」と判断します。ずっと控えていたステプトが深夜に叩き起こされ、腹腔鏡手術を行いました。
自然排卵で排卵のギリギリ前という状態のため、成熟している卵子はたった一つしかありません。ステプトはそれを見つけ出し、この唯一の卵子を回収します。
その卵子に、ボブが調整した夫ジョンさんの精子を使います。ボブは精子をキャパシテーション精子が卵子に受精できるようになるための最終的な成熟過程。この状態を人工的に整えることで受精しやすくします。という元気な状態にしておき、それをジーンが振りかけました。
ボブが受精させて、ジーンがその受精卵の分割を観察していくんですね。
ジーンは顕微鏡で、精子と卵子の核である2つの前核が中にあることを確認します。受精から2.5日後、胚は8分割まで成長しました。
技術的には胚盤胞受精卵がさらに成長し、細胞が多数に分かれて構造化した段階の胚。ここまで育つ確率は8分割の段階より低くなります。まで育てられましたが、育ちきる確率は低いため、8分割の状態で子宮に戻すことにします。
これまで8分割ではなかなか成功しませんでした。しかし薬を使っていない自然な状態の子宮なら8分割胚でも受け入れてくれるだろう、という賭けに出たのです。
移植の数週間後、ジーンがレスリーさんの尿を検査すると妊娠反応が確認されました。この判定にも持田製薬のゴナビズという検査試薬が使われたそうです。
1978年7月25日、ルイーズ・ブラウン誕生
1978年7月25日、この妊娠が成立して初めてのお子さんが誕生します。名前はルイーズ・ジョイ・ブラウンさん。ミドルネームのジョイはボブがつけたそうです。
帝王切開で、体重2600グラムの元気な女の子でした。取り上げたのはステプト先生です。
ルイーズさんが産声を上げた瞬間、ステプトはボブに向かって「It's out!(出たぞ)」と叫んだそうです。
このシーンは記録映像として残っており、映画「ジョイ」でも3人と赤ちゃんが写る映像が使われていました。本当に感動的なシーンだったのだろう、とあきは話します。
エドワーズとジーンは1972年に胚の育て方をマスターし、その後は母体のリズムを尊重することを学びました。子宮の研究から始め、どの時期に胚を戻すのが一番いいのかを何度も繰り返して失敗を重ねました。
悲しい結果となった子宮外妊娠なども経て、やっとここまでたどり着いたのです。
これは1977年に薬を捨てたときのエドワーズの言葉として紹介されています。こうして初めての体外受精が成功しました。
ボーンホール設立とジーンの功績
その後の3人について紹介されます。まず彼らはIVF専用の病院ボーンホールを設立します。
ルイーズさんの誕生後、世界中から子供を授かりたいという切実な願いが届きました。しかしイギリス政府は相変わらず予算をつけませんでした。
そこで再びアメリカ人のリリアン・リンカーン・ハウエルさんが資金援助をし、加えてイギリスの鉱山会社経営者ルドルフ・アグニューさんも研究に価値があるとして援助してくれました。
この支援を受けて、ボブ、ステプト、ジーンの3人は1980年、ケンブリッジ郊外の邸宅を改造し、世界初の不妊治療専門クリニックのボーンホールを設立します。
ジーンはここの初代技術ディレクターに就任します。ラボの設計は、彼女が理想とする胚にとって最も安全な環境をゼロから考えて作り上げたそうです。
人の胚をどう扱うかという技術は当時彼女一人にしかできなかったため、ジーンはそれを教える教育者となります。今、世界で活躍するベテラン培養士の多くは、その孫弟子にあたるといいます。
最初の論文には名前を載せてもらえなかったジーンですが、その後は1970年から1985年の間にボブと共同で26本もの学術論文を発表しました。
何度で培養し、どのタイミングでどの培養液を使うのがいいのか。現在でも使われるIVFの標準プロトコルを文書化して体系立てたのが彼女の功績です。
1982年にはボブとの共著で「体外受精による人類の受胎」という専門書を出版します。これは初期の不妊治療におけるバイブル的な位置づけとなりました。
1980年代前半、イギリスでは体外受精を法的にどう規制するかを議論するワーノック委員会が立ち上がります。ジーンは倫理側の代弁者として、受精卵を単なる細胞の塊ではなく潜在的な生命としてどう尊重すべきか、現場視点から説明を行いました。
3人の最期と37年越しに刻まれた名前
大変残念なことに、1984年頃、活躍を続けていたジーンに悪性腫瘍が見つかります。
彼女は自分が亡くなるとわかっていても、ずっとボーンホールのラボに居続けたそうです。多くの人に技術を教え、顕微鏡を覗き、最後まで治療に携わりました。
1985年4月13日、ジーン・パーディさんは39歳という若さで息を引き取ります。ボブは「私は右腕を失ったのではない、私の魂の半分を失ったのだ」というほど悲しんだそうです。
ステプト先生はボーンホールの初代院長に就任し、自分が開発した腹腔鏡の採卵技術をさらに磨き上げます。
普通なら引退する70歳になっていましたが、世界一流の技術を持ち、世界中から集まる産婦人科医に惜しみなく伝授しました。今、世界中で行われる採卵技術の基礎は、このステプト先生が作ったものです。
長年ロンドンのエリート医学界からは地方の怪しい医者のような扱いを受けていた彼ですが、1987年に王立協会のフェローに選出されます。翌1988年には大英帝国勲章を受章し、エリザベス女王から直接授与されたそうです。
そのステプト先生も前立腺癌に侵されており、病状を隠して診察を続けていました。1988年3月、74歳でこの世を去ります。
ルイーズ・ブラウンさんはステプトさんを「パトリック叔父さん」と呼び、実の家族のように慕っていたそうです。葬式には彼が治療に関わった多くの家族が参列しました。
ボブは不妊治療が科学的に標準化されるべきだと考えます。1984年には彼が中心となって欧州ヒト生殖委員会を設立し、世界最大の組織へと育て上げました。今では不妊治療のガイドラインを作る世界最高の権威となっています。
さらに「ヒューマンリプロダクション」という学会誌を創刊し、世界中の不妊治療の研究者が成果を発表できる場も作りました。
ルイーズさんの誕生から32年後の2010年、ボブが85歳のときにノーベル医学生理学賞が贈られます。受賞理由は体外受精の技術の開発でした。
このときすでにステプトもジーンもこの世におらず、ボブ自身も認知症を患い始めていたため受賞式には出席できませんでした。妻のルースさんと5人の娘たち、そしてルイーズ・ブラウンさんが出席したそうです。
2013年4月10日、ボブは87歳で亡くなります。葬式には、彼が作った技術で生まれたかつての赤ちゃんたちが世界中から参列しました。
あきがずっと心にとどめていたのが、記念碑をめぐる話です。ルイーズさん誕生の3年後、1981年に、彼女が生まれたオールドハム総合病院に記念のプラークが設置されることになりました。
そこには「世界初の体外受精児がパトリック・ステプト氏とロバート・エドワーズ氏によって誕生した」と書かれる予定でした。これにボブは激しく反発します。
ジーンの名前が入ってないなら、私は除幕式に出席しないし、そのプラークは嘘である。
しかし当時のオールドハム衛生局は、ジーンは単なる技術者、ナースであって、医師や教授と同等に名前を刻むのは不適切だとして掲載を拒否します。結局プラークにジーンの名前は入らず、ボブは除幕式をボイコットしました。
ボブは亡くなる直前まで「ジーンの名誉を回復せよ」という手紙を書き続け、関係機関に働きかけました。しかし生前には達成できませんでした。
彼の死後、2015年にようやく悲願が叶います。かつて評価を誤ったオールドハム評議会とボーンホールの関係者、そしてルイーズ・ブラウンさん本人が立ち会い、新しいブループラークが設けられました。
そこにはついにパトリック・ステプト、ロバート・エドワーズ、そしてジーン・パーディという3人の名前が大きく刻まれます。37年という長い年月を経て、ジーン・パーディさんの名前が歴史の表舞台に刻まれました。
体外受精編を終えて~二人が受けた恩恵
3人はこうして去っていきましたが、体外受精という偉大な技術をこの世に残してくれた、とあきはまとめます。
あきととみー自身も、この医療の恩恵を受けて妊娠までこぎ着けたといいます。それを生命科学の冒険者で扱いたいと思い、映画「ジョイ」を二人で観て、さらに調べてスクリプトを書いたそうです。
ここまで信念を持って続けてきてくれたおかげで、今その恩恵を受けれてるんだな、当たり前に受け入れられているんだなというところに、もう本当に感謝しかないなというふうに思いました。
日本でも不妊治療への補助金がついてきて、いい世の中になってきていると二人は話します。とみーは、保険診療になったのも2022年と最近だと補足しました。
あきは自身の経験にも触れます。一度離婚しており、前の奥さんとの間に生まれた男の子も体外受精でしたが、その時には保険がなく、とんでもないお金がかかったそうです。
それに比べると今回は桁が一つ違うくらいの負担でこの医療を受けることができたといいます。
技術自体も明らかに成長しているととみーは言います。あきによれば、前回はおよそ13〜14年前で、当時はタイムラプスの培養器も少なくとも自分が行った病院では使っていなかったそうです。
この分野は日進月歩で、社会がそれに対して働きかけ、発信してくれたおかげで保険適用もされ、理解も深まったのだろうと二人は振り返ります。
より身近に感じてほしいと思ってこの回を作ったので、ぜひ感想をXに寄せてほしいと呼びかけて、体外受精編は締めくくられました。
まとめ
失敗続きだったチームは薬を捨てて自然周期に賭け、たった一つの卵子から世界初の体外受精児ルイーズ・ブラウンさんを誕生させました。技術を支えた3人はそれぞれの人生を歩み、37年越しにジーン・パーディさんの名前が歴史に刻まれます。この技術は今、不妊治療の標準として多くの家族に希望を届けています。
- 子宮を荒らす排卵誘発剤を捨て、自然周期に切り替えたことが成功の転換点になった
- 3時間おきの尿検査と持田製薬の検査試薬で、自然な排卵のタイミングを執念で追跡した
- 1978年7月25日、たった一つの卵子から生まれたルイーズ・ブラウンさんが世界初の体外受精児となった
- ジーン・パーディは標準プロトコルを体系化した立役者で、37年越しに記念碑へ名が刻まれた
- 保険適用や技術の進歩が進み、あきととみー自身もこの医療の恩恵を受けたと語られている
