胚盤胞ではなく8分割胚を戻すという判断
前回は、人の受精卵をシャーレの上で作り、胚盤胞まで育てる成功までが語られました。
いよいよ次の課題は、この受精卵を子宮に戻すことです。ただ、胚盤胞まで育てられたのは1970年の実験でも非常に稀な例でした。
胚盤胞まで育たずに死んでしまう胚がほとんどだったため、彼らはある程度確実に育てられる8分割胚を移植することにします。
胚盤胞まで育ててから戻す方がおそらく確実です。ただ、シャーレの上よりも子宮の中の方が環境がよいだろうという考えから、1971年より8分割胚を戻す決定をします。
「不妊は病気ではない」という資金打ち切り
挑戦を続ける中で、彼らに悲劇が襲いかかります。イギリスの医学研究評議会MRCから、研究資金を打ち切られてしまうのです。
理由はいくつか語られています。体外受精で何が起こるかわからない、重い先天性の障害を持つ子供が生まれるのではという恐れです。
政府からは、人間により近い猿で数世代にわたって健康な子供が生まれることを証明せよと迫られました。
さらに、不妊は病気ではないという認識もありました。病気でないことの研究より、命に関わる病気の研究に予算を使うべきだという意見です。
映画ジョイの中で、当時のイギリスで結婚したのに子供ができないと、女性はめちゃくちゃ肩身が狭い思いをするという描写がありました。
特に男性不妊という考えも乏しい時代だと思うので、子が生まれないと女性はそれだけで尊厳を失うみたいなことはあったんじゃないかという予想です。
当時は不妊の原因がどこにあるのかもわからないまま、女性側の問題として扱われがちでした。とみーさんは、キリスト教社会では神に愛されていないのではという差別も起きていただろうと話します。
あきさんも、これはイギリス社会だけでなく日本でも、この時代の世界のあちこちにあった問題だろうと応じます。
試験管ベビーと「神への冒涜」
もう一つの反発は、体外受精が試験管ベビーとも呼ばれ、人間を工場で作るイメージを連想させたことでした。
特にキリスト教社会のイギリスでは、神が人を創ったという思想があります。神しか作れない人を、人が作っていいのかという意識がありました。
越権行為だとね。
あきさんは、実際は科学の力で生命ができるのを手伝っているだけで、卵子も精子も人間の体から取ってくると補足します。
一方で、当時は胚を凍結する技術がなく、複数作った胚のうち一個しか戻さないため、他は捨てることになります。
人間になれる可能性があるものを捨てるというのは殺人行為じゃないのかという、そういう話もあったようです。これは今でも答えが出ないなとは思いますね。
さらに産婦人科医のステプト先生への反発もありました。エリート医師ではない地方の産婦人科医だという立場へのやっかみです。
当時は得体の知れないものだった最先端の腹腔鏡手術を扱うことへの不信も加わり、こうした嫉妬もあったのではと言われています。
MRCからの資金打ち切りは、国の科学界から公式にノーを突きつけられたという極めて重い意味を持ってしまいました。
ネイチャーへの反論と、届かなかった声
そこでボブは反論に出ます。法学者のデビッドシャープと共著で、ネイチャーに反論の論文を発表しました。
論文では、不妊は治療されるべき権利かを問います。子供を持てない苦痛を和らげることは、他の病気を治すことと同等の医療だと主張しました。
また、医師と患者の同意を重視し、現代のインフォームドコンセントに近い概念を、この時点で明確に打ち出しています。
さらに社会の役割として、科学技術を未知の恐怖として拒絶するのではなく、社会全体でどう受け入れるべきかという枠組みを提案しました。
科学技術を未知の恐怖として拒絶するのではなく、社会全体でどのように受け入れるべきかっていう文を、標語にして歩きたいぐらいです。
この論文は研究成果ではなく、立場を明確にする意見を理論的にまとめたものでした。それでもメディアからの反発はひどいものでした。
ボブはフランケンシュタインを作ろうとするマッドサイエンティストとして報じられます。カトリック教会からも、神への冒涜だと批判されました。
一方で、不妊に悩む当事者たちからは応援の手紙が殺到しました。チームはこれを追い風に、自分たちがやらなければという気持ちを保ちます。
約10億円の寄付という救い
絶体絶命の彼らを救ったのが、リリアン・リンカン・ハウエルさんという人物です。1971年、アメリカの事業家の娘で、自身も事業家で慈善家でした。
ボブたちの苦境を知り、個人的な支援を申し出ます。寄付額はおおよそ10億円ほど。おかげで彼らは研究を続けることができました。
信念を持ってる人っていうのは、なんかこう(支援者を)引き当てるなって、いつも思いますね。
子宮を悪くしていた排卵誘発剤
徐々に研究成果が出てきます。1973年から1974年にかけて、着床のメカニズムの解明が進みました。
受精卵を作ることには成功していたものの、子宮に戻しても妊娠しません。そこで彼らは、受精卵づくりだけでなく子宮側の研究も始めます。
すると、排卵誘発剤で卵子をたくさん取ろうとすると卵巣が過剰反応し、それが子宮内膜の環境を悪くしていることがわかってきました。
排卵誘発剤を使って卵巣が過剰反応することは今でも起きていて、OHSS、卵巣過剰刺激症候群と言われます。
あきさんは、今では作った受精卵を凍結し、次の生理の後に子宮内膜を整えてから戻せると説明します。
子宮を良い状態にしてから凍結胚を融解して戻せるのです。しかし当時は胚を凍結する技術がなく、作ったその回で返さねばならないという難しさがありました。
多嚢胞性卵巣症候群という疾患名が私自身についていて、卵巣過剰刺激症候群のリスクが高いんです。この人たちの発見のおかげで、体の負担が少なく妊娠に臨めているんだなと興奮しています。
とみーさんは、凍結した受精卵の方が戻した成績が良いという研究もあると補足します。
ボブの政治活動と、ジーン不在の停滞
1974年、ボブは変わったことを始めます。政治活動です。研究に予算がつかないことへの憤りから、自分が国会議員になって変えるという使命感を抱きました。
科学者の立場から研究予算に意見できる必要があると考えたのです。もう一つの理由は平等主義でした。
生殖医療が成功しても金持ちだけの医療になるのではという懸念から、貧しい人でも受けられるようにしたいという思いがありました。
1974年はイギリスが政情不安で国政選挙が2回行われましたが、ボブは2回とも落選します。
同じ年、ジーンの母が病気になります。看病のため、ジーンは培養に十分な時間を割けない時期がありました。
ジーンの研究所の仕事は、24時間いつ寝てるの?というくらい温度管理して観察するもので、看病しながらでは無理だわ。
母の住まいと研究所は250キロほど離れており、対応は難しい状態でした。ジーンが培養に関われない間は、受精からその後の成長まで全くうまくいかなかったといいます。
半分の成功と、薬をやめるという決断
ジーンが戻った1975年、半分だけ成功が起こります。ついに受精卵が着床したのです。
しかしそれは子宮外妊娠でした。卵管に着床してしまったのです。それでも着床したことは、シャーレで作った卵子でも妊娠できる可能性を示していました。
これはIVFの胚移植で初めて妊娠ホルモンHCGの上昇を確認した事例となり、体外で作った胚が人間に根付くことを科学的に証明しました。
この論文にはジーン・パーディも共著者として名を連ね、移植された胚がどんな8分割胚だったのかを詳細に記述しています。
子宮外妊娠を分析したボブとステプトは、ある仮説に到達します。ホルモン剤のせいで子宮が激しく収縮し、戻した胚が卵管へ押し出されたのではないかというものです。
そこで彼らは、5年間積み上げてきた誘発剤を使うプロトコールを、もう一度捨てるという決断をします。
薬の力のせいで子宮の環境がおかしくなっている。失敗を回避するには、薬をやめるしかないかなと考えたということになります。
成功まであと一歩、半分成功したというところまでが今回の内容です。次回はいよいよ成功の話になります。
まとめ
資金打ち切りとバッシングという逆境の中で、ボブたちは論文での反論、個人からの寄付、そして薬をやめるという決断によって研究を続けました。技術だけでなく、絆と信念が生命誕生への道を支えていたことが伝わる回です。
- 1971年、MRCは「不妊は病気ではない」などの理由で研究資金を打ち切った。
- ボブは法学者と共著で、不妊治療は権利かを問い、社会がどう科学を受け入れるべきかをネイチャーに提起した。
- 絶体絶命の彼らを、事業家リリアンによる約10億円の個人的な寄付が救った。
- ジーンが看病で不在の間は培養が全くうまくいかず、彼女の存在の大きさが浮き彫りになった。
- 1975年に子宮外妊娠という半分の成功を得て、ホルモン剤をやめるという決断につながった。
