シータス社でのDNA合成という仕事
前回、マリスがPCRを開発することになるシータス社に入社したところまで話が進みました。今回はその続きです。
マリスは有機化学合成の知識と技術を買われ、シータス社ではDNA合成を命じられます。当時はまだ自動のDNA合成機がなかった時代でした。
そのためマリスは文献を調べてDNAを合成する方法を学び、社内で必要とされたDNAを手作業でつくり始めます。
合成したDNAは、当時シータス社が進めていた鎌型赤血球症の診断薬開発に使われる予定でした。異常な赤血球を探索するためのプローブとして使う想定だったと説明されています。
鎌型赤血球症とはどんな病気か
ここで、聞き慣れない鎌型赤血球症について説明が入ります。日本にはほとんどない病気のため、日本人にはなじみが薄いと話されています。
鎌型赤血球症はSCDとも呼ばれる遺伝性の血液疾患で、アフリカ系、地中海系、インド系、中東系の人々に見られます。
赤血球の中には酸素を運ぶヘモグロビンというタンパク質がありますが、これが異常な形になることで引き起こされる病気です。
通常の赤血球は真ん中がくぼんだ円盤型ですが、この疾患を持つ人の赤血球は三日月のような形をしています。ヘモグロビンの異常のため、酸素をうまく運べません。
原因はごくわずかで、遺伝子のたった1文字、AがTに変わる点変異で起こります。死ぬほどの病気ではないものの、非常にひどい貧血に襲われながら、親から子へ受け継がれていきます。
なぜ熱帯に多いのか――マラリアとの関係
この病気が熱帯地域に多い理由も紹介されます。そのエリアではマラリアが流行しており、鎌型赤血球を持つ人はマラリアへの抵抗力があるためだと説明されています。
マラリアは赤血球に感染して中で増えますが、鎌型赤血球は細胞膜が硬く、マラリアが入りにくいため重症化を防げるといいます。
日常的にはもちろん酸欠になりやすくて、すぐにゼーゼーしちゃったりするんですけど、ただマラリアにかかるっていう意味では、そこから生き延びるっていう意味ですごい優位である
つまりマラリアがある地域では、普通の赤血球を持つ人が死にやすくなり、鎌型赤血球の人が生き残りやすくなった結果、そうした人が増えていったと語られます。
病気としての苦しさがある一方で、マラリアへの抵抗性ゆえに子孫が残ってきたという、進化の例としても教科書で取り上げられると話されています。
遺伝子治療という未来
最近は蚊への対策が進み、鎌型赤血球でなければ生き残れないという状況は減ってきていると語られます。さらに1文字の違いであれば遺伝子治療も可能になりつつあると期待が述べられます。
その治療法として、まずクリスパー・キャス9による遺伝子編集が挙げられます。1文字だけを置き換えて正常型に戻す方法が考えられ、治験も進んでいるといいます。
現状で実際に運用されている根治的な治療は、血液を作る元となる造血幹細胞そのものを正常な型に入れ替える方法だと説明されます。
ただし造血幹細胞は型が合うかどうかの問題があり、兄弟にたまたま型の合う人がいた場合にできる治療だとされています。
マラリアもかつてはワクチンが絶対にできないと言われていましたが、最近は有効なものが開発されており、治らないとされた病気が治るようになってきていると語られます。
ホモとヘテロ――診断が持つ意味
当時この病気は難病として扱われ、シータス社が取り組んでいたのはその診断でした。
鎌型赤血球症は、遺伝子の2対のうち両方に異常があるホモの場合に非常にひどくなり、片方だけのヘテロの場合はマラリアへの耐性があると説明されます。
ヘテロの人は基本的に顕微鏡で見ても鎌型にはならず、異常が見えません。しかし遺伝子としては持っているため、激しい運動をすると貧血になることもあります。
問題は、ヘテロの人同士が結婚して子どもを作ると、ホモの子が生まれて苦しむことが起こる点です。そのため事前に遺伝子を持っているかを調べておくことが大事だと語られます。
特にアメリカではアフリカ系の人々が多く、鎌型赤血球症は一般的な病気として知られています。そのため診断できることには大きな意味がありました。
さらに、1塩基置換だけで起こるこの病気を診断できるようになれば、他の病気の診断にも広がると考えられ、まずはここをターゲットにしたと説明されます。
サザンブロッティング法の仕組み
もう一つの難しい用語、サザンブロッティング法が解説されます。DNAは2本鎖で、AはTに、CはGに結合する性質があります。
マリスは、この性質を使って検出したい配列の相方となるDNAを化学合成でつくりました。これがプローブです。プローブには放射性同位元素のリンをつけておき、結合したDNAを後から放射線で検出します。
実際の流れはこうです。まず患者のDNAを抽出します。頬の内側の細胞や血液、生まれる前であれば羊水に混ざった子どもの細胞などから取ってきます。
抽出したDNAを、特定の配列を認識して切る制限酵素で切断します。この病気の遺伝子が正常なら切れるが、異常だと切れないといった酵素を使います。
次に、切れたDNAを電気泳動で大きさごとに分けます。DNAは電気で引っ張られる性質があり、寒天などで作ったゲルの網目構造の中を移動します。
これは運動会の障害物競争で、はしごを連続して並べた場面に例えられます。小さい子はどんどん穴をくぐって先に行き、大きい人はつっかえながら進む、という説明です。
小さいものは電気に引っ張られて早く下の方に到達して、大きいものはなかなか進めずに上にとどまってるっていうような状態が出来上がります
大きさで分けたDNAは、アルカリで1本鎖に変性させ、白い紙のようなメンブレンに移します。そこにマリスが作ったプローブをハイブリッドさせます。
プローブは放射性同位元素を持っているため、上からX線フィルムをかぶせると放射線がフィルムを感光させ、バンドが出てきます。
正常型と異常型では制限酵素で切られるかどうかが違うため、バンドの出てくる位置が変わります。大きいDNAは上に、小さいDNAは下にバンドが出るので、その位置の違いで見分けられるという仕組みです。
面倒だったからPCRが生まれた
ただ、この方法には問題がありました。放射性同位元素を使わなければならず、手間と時間がかかるうえ、当時は感度が低く、うまく検出できないという壁に突き当たっていたと説明されます。
現在ではDNAシーケンサーが登場し、直接配列を読めるため、サザンブロッティングはほとんど使われないと語られます。論文でも見かけないといいます。
放射性同位元素にはデメリットもあります。感度の問題に加え、実験者自身が被曝してしまう点です。1回はレントゲン程度でも、毎日続けると影響があるため、今の時代には受け入れられにくいとされています。
話し手は30年ほど前にテクニシャンとして働いていた頃、まだ放射性同位元素を使っていた経験を語ります。放射線が体に当たっていないか確認するため、下半身にX線フィルム入りの器具をクリップで留め、後から感光させて検査していたそうです。
一方で、放射性同位元素は有機合成では重要な技術でした。化合物を合成したとき、どの炭素がどこへ移ったかを調べるのに役立ったと説明されます。
バイオへの応用では少量の測定でぼやけてしまう課題があり、蛍光やUV、酵素を使う方法へ置き換わることで感度が上がり、被曝も避けられるようになりました。
話題は蛍光へと広がり、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質GFPを発見した下村修博士の話が出ます。2008年のノーベル賞で、家族みんなでクラゲ捕りをした逸話も紹介されます。
ここから、研究における偶然と探求心の話へつながります。光る物質がなぜなのかとクラゲを取っていた研究が、まさかバイオで応用されるとは、という驚きが語られます。
何でかわかんないけど、こうできちゃったみたいなところから研究って始まるんですよね。ペニシリンの発見もそうです
同じことを繰り返していては見つけられない。だからこそいろいろなことをやってみようという気持ちが新たな発見につながると話されます。
そして今回の主題であるマリスの人物像に戻ります。マリスはとにかく面倒くさがり屋で、ルーティン的な実験が嫌いでした。どうすれば一手順減らせるかをいつも追求していたといいます。
手作業のDNA合成に加え、面倒なサザンブロッティングをしなければならない。そこをなんとか省略したいと考えに考えた先にたどり着いたのがPCRだった、と締めくくられます。
必要は発明の母ですからね
次回予告
次回は、マリスが実際に行っていたDNA合成、化学合成の日々と、その手順について詳しく取り上げると予告されました。
まとめ
マリスがシータス社で任されたDNA手作業合成と、鎌型赤血球症を診断するサザンブロッティング法の解説を通して、面倒を嫌う彼の探求心がPCRへ向かっていく助走が描かれた回でした。
- マリスの仕事は自動化前の時代の手作業によるDNA合成で、鎌型赤血球症の診断用プローブづくりだった
- 鎌型赤血球症は遺伝子1文字の点変異で起こり、マラリアへの抵抗力ゆえに熱帯で受け継がれてきた
- サザンブロッティング法は放射性同位元素を使い、手間と時間がかかり感度も低いという課題があった
- 面倒なルーティンを省きたいというマリスの気質が、PCR誕生の原動力になっていく
