熱に壊れない酵素というアイデア
マリスたちはPCRの実験を繰り返していましたが、大きな問題を抱えていました。使っていたクレノウ酵素が熱で壊れてしまうことです。
そこでマリスは、熱に耐えられるDNAポリメラーゼがあれば、最初に一度加えるだけで済むはずだと考えつきます。
このアイデアを社内で提案したのは、1985年の春頃のことです。ちょうどPCRを人類遺伝学の場で発表しようと議論していた時期でした。
温泉から見つかった耐熱性菌とTaqポリメラーゼ
では、そんな熱に耐える酵素が世の中にあったのでしょうか。実はここに先行研究がありました。
1960年代、アメリカのイエローストーン国立公園の温泉水から、微生物学者トーマス・ブロック博士が耐熱性細菌テルムス・アクアティクスを発見していました。
後にPCRで使われる酵素はTaqポリメラーゼと呼ばれますが、このTaqはテルムスのTとアクアのAQから取った名前です。
そして1976年、シンシナティ大学の女性研究者アリス・キエンが、この細菌からDNAポリメラーゼを見つけ出すことに成功します。
この酵素は70度でも高い活性を保ち、95度の加熱にも耐えるという驚くべき耐熱性を持っていました。
怠け者のマリスと、3週間で成し遂げたチーム
マリスは会議でこの酵素を使おうと提案します。酵素学者のデイビッド・ゲルファンドはこれを強く支持してくれました。
ただし、クレノウ酵素とは違い、Taqポリメラーゼはまだ商業化されておらず、単離してくれる人を社内で探す必要がありました。
ところが、ボードメンバーの一人ロバート・ヒルズはPCRの将来性を評価しておらず、治療法開発と関係ないプロジェクトに労力を割くことに強く反対します。そのため請け負う科学者は現れませんでした。
この酵素の単離実験は、有機化学が得意なマリス自身に向いた仕事でした。ゲルファンドは機材を自由に使わせるからと、マリスをたきつけます。
しかしマリスは怠け者で、一向に手を出しませんでした。待ちきれなくなったゲルファンドは、自分たちのチームで精製に取り掛かります。
バイオバンクから細菌を取り寄せ、培養してDNAポリメラーゼを精製する。この作業を、およそ3週間かけて見事に成し遂げました。
Taqがもたらした劇的な改善
精製したTaqをPCRに使ってみると、驚くべきことが起きます。βグロビン遺伝子が見事に増えたのです。しかも溶液に一度加えるだけで済みました。
さらにクレノウを使った場合よりも増幅量が多く、余計なDNAを増やすことも少なく、特異性も高かったといいます。
今までよくわからないところで失敗していた問題が、Taqを使うことでたちどころに解消しました。
クレノウは大腸菌の中で働く複数のDNAポリメラーゼのうち商業化された一種類でしたが、PCRには適していなかったことが、ここでようやく明らかになったのです。
最初はやっぱりそこにあるものを使うしかなくて、そこから最適化していくことになりますけど、今だったら考えられないですよね。毎回毎回ポリメラーゼを入れるなんて。
その中でも開発できてしまったのは、キャリーの開発するぞという気持ちや、周りの方のサポートがあってこそなのかなと思いますね。
ちなみに、一サイクルごとに酵素を加え続ける正確な作業をこなす人は、社内でミスターサイクルと呼ばれていたそうです。ランディ・サイキがまさにその役割でした。
話は現代にも広がります。今はバイオインフォマティシャンという、大量のデータを解析できる人材が重要になっています。
ただ日本ではその育成が進まず、人手が足りません。データを出した研究者が解析を頼みたくて列を作るような状態が起きていると話されています。
人に依存してしまうと、研究としては広まりません。そういう意味でTaqの発見は大きかったのかなと思いますね。
ボーナス1万ドルと、会社を去る決断
PCRのアイデアを会社に提供したことで、1986年の春、マリスはシータス社で初めてのボーナスを受け取ります。金額は1万ドルでした。
当時はプラザ合意の影響で円高が進んでいた時期で、ドル円は170円から180円ほど。日本円で160万から170万円ほどにあたります。
一方で、実際に開発を頑張ったサイキたちがもらえた金額は1ドルだったそうです。いいことをしても1ドルしか出なかったといいます。
この頃、マリスは論文発表での失敗を一切認めず、それどころか「会社は俺の手柄を奪った」と無茶な要求を始めます。
その一つが、今後シータス社から出るPCR論文の筆頭発表者を全部マリスにしろというものでした。トムホワイトが突っ返すと、マリスは盗まれたと愚痴を言い続けたそうです。
嫌気が差したトムホワイトは、最後にマリスへ引導を渡します。
そんなに言うんだったら会社を辞めたいんだろう、辞めたいんだったら五ヶ月分の給料をやるよ
するとマリスは「それは俺が欲しいものだ。ありがとう」と答え、5ヶ月分の給料を先に受け取って会社を去ります。1986年のことでした。
この1986年は、チェルノブイリ原発の事故やスペースシャトル・チャレンジャー号の事故が起きた年であり、ヒトゲノム計画が始まった年でもあります。そのヒトゲノム計画も、PCRの技術なしには完成しなかったと考えられます。
なお1991年、シータス社はPCRのライセンスをホフマン・ロシュに3億ドルで売却します。もし残っていれば、マリスはもっと多くを得られたかもしれません。
日本国際賞と、皇后陛下との会話
この後のマリスの人生はグダグダながらも、輝かしい場面もありました。その一つが日本国際賞です。
1992年12月、マリスのもとに日本の国際科学技術財団から一通の手紙が届きます。日本国際賞に選ばれたという知らせでした。
真夜中に手紙を見たマリスは、日本円とドルのレートを知らず、ゼロがいっぱいあることだけはわかって一晩悶々としたそうです。賞金は5000万円でした。
この日本国際賞は世界では権威のある賞とされる一方、日本国内ではあまり報道されていないのではないか、と話されています。
授賞式でマリスは、当時の明仁天皇陛下と美智子皇后陛下に会うことができました。そしてマリスらしく、皇后陛下にスウィーティーと呼びかけたそうです。
皇后陛下は親しみを込めて話しかけてくれ、マリスは会話を楽しみました。楽しみは何かと尋ねると、生活はすべてスケジュール管理されていると答えられたそうです。
自分で本を手に入れることも難しく、郵便物も然るべき手続きを経なければ手元に届かない。お付きの人が先に読んでから渡される仕組みもあると語られたそうです。
皇后陛下はマリスが連れてきた息子のことも尋ねます。息子のクリストファーは日本語を知っていました。
テーブルが離れているため呼び寄せられないと言う皇后陛下に、マリスは「皇后陛下なら何でもおできになるはずです」と促します。
皇后陛下が笑って指で合図すると、警備の人間がすっ飛んできました。マリスは、皇后陛下が自分の意思を示したのはこれが初めてだったのではないかと本に書いています。
連れてこられた息子が日本語で自己紹介すると、天皇陛下の顔がパッと明るく輝いたそうです。マリスにとっても息子にとっても、よい思い出になったといいます。
天の上の人に対してスウィーティーって呼びかけちゃうキャリーも、なかなかなやつだなと思うんですけれども。
まとめ
熱に強いTaqポリメラーゼの登場により、PCRは一度酵素を加えるだけで済むようになり、自動化への道を歩み始めました。アイデアを出したのはマリスですが、それを形にしたのはチームでした。マリスは会社を去り、その後も功績と待遇をめぐって不満を残し続けます。
- 熱に壊れない酵素というマリスのアイデアが、PCR自動化の出発点になった。
- Taqポリメラーゼの単離は、ゲルファンドらのチームが3週間かけて成し遂げた。
- Taqの導入で増幅量と特異性が大きく改善し、失敗の多くが解消した。
- マリスは待遇や手柄をめぐる不満から、1986年にシータス社を去った。
- 1992年には日本国際賞を受賞し、天皇皇后両陛下との会話という思い出を得た。
