ポーラ・ピタ=ロウ博士との出会い
カタリン・カリコが働くテンプル大学に、著名なウイルス学者ポーラ・ピタ=ロウ博士が講演に来たそうです。
ポーラ博士はチェコ出身、カリコはハンガリー出身でした。東ヨーロッパという似た立場から、自己紹介をするとすぐに仲良くなったと話されています。
ポーラ博士はジョンズ・ホプキンス大学の教授で、自宅のあるボルチモアにカリコを招待し、研究室のメンバーも紹介してくれたそうです。
さらに「この研究室に来ないか」と誘ってくれました。ポーラ博士は女性研究者の支援にも力を入れており、同じ立場のカリコにも寛大だったと語られています。
ポーラ博士は、カリコが以前見つけた反応、つまりインターフェロンの分野で革新的な研究をしていた先生でした。インターフェロンウイルスなどに対して体が持つ防御反応で放出されるタンパク質。免疫の働きに深く関わります
ポーラ博士の研究室に入ることは、カリコにとって願ったり叶ったりの理想的な話でした。1988年、彼女はその申し出を受けて転職に動き始めます。
ボスの妨害と、それでも探し続けた推薦状
ところが、現在の雇い主スハドルニック博士が転職の話をどこかで嗅ぎつけ、怒り狂ったそうです。
彼の力でJ1ビザを取得していたため、カリコは2つの選択肢を突きつけられます。
このままスハドルニック博士の研究室で働き続ける
ビザを取り上げられ、アメリカから追放される
それでもカリコは鉄の意志で手段を探しました。アメリカで新しい職を得るには、同僚や上司の推薦状が必要だったからです。
あきさんは、自身も外資系企業への転職時に前職の知り合いから3人分の推薦状を集めるよう言われたと振り返り、これがなかなか大変だと語ります。
書いてくれる人が現れなかったり、こっそり転職したいのに今の会社にバレる懸念があったりするからです。
カリコの場合、上司のスハドルニック博士は反対しているので、推薦状を書いてくれるはずがありませんでした。
さらにボスは、彼女を外に出さないために様々な嫌がらせをしたそうです。過去の共著論文から彼女の名前を消したり、雇おうとしていたポーラ博士のジョンズ・ホプキンス大学や入国管理局に「カタリンは亡命者だ」と嘘の連絡をしたりしたと語られています。
ちょっとスハドルニック博士が悪者に見えてきた。
いや、これもうどう考えても悪者ですね。
それでもカリコは推薦状を取るために頑張りました。スハドルニック博士とトラブルになった研究者はかなり多く、事情を説明すると多くの人が同情してくれたそうです。
H1ビザ取得と、フィラデルフィアからの220キロ通勤
ポーラ博士のところに入るのは無理でしたが、米国軍の保健大学に研究員として雇ってもらえることになりました。
そのおかげでH1ビザを取得でき、アメリカに留まることができたそうです。スハドルニック博士のパワハラからも逃れられました。H1ビザアメリカで専門的な職に就く人向けの就労ビザ。雇用主のもとで働くための在留資格の一つです
ただし問題が一つありました。カリコはフィラデルフィアに住んでいて、大学はワシントンDC郊外にあったのです。
距離はおよそ220キロ、片道1時間半強でした。あきさんは若い頃カナダからコスタリカまで自転車で走った経験から、この区間も走ったことがあると振り返ります。
運転免許を持っていなかったカリコは、まず免許を取りました。そして月曜の朝3時に家を出て、220キロを走ったそうです。
ハンガリー人の同僚のアパートに泊めてもらい、夜中にリビングへ入って寝袋を広げて寝て、朝に片付けて研究室へ出勤する生活でした。
同僚の家には寝るためだけに帰り、ほとんどを研究室で過ごしていたそうです。ときには研究室に寝袋を広げてそのまま寝ることもありました。
夫のベーラや娘のスーザンのことを考えながら、彼女はよくこう思ったと語られています。
一体私はここで何してるんだろうと。
それでも研究が好きだったのでしょう。早朝、息抜きにキャンパスをジョギングしながらも、同じことを思ったそうです。
金曜の午後に車で自宅へ帰る。この生活を毎週繰り返していました。
粘りが呼び込んだペンシルベニア大学の面接
この生活の間も、カリコはちゃんと雇ってくれそうな人を探して手紙を書きまくったそうです。
応募をリスト化し、応募から2週間後に必ず電話をかけるようにしていました。
すごい。もう執念ですね、もう。
ペンシルベニア大学に電話をかけたとき、秘書は「募集はしていたが適任者がいなかったので再募集する」と答えました。
そこでカリコは粘り、念のため自分の応募書類を再確認してほしいと頼みます。
すると30分後に折り返しの電話があり、心臓学者エリオット・バーナサンとの面接が決まりました。彼はカリコと同じ34歳で、新しい研究室を立ち上げようとしていたそうです。
実験ノートが決めた採用と、ノーザンブロッティングの難しさ
面接でエリオットは実験ノートを見せてほしいと言いました。彼は注意深くページをめくり、あるX線フィルムの写真で手を止めます。
それはノーザンブロッティングという手法の結果でした。エリオットは感心し「これ君がやったの?」と尋ねます。
はい、これを私がやりました。今からでもできますよ。
そしてすぐに採用通知が届いたそうです。
ここであきさんは、ノーザンブロッティングがどれほど難しい実験かを説明します。まず細胞や臓器をすりつぶし、DNA・RNA・タンパク質などが混ざった中からRNAだけを取り出します。
問題は、細胞をすりつぶすとRNAを壊してしまうRNアーゼが出てしまうことです。これを作用させないようにしながらRNAを取り出すのが、まず難しいと語られています。
取り出したRNAは電気泳動という手法で分けます。RNAはマイナスの電荷を持つため、電気を流すとゲルの中を移動していきます。
あきさんは、寒天のようなゲルを「分子ふるい」に例えます。障害物競走のハシゴレースのように、小さなRNAは早く進み、大きなRNAはつっかえながら進むため、大きさ順に分かれるという説明です。
次に、特定のRNAだけに結合するプローブを放射線で目印をつけて作用させます。結合しなかったプローブを洗い流すと、目的のRNAに結合したプローブだけが残ります。
それをX線フィルムにかざせば、どの位置に目的のRNAがあったかがわかる、という仕組みです。
とみーさんも実験をしたことがあり、すりつぶして遠心分離し、電気泳動でマーカーと見比べる工程を振り返りますが、とにかく複雑だったと語られています。
今はシーケンサーやリアルタイムPCRで簡単に調べられますが、当時はノーザンブロッティングしかありませんでした。だからこそ、X線フィルムを見た瞬間に「この実験ができる人だ」とわかるのは当然だと、あきさんは話します。
エリオットっていう学者さんも、それがパッと分かったっていうのがいい。
伝えたかったのは、RNA実験はとにかく難しいということです。だからこそ、その技術が採用を決めたと言えます。
ペンシルベニアの家と、mRNA研究のスタートライン
ペンシルベニア大学に職を得たカリコは、夫ベーラと引っ越し先を探します。
郊外の静かな通り沿いにある2階建ての家を見つけました。スーザンが遊べそうな、なだらかな坂のある広い芝生の庭がありました。
安月給でも手が出る価格でしたが、家の中はボロボロだったそうです。それでもカリコはこう思ったと語られています。
大丈夫、私の夫は何でも直せる。
子どもの頃に父と家を作った彼女は、今度は夫と一緒に家を作ることになります。ペンシルベニア大学で働き始めた日に、住宅購入の契約書にサインをしたそうです。
新しいボスのエリオットは、プラスミノーゲンという物質を研究テーマにしていました。
血栓は脳に飛べば命に関わり、心臓に飛べば心筋梗塞につながります。そのコントロールは非常に重要です。
エリオットの研究テーマは、手術後にできやすくなる血栓の発症リスクを減らせないか、というものでした。
彼は術後の部位でプラスミノーゲンを活性化させるタンパク質を作るため、そのタンパク質を作るDNAを送り込もうとしていました。いわゆるDNA治療の一種です。
ここでカリコは、DNAではなくRNAを送り込んではどうかと提案します。彼女はハンガリー時代からRNAを送り込む研究をしていたからです。
すでに1978年、イリノイ大学の研究者たちがメッセンジャーRNAをリポソームに包み、マウスや人間の細胞に届けてタンパク質を作らせる実験に成功していました。前例があったのです。
さらに1989年には、リポソームより効率的に遺伝子を届けるリポフェクチンという脂質混合物質も開発されていました。
以前カリコたちはリポソームが手に入らず、牛の脳から自作していました。それに比べれば、はるかに手軽で効率的な環境が整いつつあったのです。
目的のタンパク質を作るためのmRNAを作る技術やPCRもすでにあり、以前よりずっと簡単にmRNA研究に着手できるようになっていました。
エリオットはカリコのアイデアに興味を持ち、二人はこのプロジェクトをスタートさせることになりました。プラスミノーゲンをテーマに、mRNAで手術部位のタンパク質を発生させ血栓を防げないか、という挑戦のスタートラインに立ったのです。
色々と転職、転職ですけど、でもちょっとなんかね、こうやってカタリン先生を評価してくれる方に出会えるっていうのは素晴らしいですよね。
そうですね。やっと何かすごくいい方に出会って、落ち着いた研究環境になったのかなと思いますね。
まとめ
妨害や長距離通勤という困難の連続の中で、カリコは執念で推薦状と職を探し続け、実験ノートの技術が評価されてペンシルベニア大学に採用されます。そして、mRNAを使った革新的な研究のスタートラインにようやく立ちました。
- ポーラ博士との出会いをきっかけに転職を試みるが、ボスの妨害で推薦状も職も奪われかけた
- 米国軍の保健大学でH1ビザを得て、フィラデルフィアから片道220キロの過酷な通勤生活を送った
- 粘って再確認を頼んだことでエリオット・バーナサンとの面接が決まり、ノーザンブロッティングの技術が採用を後押しした
- 難しいRNA実験を扱える技術こそが、カリコの研究者としての強みだった
- DNAではなくRNAを送り込むというカリコの提案から、血栓を防ぐmRNA研究がスタートした
