遺伝子治療の最先端大学へ、しかし
前回は、カタリンがペンシルベニア大学で働き始め、上司のエリオットとリポソーム研究を始めたところまで進みました。
エリオットがやりたいことに、カタリンのメッセンジャーRNAを使ってはどうか。これが後のmRNAワクチン開発につながる、本当に最初のアイデアだったと話されています。
ちょうどこの頃、ペンシルベニア大学では大変革が起きていました。医学部のトップが、ビル・ケリーというお医者さんに変わったのです。
ケリーは、カタリンがハンガリーにいた頃から知る有名な研究者でした。レッシュ・ナイハン症候群という珍しい遺伝子疾患の原因遺伝子を特定し、特定の酵素が欠損していることを発見した人物です。
カタリンはハンガリー時代、自傷行動を起こす患者から血液を採取し、その酵素の量を測る担当をしたことがあったそうです。
だからこそ、憧れの研究者が同じ大学の大ボスとして来ることに、カタリンは大喜びだったと話されています。
もうカタリンからすると、ビル・ケリーが同じ大学に来るというのも、憧れの研究者が自分たちの大ボスになるという形で、大喜びだったみたいです。
ケリーは元いたデューク大学のチームを引き連れてきて、病気の原因となるDNAを修復して治療する遺伝子治療の確立を目指していました。
医学部に分子工学と細胞工学の学科を新設し、同僚のジム・ウィルソンを就任させます。こうしてペンシルベニア大学は、遺伝子治療の最先端研究の大学に生まれ変わりました。
遺伝子治療ブームと、メッセンジャーRNAへの冷遇
1990年代初頭、インターネットバブルの少し前です。遺伝子治療はバイオ業界でめちゃめちゃ流行していました。
遺伝子治療を目指すと言えば政府の後押しもよく、研究資金も潤沢に取れたそうです。あき自身も、ちょうどこの頃に研究補助員として就職し、その熱気を肌で感じていたと振り返っています。
しかしカタリンは、この時ある疑問を抱えていました。DNAを改変すると、それは永遠に体の中に残ってしまうのではないか、という点です。
細胞のゲノムを変えるわけですから、その後その細胞が死んでしまっても、死ぬ前に細胞分裂して増えたりしますので、体の中に永遠にそのDNAは残っちゃうよねと。
一方でメッセンジャーRNAは、タンパク質を作った後すぐに分解されます。一回こっきりのものです。
だからカタリンは、一時的に酵素を作らせて後で消えてくれる方がよい病気もあるはずだ、病気によって使い分けた方がいい、と考えていました。
細胞のゲノムそのものを書き換える。細胞分裂で増えるため、体内に永続的に残る
タンパク質を作った後すぐ分解される。一回きりで、後に残らない
ところが、新しい研究所長のウィルソンは、メッセンジャーRNAやカタリンたちの研究にまったく興味を示しませんでした。
DNAを書き換える遺伝子治療こそが重要なのだという空気の中で、カタリンはよい環境になったと思いきや、かえって悪い状態に置かれてしまいます。
助成金も投資も得られない5年間
それでもカタリンは、ボスのエリオットに教わりながら、多くの研究助成金に応募し続けました。慣れない英語をエリオットに見てもらい、月に一度ほど応募していたそうです。
しかしDNA治療こそ正義という世間の風は強く、メッセンジャーRNAで病気を治療するという発想は誰にも理解されず、不採用が続きました。
助成金は無理だと諦め、投資会社にもプレゼンして資金を募り始めます。働き始めて5年が経った1994年、やっとある投資会社が7万ドルの提供を約束してくれました。
ところが、いつまでも振り込みがありません。電話してもメールしても無視され続けたそうです。おそらく上からストップがかかったのだろう、とあきは推測しています。
DNAの方ばっかり見ちゃったんですね。
そうですね。で、彼女自身も、そこでDNAもやってみるかとはせずに、もう本当にメッセンジャーRNA一筋だったんですね。
結局、メッセンジャーRNA研究プロジェクトは一円の資金も得られませんでした。研究資金が得られないと、プロジェクト自体が大学で評価されません。
その影響で、ボスのエリオットが所属する心臓学科でも大幅な人員刷新が行われます。幸いエリオットは残れたため、カタリンもその研究室で仕事を続けることができました。
降格して残る道と、単身赴任になった夫
悪い時に悪いことは重なります。1995年、カタリンの胸に2つのしこりが見つかりました。乳がんの疑いです。すぐ手術を受け、幸い良性でした。
一方で少しだけよいこともありました。夫のベーラにグリーンカードが出ることになったのです。
ただし、取得にはいったんハンガリーへ一時帰国する必要がありました。ところがベーラは、手続きに時間がかかり、ブダペストで足止めになって帰ってこられなくなってしまいます。
そんな中、カタリンはエリオットから雇用期間の終了を告げられます。助成金も民間投資も何も得られなかったためです。
5年頑張っても資金を得られない研究者はもういらない、という大学側の判断でした。
しかしカタリンは諦めませんでした。研究は道半ばだったので、准教授という立場がなくなっても、別の立場で残れないかと道を探ります。
探した結果、上級研究調査員という立場があると分かり、そこに合格して残ることができました。ただし立場としては降格で、おそらく給料も下がったと考えられます。
この上級研究調査員という肩書きは、ペンシルベニア大学でも初めてのものだったそうです。
ハンガリーを去って1か月ほど経った頃、国際電話でそのことを話すと、ベーラは明るく返したそうです。
ベーラは、「お、すごいじゃん。初めての肩書きなんだって。君、歴史を作ったね」って笑わせてくれたらしいです。
ホワイトハウス前での親子2人のデモ
ベーラは1か月経っても、さらに1か月経っても戻ってきませんでした。寂しさから、カタリンは当時のクリントン大統領やヒラリー夫人に何度も手紙を書いたそうです。
ハンガリーのアメリカ大使館や移民局、弁護士にも手紙を書きましたが、それでもベーラは帰ってこられませんでした。
3月18日、ベーラの35歳の誕生日に、カタリンは娘のスーザンとワシントンDCへ出かけます。当局の許可を取ったうえで、ホワイトハウスの前でプラカードを持ち、親子2人でデモをしました。
大統領官邸の前に母親と娘で行って、「お父さんを返せ」というのをやったらしいです。
スーザンは当時学校でジャズバンドに打ち込んでいて、ホワイトハウスの前でサックスを取り出して演奏したそうです。
この抗議活動には、教育の意味もあったと話されています。ハンガリー育ちで政治活動のできない青春時代を過ごしたカタリンは、アメリカでは合法的に抗議ができることを娘に教えたかったのです。
これも教育の一環だったわけですね。
そして半年が過ぎた夏、ようやくベーラが帰ってきました。当時はLINEのビデオ通話もなく、国際電話しかない時代です。半年もの別れは、家族にとって相当に寂しいものだったと語られています。
7年越しにたどり着いた、最初の重要な一歩
夫が帰ってきた1996年12月、研究の現場でも大きな出来事が起きます。ボスのエリオット、カタリン、実験助手のアリスの3人で、ある実験の結果を見守っていたのです。
この時すでに、ペンシルベニア大学に来て7年が経っていました。テーマは、ウロキナーゼ受容体の設計図を載せたメッセンジャーRNAを細胞に送り込み、細胞が実際にその受容体を作るかどうかでした。
実験の手順はこうです。まず、もともとウロキナーゼ受容体を作らない細胞を用意します。そこに、設計図を載せたメッセンジャーRNAを振りかける側と、設計図を載せていないメッセンジャーRNAを振りかける側の2つを比べます。
もしメッセンジャーRNAが正しく働けば、設計図を載せた側だけがウロキナーゼ受容体を作るはずです。
ただ、ウロキナーゼ受容体はタンパク質でとても小さく、顕微鏡でも見えません。そこで、受容体に結合するプローブを放射線でラベルしておき、細胞に振りかけて洗い流します。
もし放射線が残っていれば、受容体ができてプローブが結合した証拠です。逆に放射線が検出されなければ、受容体はできておらず、メッセンジャーRNAが働かなかったことになります。
何度も洗った細胞を計測器にかけた結果、設計図を載せたメッセンジャーRNAを振りかけた細胞群だけで、放射線が検出されました。
つまり、実験は成功です。メッセンジャーRNAが細胞に取り込まれ、狙ったタンパク質を作らせるところまでたどり着けたのです。
しかし、また危機が訪れます。ボスのエリオットが、セントコア社という製薬企業に転職し、ペンシルベニア大学を去ってしまったのです。ボスがいなくなってしまいました。
取り残されたカタリンを救ったのは、別のペンシルベニア大学の研究者でした。エリオットの研究室に特別研究員として来ていた、デイビッドです。
デイビッドは、その研究室でカタリンからRNA実験の手ほどきを受けていました。いわば、RNA実験の師匠はカタリンだったのです。
デイビッドは、難しいRNA実験ができて、きちんと教えてくれたカタリンをとても尊敬していました。その後、医学博士号を取り、臨床研究を経て、ペンシルベニア大学神経外科の研修医になっていました。
臨床研究と基礎研究の両方をやりたいという野望を持っていた彼は、自分の研究チームを組もうとしていました。そこで、カタリンのメッセンジャーRNAを作る技術を自分の分野の治療に使いたいと考え、彼女を引っ張ってくれたのです。
デイビッドは早速プロジェクトを立ち上げ、2万5千ドルの資金も獲得してきました。かつての弟子がスター研究者となり、資金まで得て、今度は師匠を雇う形で誘ってくれたのです。
捨てる神あれば拾う神あり。元々自分の弟子がスター研究者になって、資金まで獲得して、今度は師匠を雇う形で誘ってくれるということが起こったわけですね。
まとめ
資金も理解も得られない逆風の中でも、カタリンはメッセンジャーRNA一筋を貫きました。降格や夫との半年の別れを乗り越え、7年越しに細胞へタンパク質を作らせる最初の成功にたどり着いたことが語られています。
- 遺伝子治療ブームの中で、mRNAは冷遇され、助成金も投資も得られなかった。
- 准教授の職を失う危機でも、カタリンは大学初の上級研究調査員として残る道を探し当てた。
- 夫のグリーンカード取得のため、家族は半年間離れ離れになり、親子でホワイトハウス前のデモにも臨んだ。
- 1996年、メッセンジャーRNAで細胞にタンパク質を作らせる実験が成功し、後の大きなブレイクスルーへの最初の一歩となった。
- ボスの転職で再び窮地に陥ったが、かつての弟子デイビッドが資金とともに彼女を迎え入れた。
