角刈りの男たちが訪ねてきた日
カリコが頑張って作った実験室ができて間もない頃のことです。アパートに二人の男が訪ねてきました。
出立ちは角刈り。一目でわかったそうです。秘密警察でした。
彼らは「研究所に外国のスパイがいるかもしれない」と切り出し、何人かの同僚の名前を告げました。
そのうえで、こう続けたそうです。「キシウサラーシュのパブであなたのお父さんとお会いしましたよ」。
カリコの父はパブで働いていました。つまり、彼らが父の存在を認識していると示したわけです。
これはお父さんとももうこいつら会ってるし、お父さんのことを認識してるなと。
さらに「あなたの息子さん、どこどこ小学校に通ってられますよね。可愛いお子さんですね」とも言われたそうです。
怖いなあ。じわじわ怖い。
緩やかに、しかし確実に脅しをかけてくる。じわじわとした怖さがありました。
サインはしたが、報告はしなかった
父にはかつて逮捕された過去がありました。ここで協力を拒めば、父に何か起きるかもしれない。
カリコは「わかりました」と答え、協力する書類にサインをしました。具体的には、同僚を監視するよう求められたそうです。
ただし、彼女は一度も報告をしませんでした。
この事実は、彼女の自伝に書かれています。書かれた背景には、ノーベル賞受賞後にマスコミが過去を調べたことがあります。
秘密警察の協力者名簿に、彼女の名前があったのです。
マスコミってほんと嫌なことするなと思うんですけれども。
せっせと報告していた人の報告書は残っています。一方、カリコの報告書はどこにも残っていませんでした。
つまり、同僚を裏切るようなことはなかったと証明されているわけです。
共産国って本当に怖いなと思うんですけど、お互いがお互いを監視するように政府がしむけていくんですよね。
子供や親を守るためなら報告してしまう人もいたでしょう。誰も責められません。ハンガリーは東側の中では自由があったと言われますが、こうした怖さもあったのです。
体調不良の中でも、続けた研究
この当時、カリコは体調がとても悪かったそうです。結核と診断されましたが、後に誤診とわかりました。
治療に通っても、まったく良くなりません。
それでも彼女は研究に夢中で、どんなに具合が悪くても休まず研究を続けたそうです。
すごいな。なんかもうそっちがもう優先でしかないんでしょうね。
努力の人であり、研究がとにかく好きだったのだろうと話されています。
「私は仕事を辞めないわよ」——結婚への道
体調が戻ってきた頃、いよいよめでたいことが起こります。恋人のベーラと将来について話したのです。
その時、カリコは常にこう言っていたそうです。
私は仕事を辞めないわよ。私は仕事が最優先。
当時のハンガリー、そして当時の世界では、女性は結婚したら仕事を辞めて家事育児をするのが普通でした。
カリコはその感覚と違う生き方をすると、ベーラに宣言していたのです。
ベーラは、世間と違う生き方をしようとする彼女を受け止めました。
僕は全然それでいいよ、わかったよ。
付き合って三年近く経った1980年8月。ベーラの言葉を受けて、カリコは「よし、この人と結婚しよう」と決めたそうです。
当時、結婚指輪は金で作るのが普通でしたが、高くて手に入りませんでした。
そこでケーブル工場で働くベーラは、ケーブルに使う銅で二人の結婚指輪を作ったそうです。
指輪まで自作するっていうのはかっこいいですよね。
母の心配と、手作りの結婚式
カリコの実家で婚約式をした際、母は相変わらず心配していたそうです。
母は娘に、なかなか厳しい言葉をかけました。ベーラは良い人だけど、あなたは強すぎるから長続きしない、と。
さらに「あなたが45歳になれば女性はおばさん。でもベーラは40歳、男の40はまだ若者だ」とも言われたそうです。
わっ、傷つく。
心配から出た言葉だとしても、娘に言うにはきつい内容でした。しかしカリコは強く言い返します。
お母さん、それならさ、私45歳になったらベーラと離婚するわ。
結婚式もまた、手作りでした。カリコは背が高く、サイズの合うウェディングドレスが借りられなかったそうです。
そこで大学のご近所さんに、ドレスを縫ってもらいました。
ここもまた手作り。
レストランで出す肉は、肉屋の父が用意してくれました。音楽はロマ民族の楽団に奏でてもらったそうです。
お金はなくても、助け合いで成り立つ温かい結婚式だったようです。
博士号取得、そして母になる
2年後の1982年。学位論文の試験に合格し博士号を取得した数週間後に、カリコは娘を産みました。
臨月に近い時期に試験を受けていたことになります。
数週間後ってそこそこの臨月の中で試験を受けてたってことですね。
ここで、あきさんがとみーさんに妊娠中の様子を尋ねる場面がありました。とみーさんはつわりが少なく、お腹を出してベリーダンスを踊っていたと話しています。
娘はスーザンと名付けられました。バリバリの理系だったカリコは、もともと赤ん坊は厄介でいらないと思っていたそうです。
ところが自分が母親になると、突然世界が変わったといいます。
赤ちゃんはとっても愛おしくて厄介じゃないなって思う。
この時、夫のベーラは兵役に行っていたそうです。
カリコは娘のおくるみを、いつか孫のためにと大切に持ち続け、アメリカに渡る時も持っていきました。
しかし娘のスーザンが妊娠したのはコロナ禍。混乱の中でおくるみは屋根裏部屋にしまわれたまま、使われることはなかったそうです。
子供を大切にした国の保育と、カリコの信念
11月生まれのスーザンは、わずか3ヶ月後の2月に保育園に入りました。
共産主義時代のハンガリーは、子供をとても大切にしたそうです。保育は手厚く、スタッフは熟練で、看護師も配置されていました。
健康管理もしっかりしており、ヨーロッパには外で赤ちゃんを寝かせる習慣があったといいます。
外に40人分ほどのベッドを並べ、雪が降る中でも厚着した赤ちゃんがすやすや眠っている。外で昼寝をすると健康で丈夫になるという考え方です。
外に置いて寒さに強くするみたいな。
カリコはインタビューで、子育てをしながら科学者として成功するには何が必要かとよく聞かれたそうです。
その答えは、いつも同じでした。
後にアメリカで苦労する彼女だからこそ、ここが核心だと考えていたのかもしれません。
RNA研究の壁と、扱いの難しさ
話は研究に戻ります。研究室は特殊なRNAである2-5A(2-5-アデニル酸)を人工的に合成することに成功しました。
さらにカリコの構想であるリポソームに2-5Aを閉じ込め、細胞に送り込むことにも成功します。
ところが問題がありました。RNAの実験は非常に難しいのです。
RNAはDNAと違って不安定で、すぐに壊れてしまいます。
原因はRNアーゼという酵素です。RNAを壊すこの酵素は、人間の汗や唾、皮膚の表面など至る所に存在します。
しかも厄介なことに、RNアーゼは熱をかけて壊しても、温度が下がると元の形に戻ってしまう性質があります。
ゆで卵のように、普通のタンパク質は一度熱で固まれば元に戻りません。しかしRNアーゼは活性をなくすのが非常に難しいのです。
だからRNAの実験には、汗や唾が入り込まない、極めてクリーンな環境が欠かせません。
比較的安定していて、実験中に壊れにくい
不安定で、至る所にあるRNアーゼによってすぐ壊れる
あきさん自身も研究補助員としてRNA実験を経験しており、その厄介さを実感していると話しています。同僚の多くからは「RNA研究なんて無理だ」と言われ続けたそうです。
いや、これはやり方が悪いだけでしょ。あんたたちにできないかもしれないけど、私にはできるわよ。
負けず嫌いで諦めないカリコは、そう思って頑張ったそうです。
資金打ち切りと、父の死
それでもRNAの厄介さで実験はなかなか進みません。資金を出していたハンガリーのスポンサー、レアナル社からは、いつ薬ができるのかとせかされました。
やがてカリコは正規職員から臨時職員に降格され、不安定な立場になったと考えられます。
そして1984年7月、悲しい出来事が起こります。
国営農場の帳簿係を長く務めた母が、いよいよ引退する記念すべき日でした。父が張り切って、母のためにソーセージやごちそうを準備していました。
ところが準備を終えた後、父は倒れ、心臓麻痺で即死してしまったのです。
えー。
母の引退を祝う日に、父が倒れてしまう。カリコはしばらく立ち直れなかったそうです。
半年後の1985年。30歳になったカリコは、いつも通り実験室に向かい、その日の夜は友人との食事を楽しみにしていました。
父の死からようやく立ち直りかけ、ウキウキと出かけた日でした。しかし、そこで衝撃の知らせを受けます。
スポンサーのレアナル社が、資金を打ち切ると告げてきたのです。
とうとう。
カリコは雇用されないことが決まりました。期限は7月まで。その月に終わってしまう、という状況でした。
ネガティブをポジティブに——アメリカ行きの決意
不幸が立て続けに起こる中でも、カリコはすぐに頭を切り替えます。
高校時代に愛読したハンス・セリエ博士の『現代社会とストレス』にあった言葉を思い出したのです。
誰かを責めても仕方がない。自分の力で変えられないことよりも、変えられることに意識を集中させて、ネガティブなストレスをポジティブなストレスに変えよう。
すぐに次の職場を探すと決めた彼女は、まずヨーロッパの研究所にあちこち手紙を書きました。
返事は結構来ました。しかし、そこにはこう書かれていたそうです。「ここに来るために助成金に申し込んでみなさい」。
研究者が自国の助成金を取って海外の研究所へ行くのは、よくあることです。しかしハンガリーには、そうした助成金がありませんでした。
そこでカリコは、もう一つの道を思いつきます。ベーラに相談したのです。
私たちはアメリカに行こう、アメリカに行くしかないみたい。
ヨーロッパなら助成金を持っていく必要がある。しかしアメリカなら、アメリカ側が資金をくれるかもしれない。そう考え、目がアメリカへ向いたのです。
結婚、出産という喜びと、父の死、資金打ち切りという苦難。激動の時期を経て、カリコはアメリカ移住へと動き出します。
まとめ
Part.7では、秘密警察の圧力から結婚、そして研究資金の打ち切りまでが描かれました。数々の困難の中でも研究への情熱と負けず嫌いを失わず、カリコは変えられることに集中してアメリカ行きを決意します。
- 秘密警察に協力の書類を求められたが、カリコは一度も報告をしなかった
- 「私は仕事を辞めない」と宣言し、銅の指輪と手作りの結婚式で結ばれた
- 博士号取得の数週間後に出産し、質の高い保育の重要性を語り続けた
- RNAは不安定で、扱いの難しさが研究の大きな壁になった
- 父の死と資金打ち切りという苦難の中、変えられることに集中してアメリカ行きを決めた
