奨学金で得た研究者への道
ハンガリー科学アカデミーで奨学金を獲得したカリコ先生は、アカデミーの研究所ならどこでも研究してよいという資格も得たそうです。
そして学部の卒業を待たず、飛び級のような形で、セゲド大学から近い生物学研究所に通い始めたと話されています。
この研究施設は、ユネスコと国際連合開発計画がお金を出して作ったもので、東側世界にありながら西側に負けない立派な設備が整っていたそうです。
所属する優秀な研究者は西側の研究所や学会にも行くことができ、そこで学んだ知識を持ち帰っていたため、非常にレベルの高い環境だったと語られています。
すごい環境が近場にあったってことですね。
魚類養殖の縁とリポソームの発想
最初に派遣された研究室は、以前カリコを魚類養殖研究所に派遣してくれた生化学者アルカシュ・ティボルの関係でした。
ここでいろんな研究者と共同研究を行ったそうで、あきさんはこの縁も魚類養殖に行ったおかげではないかと話しています。
いろんなところへ繋がってくるんですね。
ティボルにお父さんが肉屋だと話すと、顔を輝かせ「僕も子供の頃に肉屋になりたかったんだよ」と言ったそうです。
そしてこの脂肪、つまり油こそが、将来ワクチンを作るうえで非常に重要な要素になっていきます。
遺伝子を細胞の中に運ぶ運び屋を、ベクターと呼びます。ウイルスの中身を送りたいDNAやRNAに変えるウイルスベクターや、細胞に直接針を刺すマイクロインジェクションなど、さまざまな手法があります。
その中のひとつがリポソームです。細胞は脂質二重膜という油の膜で覆われていますが、これと同じ油の膜の中にDNAやRNAを閉じ込めておくのがリポソームです。
あきさんはこれを、スープの油をお箸の先でちょんと叩いてくっつける遊びにたとえます。同じ脂質膜どうしなので、細胞にぶつかると融合してくっつくのだそうです。
子供の時、僕あれをどんだけ大きいのを作るのかっていうのでよくやってて。でお母さんからいい加減食べなさいっつってよく怒られてたんですけど。
融合するとリポソームが細胞側から見て割れ、中のDNAが細胞に入り込みます。この膜は脂質でできているため、脂質研究がカリコにとって非常に重要な要素になっていきます。
牛の脳から材料を作る
リポソームの原料はリン脂質です。西側では簡単に手に入りましたが、ハンガリーでは鉄のカーテンに遮られて購入できなかったそうです。
そこで共同研究者のエルネが、近くの食肉処理場に行って牛の脳みそをもらってこようと考えました。脳は油の塊でもあるため、そこからリン脂質を取り出せばよいという発想です。
タクサエイジルないから作るっていう。
魚類研究室で試薬がないから自分で作ったのと同じで、今度は牛の脳から有機溶媒を使って分離し、純粋なリン脂質を取り出したそうです。
材料が揃い、いよいよリポソームを作れることになりました。そこにプラスミドDNAを封入し、培養細胞に振りかける実験に取り組みます。
このプラスミドDNAには、その細胞自身が作らないタンパク質の情報を書き込みます。たとえば人間の培養細胞に、昆虫しか作らないタンパク質の情報を送り込むのです。
振りかけた後に細胞をすりつぶして分析し、昆虫しか作らないタンパク質が見つかれば、送り込んだDNAがちゃんと働いた証明になります。
そして分析の結果、送り込んだDNAから作られたタンパク質が見つかり、実験は成功しました。
本当に、脳からリポソーム作ってっていうところで、ついに成功したっていうことですね。
父の言葉と「探索者」という誇り
この成功をお父さんに報告すると、生物学はよくわからないながらも、とても喜んで褒めてくれたそうです。
お父さんはカリコを「拓斗(探索者)」と呼びました。「お前はずっとお父さんのポケットの金を探索してたけど、今はずっと重要なものを探索してるな」と言ったそうです。
お前は探索者だなと。今ずっと重要なものを探索してるなって言って褒めてくれたらしいです。
カリコはこの言葉を心に刻んだと語られています。誰も知らない真実を探索する探索者、それこそが科学者の姿だという意味です。
そこには道も手本もなく、何を探し、それがあるのか、どう見つければいいのかもわからない。それでもやるのだという基礎生物学者としての真理を、彼女は自分の道と定めたそうです。
素敵なお父さんですね。原理のところを評価するっていう。
実験成功のお祝いには、お父さんが卒業祝いに作ってくれたソーセージを実験室のビーカーでお湯で茹で、白衣のままみんなで食べたそうです。
卒業とインターフェロンへの新たな挑戦
大学の学生でありながら研究所に入っていたカリコですが、いよいよ卒業の時期を迎え、寮を出ることになりました。
クラスメイトのアンナと一緒にアパートを借りて住み、交際していたベーラは同じ年に高校を卒業して実家に戻ったそうです。
ベーラはセゲドにある電話ケーブル工場に働きに来て、仕事の合間に会いに来てくれたと話されています。
そしてカリコは博士号を取得するため、さらに数年間研究所で働き続けることになります。
ここでリポソームとは別のテーマとして、インターフェロンの研究にも並行して取り組むことになりました。
インターフェロンはもともと生体内にある防御反応で、ウイルス由来のRNAを感知すると分泌される物質だと説明されています。
カリコが研究室に入った頃、ロンドンのイアン・カー博士が、2´-5´アデニル酸という特殊で小さなRNAが、RNAを壊す酵素であるRNaseLを活性化させ、ウイルスのRNAを分解することを発見していました。
通常のRNAが3´-5´のつながりであるのに対し、この特殊なRNAは2´-5´のつながりを持つ点が特徴だと、あきさんは糖の構造にふれながら説明しています。ただし口頭では難しい部分だと断っています。
気になる方はぜひネットか何かで調べてください。
カリコは、この小さな2-5Aをリポソームの膜に閉じ込めて体内に送り込めば、ウイルス治療に使えるのではないかと考えたそうです。
研究室の立ち上げと天然痘の撲滅
この構想を実現するには、2つの課題がありました。1つ目は研究資金です。
これはチームのイエネが産業界にツテを持っており、ハンガリーの製薬会社レアナル社に支援を依頼しました。新しい抗ウイルス薬になると見込み、会社は乗り気で資金を出してくれたそうです。
2つ目は設備が整った実験室です。チームは有機化学者ばかりで、生物学者はカリコ一人でした。
そのため、化学的に合成したものが本当に薬になるかを測定する方法などは、若いカリコ一人が担うことになりました。
さらに1978年当時のハンガリーには、実験室用の設備を売る店も、必要な試薬を販売する店もなかったそうです。
そこでカリコはいろいろな研究室を訪ね、どんな設備が必要かを見て歩き、手伝ってくれそうな人に頼んでまわりました。この立ち上げ作業が大学院生にとって大きな勉強になったと語られています。
今なら業者が設備の設計から配置まで手伝ってくれますが、当時は研究者自身がすべてデザインする必要がありました。
研究だけをしているわけにはいかないですもんね。
またカリコはウイルスの知識があまりなかったため、とにかく勉強したそうです。ウイルスはとても小さいのに、何億倍も大きい人間の命を奪うことがある存在だと実感したといいます。
ちょうどこの頃、人類はウイルスに一つの勝利を収めていました。1977年、ソマリアで最後の自然感染による天然痘患者が報告されたのです。
これ以降、天然痘は報告されなくなり、1980年にWHOが撲滅を宣言しました。あきさんは、自分が生きている時代にもまだ天然痘が存在していたことに驚いたと話しています。
天然痘って僕が生きてる時代でもまだ存在してたんだなと。
まとめ
Part.6では、大学卒業前から研究所に入ったカリコが、脂質研究からリポソームを作り上げ、インターフェロンをめぐる抗ウイルス薬研究へと歩みを進める姿が語られました。材料も設備もない環境を、工夫と粘り強さで乗り越えていく研究者としての一歩が描かれています。
- 奨学金を得たカリコは、卒業を待たず生物学研究所で研究者としての一歩を踏み出した
- リン脂質が手に入らないため、牛の脳から材料を取り出してリポソームを作り、実験を成功させた
- 父から贈られた「探索者」という言葉を、誰も知らない真実を探す科学者の道として心に刻んだ
- 資金も設備もない中、カリコは一人でインターフェロン研究の実験室を立ち上げていった
- 同じ時代に天然痘が撲滅へ向かい、人類がウイルスに勝利しつつあったことも語られた
