二人の外務大臣をめぐる訂正
今回はまず、前回の説明で取り違えてしまった二人の人物について訂正から始まります。二人はいずれも明治期の外務大臣ですが、経歴も業績も異なる人物です。
一人目は榎本武揚です。江戸幕府の海軍将校で外国語に堪能でしたが、新政府に最後まで抵抗して函館にこもり、土方歳三らとともに戦った末に敗れます。
一度は死罪となりますが、これほどの人物を殺すのは惜しいとして、適塾で共に学んだ福沢諭吉が嘆願して回りました。そのおかげで新政府の役人として働き始めることになります。
福沢さん、ここでもまた発揮中ですね。
この時の福沢諭吉がいなかったら、日本ってまた全然違った動きになっちゃってたんだろうなと思いますね。
榎本はその後、駐露公使としてロシアと交渉し、1875年にサンクトペテルブルク条約を結びます。これは千島列島と樺太の国境が曖昧だった状態を解消するものでした。
立ち上がったばかりの小国日本が、大国ロシアと戦争もなしに外交で領土を確定した点で高く評価される仕事だと話されています。
二人目は陸奥宗光です。紀州藩士から坂本龍馬率いる海援隊に入り、その後、明治政府で外交官・政治家としてのし上がっていきます。
陸奥は外務大臣時代に、江戸幕府がアメリカとの開国時に結ばされた不平等条約の改正に成功します。関税自主権がなく、国内の法律で外国人を裁けないといった不利な内容の是正が日本の悲願でした。
また、日清戦争時の外交交渉も担当しています。この二人の名前と業績が混ざってしまったため、改めて整理したという流れです。
福沢と長与が整えた研究所の土台
ここから前回の続きです。福沢諭吉の助けで、北里はようやく小さな研究所を設立できました。ただし研究資金は乏しく、それを潤沢にするために長与専斎が動きます。
長与が副会頭を務める大日本私立衛生会を、伝染病研究所の運営母体にしようとしたのです。
ここで一つ問題がありました。私立衛生会には税金が入っているため、その一部を福沢の私財である研究所に渡すのは都合が悪かったのです。
そこで福沢に、研究所を大日本衛生会のものにできないかと相談したところ、福沢は二つ返事で無償で貸してやると応じました。
かっこいいですね。
かっこいいですね。本当に素晴らしいですね。
さらに長与は、私立衛生会の運営会で予算の一部を研究所に割り当てるため、議題にかけて演説を行います。その演説の内容が紹介されました。
せっかく多くの支援を受けたにもかかわらず、福沢や森村の支援をただ黙って見過ごすことはできない。本会からも年間三千六百円の支出をすることにしたい。
所長にコッホ門下の四天王の一人として高名な北里博士を冠することは、世界第二の研究所となる。ここに資金を出すことは、本会の名誉のみならず日本の名誉である。
この演説によって予算が認められ、初年度の運営資金は三千六百円、現在の感覚でおよそ三千六百万円ほどの研究費となりました。
ただし、北里がアメリカのペンシルベニア大学に行っていれば、四十万円、およそ四十億円が出ると言われていました。桁の違う金額です。
それでも、これが当時の日本にできる精一杯でした。土地は福沢諭吉、建設費用は森村市左衛門、運営資金は長与という形で、多くの人が力を合わせて研究所を支えたのです。
土地
福沢諭吉が提供
建設費用
森村市左衛門が寄付
運営資金
長与専斎が私立衛生会の予算から用意
突貫工事で誕生した研究所
福沢は、資金が集まっていない段階から建設を急がせました。自ら大工と打ち合わせをし、私費で工事をスタートさせます。金は後から工面すればよいという姿勢でした。
福沢も長与も、北里が浪人のような状態のまま腐って海外へ行ってしまうことを恐れていました。四十億円を出すと言う海外の話もあったからです。
なるほど。必要な人材がね。
突貫工事で二階建て六部屋の研究所が完成し、1892年(明治25年)11月30日に伝染病研究所がスタートします。
開設にあたり、研究所を参観日として開放しました。一日目は関係者と新聞記者、二日目は貴族院と衆議院の国会議員、三日目は陸海軍の軍医と東大の教授たちが招かれます。
参観者に送られた紹介文には、皇室の恩恵で北里の留学資金を得たため、その恩を国家に返す責任があり、国費の整備が整うまで本会で研究所を設立した、という趣旨が記されていました。
この紹介文には、国がなかなか金を出してくれないという嫌味も込められていた、と話されています。それを議員や東大教授に送っている点が印象的です。
さすが。それぐらいしないとね。
設備は、入り口に空手や柔道の道場のような墨書きの木の看板が掲げられ、一階に患者用の和室と事務室、二階に診察室と研究室が置かれました。
研究室の実験台には顕微鏡、細菌培養機、孵卵器、ろ過器、シャーレ、消毒器などが並びます。動物室の中央には暖炉が設けられ、見学者は動物への配慮に驚いたそうです。
健康な動物でなければ良い血清や動物実験ができないという事情もありましたが、それでも動物への気遣いが感じられる設備だったと語られています。
そしてすぐに一番弟子を取ります。北里の四歳年下で、熊本医学校でマンスフェルトに学んだ人物です。海軍の軍医大尉としてヨーロッパを視察し、ベルリンで北里に会って刺激を受けていました。
その人物は、北里が研究所を立ち上げると聞くと一番に駆けつけ、助手を願い出て入門を許されました。
より大きな研究所への動き
長与は、立ち上がったばかりの研究所を見て、ここでは北里が活躍するには狭すぎると考えました。存分に働いてもらうには、もっと広い研究所と、結核患者を診るための併設病院が必要だと判断します。
そこで内務省の東京医術開業試験場に五百二十五坪の空き地があることを知り、研究所付属病院を作る計画を内務省と東京府に提出して、翌年に許可を取ります。
時代を感じさせるのは、東京都ではなく東京府だった点だとも触れられています。
衆議院議員の長谷川泰もこれに呼応して動き、伝染病研究所の国庫補助を求める建議を衆議院に提出しました。これが満場一致で可決されます。
建設資金として二万円、年間一万五千円の運営費が出ることになりました。さらに、運営に国から横やりが入らないよう、事業は北里の指揮に任せるという一文も加えられます。
大事な一文ですね。
これは、長与の後任で衛生局長になった後藤新平が配慮してくれたものだと語られています。
研究所設立に対する住民の反対運動
予算がつき、新研究所がようやく立ち上がるという段になって、とんでもない問題が起こります。研究所設立に反対する住民運動が始まってしまったのです。
建設予定地となった愛宕町界隈の住民が、移転反対を叫びながら、芝公園の小さな伝染病研究所に押し寄せました。
伝染病の患者が自分たちの町に来て入院すれば、周りに病気が広まるという理由での抗議でした。小さな研究所には無数の石が投げ込まれ、窓ガラスが割れたそうです。
激しい。
さらに福沢諭吉や北里の自宅には、殺害を予告する怪文書まで投げ込まれたといいます。相当な反発でした。
この動きには、帝国大学初代総長の渡辺洪基や、新聞記者から衆議院議員になった人物、貴族院議員の林伯爵など、有名な人間が関わっている様子があったと語られます。彼らは芝公園で連日演説会を開いていました。
なかなか黒い黒い背景を感じますね。
読売新聞はこの反対運動を丹念に取材し、背後に内閣の意向があるのではないか、北里に批判的な帝国大学の教授陣が内閣に働きかけているのではないかとつかみます。そうした内容を匂わせる記事が現在も残っているそうです。
ここで、現代のP4施設の話にも触れられます。厳格に細菌やウイルスを封じ込める研究施設は、住民の反対運動によって施設があっても使えない状態になっている例があると語られています。
病気が万が一日本に来たときに対応できる人がいなくなってしまうため、その点は勘弁してほしいという思いも語られました。長崎大学でP4を作ろうとした際も反対にあっている、と触れられています。
陰謀には陰謀で~福沢諭吉の一手
この反対運動に対して、福沢諭吉が対抗します。自ら創刊した時事新報に論説記事を掲載したのです。
記事の内容は、北里博士が突然、私立衛生会に辞表を提出したというものでした。副会頭の長与に宛てた手紙を入手したので掲載する、という体裁になっていました。
手紙には、私利私欲でやっているわけではないのに激しい反対運動に遭い、このままでは研究も治療もできない、任務に背くことになるので辞任する、という趣旨が書かれていました。
さらに、研究所設立の補助金は国会の決議であったにもかかわらず、反対運動の仲裁をしてくれず悔しい、という内容も記されていたそうです。
この論説によって北里の心情が国民に伝わり、同情を集めて反対運動は沈静化していきます。ところが、この手紙は北里が書いたものではなく、福沢諭吉が創作したものだったことがわかっています。
すごいな。思い切った内容ですよね。
もう陰謀には陰謀で対抗したっていう感じですかね。
誰かを直接傷つけることなく反対運動を沈静化させ、無事に研究所は立ち上がっていくことになります。つくづく福沢諭吉の頭の良さがうかがえる一手だったと語られています。
ね。誰かを別に傷つけたわけでもなく。
まとめ
帰国した北里柴三郎は、福沢諭吉と長与専斎を中心とした支援によって、日本初の伝染病研究所を立ち上げました。予算の確保から反対運動の沈静化まで、多くの人の力と福沢の機転がその再出発を支えたのです。
- 日本初の伝染病研究所は、土地を福沢諭吉、建設費を森村市左衛門、運営資金を長与専斎が担う形で1892年に誕生した。
- 北里が海外に流出しないよう、福沢は資金が集まる前から私費で建設を急がせた。
- 研究所には国庫補助と、事業を北里の指揮に任せる一文が加えられ、後藤新平が配慮した。
- 愛宕町の住民らによる激しい反対運動が起こり、背後には帝国大学関係者や政治家の影があった。
- 福沢は北里名義の手紙を創作した論説を時事新報に載せ、世論を味方につけて反対運動を沈静化させた。
