73歳で医学部を立ち上げた北里を襲った、家族との別れ
北里柴三郎の生涯を追うシリーズは、今回が最終回です。前回までで、志士として北里研究所を建て、さらに慶應義塾大学の医学部を創設したところまでが語られました。
あきは、北里が年を取ってもなお、研究所と医学部という2つの大仕事を立ち上げたと振り返ります。
もう年を取ってもですね、あちこちで活躍すると。研究所と医学部を立ち上げるという大仕事をやってのけて。
しかしその折に、長男が芸者と心中してしまいます。その後始末をしてくれたのが、北里の側近である田畑でした。
ところが、その田畑の妻・まきが1926年、大正15年の5月、北里が73歳のときに脳溢血で死去します。46歳という若さでした。
まきは前年の春に軽い脳溢血の発作に襲われ、それが再発して半身不随に陥っていたそうです。一進一退を続けたのち、息を引き取りました。
あきは、46歳は今の感覚では若いとしつつ、当時は50歳まで生きられる人も少なく、割と寿命だったのかもしれないと補足します。とみーは、それでも北里が73歳であることに驚きます。
とはいえ、北里先生73歳ですけどね。すごい。
献身の人・トラの死と、6年間で7人を育てた妻の生涯
妻を亡くした田畑に、北里は「懇ろに弔ってやれ」と、しばらくの休みを与えます。田畑は遺体を車で実家のある埼玉県比企郡小川町まで運び、葬儀と埋葬を終えて東京に帰ってきます。
休みをもらった礼を伝えようと田畑が北里邸を訪ねると、線香の匂いがしました。奥に入ると、北里柴三郎が落胆しており、妻のトラが亡くなっていたのです。
ここまでずっと支えてくれたトラさんが。
トラは4年前から心臓を悪くし、入退院を繰り返していました。享年59歳でした。
田畑は「自分の妻が亡くなって寂しいから、トラを呼んでしまったのではないか」と自分を責めましたが、北里は「そんなことあるもんか」と叱りつけたそうです。
トラの人生は、北里への献身に彩られていました。結婚後いきなり6年間、一人で日本に残り、北里の帰りを待ち続けています。
その間に4男3女、7人の子を産み育てました。あきは、毎年のように妊娠していたのではないかというほどだと語り、当時はそういう時代だったと振り返ります。
トラの支えは、育児だけではありませんでした。北里が芸者と浮き名を流す報道が出たときも、トラは特に咎めず、変わらず支え続けたそうです。
伝染病研究所の移管問題で北里が落ち込んだときには、トラが逆に彼を奮い立たせました。
(トラは)じゃあもう熊本に帰りましょうというふうに言って、逆に北里を奮い立たせた。
さらに、家族で持っていたお金も、すべて研究所の運営資金や建て替えのための寄付に充てることを許してくれたといいます。あきは、心から北里を支えてくれた素晴らしい奥さんだったと評します。
前日まで元気に働き、78歳で迎えた最期
妻トラの葬式の段取りも、帰ってきたばかりの田畑が任されることになりました。とみーは、その献身的な奥様が亡くなってしまったことに言葉を重ねます。
トラの死から5年ほど生きたのち、北里柴三郎は1931年、昭和6年の6月13日に亡くなります。78歳でした。
死因は、妻や田畑の妻と同じく脳溢血でした。東京・麻布の自宅で、夜に寝たあと、朝になっても起きてこないのを不審に思ったお手伝いが寝室を見に行くと、すでに息絶えていたそうです。
でもこの感じだと、ピンピンコロリというのか、何て言うのか。
あきは、北里は前日まで元気に働いており、本人も死ぬとは思っていなかっただろうと話します。病弱な様子もなく、まさに死ぬ間際まで研究に尽くした人生でした。
赤痢菌と梅毒の特効薬。北里が育てた弟子たちの功績
ここからあきは、北里柴三郎が育てた弟子たちを紹介していきます。世界的な研究を成し遂げた北里のもとには、優秀な人物が数多く集まっていました。
まず一人目は志賀潔です。1897年に赤痢菌を発見し、赤痢の治療法の確立に寄与しました。
志賀はドイツ留学中にエールリッヒのもとで免疫学や化学療法を学び、帰国後は慶應義塾大学の医学部で細菌学を教えました。その後、日本統治下の朝鮮に渡り、京城帝国大学医学部の創設に尽力します。あきは、朝鮮の近代医学の父と言ってもいい人物だと評しています。
二人目は秦佐八郎です。1910年に、ドイツのエールリッヒ博士と共同で、梅毒の特効薬サルバルサンを発見しました。
当時、化学的な薬を新規に作るのは難しいことでした。秦は、いろいろな化学物質を実験動物に与え、どれが梅毒だけに効くのかを突き詰めたのです。あきは、初めて化学で薬を作り、化学療法の基礎を築いた人物だと語ります。
秦はペストの研究や結核予防協会の設立にも関与し、感染症の撲滅に尽力しました。ノーベル賞候補に挙がるほどでしたが、受賞には至っていません。
すごいね。もう弟子たちが。
ハブ毒の血清が救った命。北島多一の業績
次に紹介されたのは、シリーズで何度も登場した第一部長の北島多一です。彼はハブ毒の血清療法を確立し、重要な成果を上げました。
北島は、フランスのパスツール研究所で開発されたコブラ毒の抗血清の製造法を応用し、ハブ毒に対する血清を作りました。
当時、明治政府によって沖縄や奄美群島が日本に統一されていく中で、ハブによる死亡事故が頻発していました。北島の血清は、その死亡者を一気に減らす大きな功績となりました。
北島はまた、慶應義塾大学の医学部で衛生学を講義し、公衆衛生学の発展にも寄与しています。
マラリアから日本住血吸虫症まで。南方の病に挑んだ宮島幹之助
続いて紹介されたのは、寄生虫学と熱帯病の研究で知られる宮島幹之助です。あきは、宮島が南方の病気のほとんどに取り組んだのではないかというほど、幅広い研究を残したと語ります。
宮島は、沖縄で問題となっていたマラリアの研究に尽力しました。マラリアの媒介が蚊であることを突き止め、蚊の研究を通じて流行のメカニズムを解明します。特にマレー半島や八重山諸島で調査を行い、マラリア対策に寄与しました。
さらに宮島は、ツツガムシ病というリケッチア感染症の病態解明にも取り組みました。これは日本の南方や東南アジアで広く見られる感染症で、その研究と予防、治療に貢献しています。
宮島の研究はこれだけにとどまりません。日本住血吸虫症を起こす寄生虫を研究し、感染経路や予防策の解明に貢献しました。あきは、この研究が基礎となって撲滅に至り、今はほとんどない病気になったと説明します。
さらに、ワイル病、レプトスピラ症の研究にも取り組み、病原体であるレプトスピラを研究して、この感染症の診断と治療に役立つ知見を提供しました。
蚊が媒介することを突き止め、流行のメカニズムを解明
リケッチア感染症の病態解明に取り組む
寄生虫を研究し、感染経路と予防策の解明に貢献
病原体レプトスピラを研究し、診断と治療に貢献
ノーベル賞候補に3度。野口英世の功績と挫折
そして、有名な野口英世も北島門下の一人でした。あきは、野口が梅毒スピロヘータの純粋培養に初めて成功し、梅毒の病原体を特定したと紹介します。
もともとの病原菌がわからなければ対抗策も出てきません。特効薬サルバルサンを発見した秦らと並んで、野口の研究は梅毒にとって画期的なものでした。
この成果によって、野口はノーベル賞候補に3度上がるほどの業績を残します。しかし、途中で黄熱病の研究のため海外へ行き、自身が黄熱病に感染して命を落としてしまいました。
惜しい人材がっていう。
あきは、野口が一度は黄熱病の原因菌やオロヤ熱の病原菌を見つけたと発表したものの、これらは実際にはウイルス感染症で、当時の顕微鏡では発見できなかったと補足します。この点は間違いだったものの、梅毒に関しては非常に成果を上げた人物だとまとめます。
とみーは、北島門下からこれだけ優秀な研究者が育ったことに驚きます。あきは、当時「東大には世界的な人間はいない」と揶揄されたことに触れつつ、北島門下にはこれだけ優秀な人がいたのだと語ります。
もうこの人たち一人一人をまた別途紹介していきたいんですけど、そんなことやってたら時間なくしちゃうんで。
参考にした2冊の本。小説風と徹底検証、タイプの違う読み方
あきは、このシリーズのスクリプトを書くにあたって参考にした本を2冊紹介します。
1冊目は、山崎光夫による『ドンネルの男・北里柴三郎』で、東洋経済新報社から出ています。小説風の仕立てで読みやすい一方、どこからが作り事でどこが本当なのかが混ざる面もあると、あきは説明します。物語が好きな人には面白い1冊だといいます。
2冊目は、上山明博による『北里柴三郎 感染症と戦い続けた男』で、青土社から出ています。当時の新聞や、さまざまな人の日記など、一次文献を徹底的に当たって書かれており、ほぼ正確な内容になっているとあきは評価します。
あきは、正確な事実を知りたい人には2冊目がおすすめだとしつつ、このタイプの違う2冊を行き来しながらスクリプトを書き上げたと明かします。
小説風の仕立てで読みやすい。物語が好きな人向け
一次文献を徹底的に当たり、ほぼ正確な内容。事実を知りたい人向け
名声より患者を治す。北里が貫いた「我が道」
とみーは、北里が73歳、78歳とずっと走り続けてきたように感じたと振り返ります。あきも、自身はバイオの世界にいながら北里柴三郎に注目していなかったが、今回しっかり調べてよかったと語ります。
あきは、福沢諭吉についても正直あまり知らなかったが、これほど日本のために貢献してくれていたのかと驚き、改めて調べてみたくなったと話します。とみーも、二人がこれほど密接な関係にあったことを知らなかったと応じます。
だってどっちかが欠けてもなり得なかったっていう。
あきは、北里を支えた長与専斎という人物についても、これほど支えてくれた人がいたのかと驚いたといいます。一方で森鷗外については、悪い印象はなかったものの、調べてみると意外な一面も見えたと語ります。
あきは、鷗外が北里の留学中に取りなしてくれた側面にも触れつつ、人間は一面だけでは捉えられないとします。ただし、陸軍軍医として自分の説に固執し、多数の兵隊を死なせてしまったことは許しがたい事態だと述べます。
とみーは、北里が几帳面に研究を重ねて実績を作り、偉ぶることなく後世に伝えていった点がすごいと語ります。あきは、北里が教育に力を入れ、立派な弟子を多数残したことも素晴らしいと応じます。
その根底にあったのが、病気の細菌を見つけることに重きが置かれた当時にあって、治すところまでやろうとする姿勢でした。
あきは、北里が名声を求めるだけでなく、患者を治してこそという点に目を向けたことが、さらなる業績の一助になったのではないかと語ります。
さらに、いろいろな誘いを断って日本のために尽くした点も、北里らしいところでした。アメリカからも大金を出すから来いと言われたものの、北里は断っています。
なんか普通ならフラフラって、ああ喜んでみたいな。やっぱりいろいろ計算しちゃいますもんね。
あきは、政府に邪魔されても、東大に邪魔されても、我が道を行くという北里の姿勢がかっこいいと締めくくります。あきは、男の嫉妬を見てしまった回でもあったと振り返ります。
とみーは、世界情勢的にも不安定な時期だったと補足します。あきは、トランプ就任後にロシアがウクライナに攻め込むなど、現在も世界が不安定化しており、当時と似た状況になっていると重ねます。世の中に余裕がなくなってきたと感じる中で、こうした偉大な研究者を紹介できてよかったと語ります。
次回予告。PCRを発見した「チャラくてかっこいい」研究者
最終回の締めくくりに、あきは次回の予定を紹介します。次回からは、コロナの感染者を発見する手法として一躍注目を浴びたPCRの発見者、キャリー・マリス博士を取り上げます。
マリスは1993年にノーベル化学賞を受賞した人物です。あきは、彼を一風変わった研究者だと紹介し、一言で言うと「チャラい」と表現します。
非常に一風変わった研究者ですね。まあ一言で言うとチャラいって感じなんですけど。
あきにとって、PCRは特別な技術です。バイオテクノロジーの業界で生きる中で、まさにPCRで人生が変わったと語ります。学生のときにPCRの原理を聞いて感動し、研究補助員時代には毎日のようにPCRを行っていたそうです。
PCRの原理はDNAシーケンスの機械などにも応用され、今の分子生物学の基礎となる技術になっています。あきは、今は高校生でPCRの原理を習うとも聞いており、自身が学生だったころの生物とはまるで変わっていると語ります。
あきは、この20〜30年で技術が圧倒的に進歩し、教科書の内容もどんどん変わってきていると指摘します。基礎知識を知らない大人と、知っている子供たちとの格差が生まれているかもしれないとして、基礎技術であるPCRとマリスの人生を次回シェアしたいと締めくくります。
まとめ
北里柴三郎の晩年は、家族との別れと弟子たちの活躍に彩られていました。妻トラの献身に支えられ、名声よりも患者を治すことにこだわり続けた北里は、志賀潔や秦佐八郎ら多くの優れた研究者を育て、78歳まで研究に尽くしました。
- 北里は73歳で妻トラ、その5年後の78歳で自身を亡くし、いずれも脳溢血が死因だった
- 妻トラは6年間一人で日本に残り7人の子を育て、研究所への寄付も許すなど北里を支え続けた
- 北里の弟子には志賀潔、秦佐八郎、北島多一、宮島幹之助、野口英世ら世界的な業績を残した研究者が並ぶ
- 北里は細菌を見つけるだけでなく「治すところまでやる」ことにこだわり、教育にも力を注いだ
- 次回からはPCRの発見者でノーベル化学賞受賞者、キャリー・マリス博士を取り上げる


