不妊治療との向き合い方をあらためて語る
前回、前々回では、あきさんととみーさんが自分たちの不妊治療の体験を、科学的な知識とともに赤裸々に語ってきました。
とみーさんは、不妊治療や妊活に取り組んでいることを人に言わない人が多いと話します。命を扱うセンシテイブなテーマであり、必ずうまくいくとは限らないからです。
うまくいかなかったんだね、みたいな同情を集めたくない気持ちもあるのかなと思うんですよね。
一方で技術は年々上がっており、30年前に不妊とされた人の多くも、今の技術なら妊娠が可能になっていると話します。
ただし、100%の結果が出るものではありません。何度も採卵しても授からなかった人もいれば、タイミング療法などの過程で夫婦仲が悪くなり離婚に至る人もいます。
子供が欲しいんだったらみんな不妊治療しなよ、みたいに押しつけたいわけでは全くないです。
だからこそ、信憑性のない噂に惑わされて、本当に望んでいたことを取り逃してほしくない、ときちんと知識をつけることの大切さを語ります。
出口を決めて明るく妊活する
あきさんは、自分たちが不妊治療をしていることをあまり隠さず、会社でも友人にも話していたと言います。
すると「実はうちもやってるんだよね」という話が意外と多く返ってきたそうです。
意外と仲間って近くにいるけど、お互いに言わないとわかんない。
とみーさんはSNSでも妊活を発信していました。一人で心にとどめるとモヤモヤ思い悩んでしまうため、あえて明るく妊活しようと決めていたと話します。
そしてとみーさんは、取り組みに「期間」を決めていたことも振り返ります。終わりがないものが辛いからです。
具体的には、一度採卵して得られた受精卵、胚盤胞のできた数だけ頑張ること、そして1年間は頑張ることを条件にしていました。
うまくいかなかったら一旦諦め、もう一度子供を望むかどうかを考えるところから始めようと決めていたそうです。幸い、その期間内に妊娠できたと話します。
目的達成のためにどこまで頑張るかを先に決めておくのは、結構いいTipsかなと思います。
あきさんも、パートナーが気が滅入っていると男性側にも影響が移り、支えきれなくなることがあると言います。だからこそお互いのコミュニケーションを大切にしたいと話されています。
今回のテーマ「人工」と体外受精の3人
この回は、毎月テーマが出る「科学系ポッドキャストの日」に乗った内容です。今回のテーマは「人工」でした。
人工と聞くと人工知能や人工肉なども浮かびますが、今回は人の力、科学の力で子作りを手助けする体外受精を取り上げます。
番組「生命科学の冒険者」は、生命科学のブレイクスルーを成し遂げた研究者たちの人生とドラマを届けることを目的としています。
今回紹介するのは、体外受精を開発した3人です。2010年にノーベル医学生理学賞を受賞したロバート・エドワーズ博士、外科医パトリック・ステプトー先生、そして看護師で研究助手のジーン・パーディさんです。
3人、特にジーンさんを主人公にした映画「JOY」があり、Netflixで見ることができます。ここから先はネタバレを含むため、先に見たい人は映画を見てから戻ってきてほしいと呼びかけています。
めちゃくちゃ泣ける映画でした。
当時のイギリスでは、人の手で子供を作ることをキリスト教社会の中で神への冒涜だと考える人もおり、3人は激しく邪魔されたと話されています。映画はほぼ史実に近く、脚色が少ないと紹介されています。
とみーさんは、家のインテリアやどこでも紅茶を飲む場面、皮肉っぽいセリフ回しなどが「すごくイギリスだ」と感じたと話しました。
受精と受精卵の観察の歴史
まず前段として、受精や受精卵が科学史でどう観察されてきたかが語られます。生物がなぜ子供を生むのかは長く謎でしたが、顕微鏡の発明で観察できるようになりました。
1875年、ドイツの生化学者オスカー・ヘルトヴィヒが、ウニの卵を使って精子と卵子の核が融合する様子を初めて顕微鏡で観察しました。
これにより、受精とは単に精子と卵子が接触することではなく、卵子の中に精子が入り、核と核が融合する現象だと突き止められました。発生学の基礎が築かれたのです。
ウニが使われたのは、その卵が透明で顕微鏡で観察しやすかったためだと説明されています。
哺乳類では、1943年にイギリスのマーティン・バリーがウサギの卵子に精子が侵入する様子を初めて報告しました。彼はその後、受精卵が分割していく様子も観察しています。
主人公ジーン・パーディの出発点
ここから3人の紹介に入ります。まず、映画「JOY」の主人公として描かれる看護師ジーン・パーディさんです。1945年4月25日、イギリスのケンブリッジで生まれました。
この年はヨーロッパ戦線が終わった年でした。当時のイギリスは空襲で街が瓦礫だらけ、食料も配給制という厳しい状況でした。
同時に、戦後の総選挙で労働党が圧勝し、後の国民保険サービスにつながる福祉国家の建設に向けた動きがありました。科学への期待も高まっていた時代です。
レーダーやペニシリンなど戦時中の科学の発達を背景に、科学技術こそが国を豊かにするというポジティブなムードがあったと語られます。
教育面ではバトラー法が施行されました。それまでのイギリスは高等教育を受けられるのは良い家の子という階級社会でしたが、労働者の子も教育を受けられるべきだという考えが広がります。
ジーンは非常に優秀で、地元ケンブリッジの進学校であるケンブリッジシャー女子高校に進みました。父親がケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所で実験補助員として働いていたことも、科学の道への後押しになったと考えられます。
ジーンはその後、当時の女性にとって尊敬された専門職の一つである看護師の道を選びます。資格取得後は、心臓移植などの最先端研究を行うパプワース病院で働きました。
そして1968年、23歳のときに、ケンブリッジ大学の生理学研究所で、ロバート・エドワーズの研究補助員、いわゆるテクニシャンとして採用されます。看護師から実験補助員へ転身したのです。
なお、映画では彼女が子宮内膜症を患い子供ができない体質として描かれていますが、あきさんが調べた限りでは事実ではなく、脚色ではないかと話しています。
もう一人の主人公ロバート・エドワーズ
次の主人公が、ロバート・エドワーズ、通称ボブです。1925年9月27日にイギリスのリーズで生まれ、マンチェスターで育ちました。
ボブはジーンよりだいぶ年上で、第二次世界大戦のために大学で学業を続けられませんでした。1944年、19歳でイギリス陸軍に徴兵されます。
戦争は入隊の1年後に終わりますが、その後もパレスチナやヨルダン、エジプト、イラクで軍務に就きます。中東に権益を持つイギリスが、独立などで混乱する地域に兵力を割いていたためです。
1948年、23歳で退役し大学に戻ります。合わせて4年間、兵隊に取られていたことになります。
復員後は政府の復員兵支援制度を利用し、ウェールズ大学、今のバンガー大学に入学します。戦後の食糧難の解決に貢献しようと農学を専攻しました。
しかし農学の授業は肥料のやり方など、期待より科学的ではなかったようで、生命の仕組みそのものを解明したいと考えます。そこで発生学の授業に出会い、ロジャース・ブランベル教授の講義に感銘を受けて動物学へ転向します。
大学卒業後は、さらに専門的な研究を求めてエジンバラ大学の動物遺伝学研究所へ進み、マウスを使って受精卵を体外で操作する方法や、胚をコントロールするホルモンの研究を行います。
この研究で使われていたホルモンが、まさに現在の体外受精でも使われるものだったことに、あきさんは驚いたと話します。
当時はこうしたホルモンを人工的に合成できず、ゴナドトロピンは妊娠した馬の血清から、HCGは妊娠した女性の尿から精製して取っていたそうです。
1955年、ボブは博士号を取得し、この頃にマウスの体外受精に成功します。そして「マウスでできることはいつか人でもできるはずだ」という確信を持ち始めます。
人の卵子をどう手に入れたか
1960年代になり、ボブはロンドンの国立医学研究所やグラスゴー大学などを渡り歩きます。その中で、人の卵子が取り出してから受精可能になるまで約37時間かかるという重要な時間を突き止めます。
ただし、当時のイギリス医学界では人の卵子を使った研究への拒絶反応が強く、卵子を提供してくれる人がなかなかいませんでした。命の研究に手を加えることがよくないという空気があったのです。
そこでボブは、モーリー・ローズという女性産婦人科医に協力を求めます。彼女はボブの5人の娘全員を取り上げた主治医でした。
モーリー・ローズは、病気治療のためにやむを得ず摘出された卵巣を、こっそりエドワーズに渡してくれたそうです。ボブはケンブリッジからロンドンの病院まで何度も通い、手ぶらで帰ることもありました。
卵子を得るのが難しかったため、ボブは1965年にアメリカのボルチモアにあるジョンズ・ホプキンス大学病院へ6週間の研究旅行に出かけます。当時のアメリカは研究に開放的で、多くの卵子を提供してもらえました。
以前は研究者たちがマウスのデータを参考にし、卵子を12時間培養してから精子をかけていました。しかしボブは、卵子を時間ごとに固定して染色し観察することで、人の場合は約37時間かかると初めて突き止めます。
とはいえ、これはアメリカでの研究旅行での成果でした。イギリスに戻ると、やはり卵子が手に入らないという壁に突き当たってしまいます。
外科医パトリック・ステプトーの人生
最後に、外科医パトリック・ステプトーを紹介します。1913年6月19日生まれ、8人兄弟の末っ子で、3人のチームの中では一番年上です。
子供の頃からオルガンやピアノの演奏が好きで、地元の教会でよくオルガンを弾いていたという、芸術家肌な一面もありました。
1939年、26歳でロンドンの病院での医学教育を終え医師免許を取得しますが、ちょうどこのときドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発します。
新米医師だった彼はイギリス海軍予備員に志願し、軍医として地中海に配属されます。1941年、乗っていた駆逐艦HMSヒワードが急降下爆撃を受けて撃沈されます。
ステプトーは救命ボートに乗り移り助かりますが、乗員の約半数が命を落としました。誰をボートに乗せ、誰を海に残すかという過酷な決断を迫られ、後に息子に非常に辛かったと語っています。
その後、敵国イタリア海軍に救助され、約2年間捕虜となります。捕虜の間も限られた道具で仲間の兵士を治療していたそうです。
1943年に捕虜交換でイギリスに帰還し、1946年に海軍を退役します。ロンドンのセント・ジョージ病院で産婦人科医として研修を受け、不妊治療に興味を持ち始めます。
1951年にはオールダム総合病院に移り、家族計画クリニックを設立し、精子のドナーバンクの設立にも取り組みました。
このオールダムで、ステプトーは腹腔鏡検査という新しい外科技術を導入します。最初は婦人病の診察に使い、後に外科手術にも用いるようになりました。
当時はお腹を大きく切るのが普通だったため、小さな傷で手術できることに「そんなのできるわけがない」と医者からのやっかみが多かったそうです。
そんなちっちゃい穴で道具を差し込んだら、他の狙ってない組織を傷つける可能性があるんだから、お腹を思い切り切り開いて手術をした方が安全だ、と論戦してるシーンがあったね。
映画でも、腹腔鏡を批判する側に会場の多くが拍手する場面が描かれています。しかし今では、切る部位が少ない方がよいというのが定説になっていると語られます。
今となっては切る部位が少ない方がよほどいいというのが定説になってるかな。
1967年には、このテーマに関する英語で書かれた最初の本もステプトーが執筆しています。この腹腔鏡技術が、後にボブたちの不妊治療に大きく役立っていくことになります。
まとめ
今回は、自分たちの不妊治療体験の振り返りと、体外受精を生んだ3人の若き日をたどりました。厳しい戦後のイギリス社会や宗教的な障壁の中で、看護師ジーン、科学者ボブ、外科医ステプトーがそれぞれ歩んできた道が語られました。次回は、この3人がどう出会うのかから話が進みます。
- 不妊治療は出口や期間を先に決めておくことが、気持ちの支えになると話されている
- 受精現象は1875年にウニの卵で、哺乳類では1943年にウサギで観察が進んだ
- ボブはマウスの研究から「人でもできるはず」と確信し、卵子を手に入れる困難と闘った
- 人の卵子は取り出してから約37時間で受精可能になることを突き止めた
- ステプトーの腹腔鏡技術は当時批判されたが、後の不妊治療に大きく役立っていく
