3人が出会い、チームが結成されるまで
前回は、看護師で実験助手のジーン・パーディ、生殖医療の研究者のボブことロバート・G・エドワーズ、腹腔鏡の第一人者で産婦人科医のステプトー先生、それぞれの経歴が紹介されました。
今回は、この3人が出会い、チームとして体外受精に挑んでいく話が始まります。
1968年、主に研究を担当するボブは、ヒトの卵子の成熟のタイミングを突き止めつつありました。次の段階として、実際にヒトの卵子と精子で受精と培養を進めるため、腕のいい実験助手を探していたそうです。
求めるレベルは高く、顕微鏡下で繊細な操作ができ、なおかつ不妊の女性から卵子を提供してもらうため患者さんのケアもできる人物が必要でした。
なかなかいないですね。
さらに当時のイギリスは、まだキリスト教の影響が強い社会でした。命を作る研究は「人が人を創る、神への挑戦だ」と冷ややかに見られていたところもあり、一緒にやってくれる人材の確保は大変だったといいます。
そんな中、当時23歳のジーン・パーディが応募してきます。地元のケンブリッジ病院で看護師として働いていた彼女は、生命のメカニズムそのものを解明したいという強い知的好奇心を抱えていたそうです。
彼女の知性と、状況を即座に把握する能力に圧倒された。
ボブは面接をこう振り返っています。不妊という苦しみを解決したいという目的も完全に一致し、採用直後から彼女を単なる部下ではなく対等な共同研究者として扱い始めたそうです。
そこにもう一人加わるのがステプトー先生です。ボブは、お腹を切らずに卵子を取り出せる高度な技術を持つ外科医が必要だと考え、腹腔鏡で手術をしていたステプトー先生に目をつけます。
ステプトー先生は共同研究に乗り気で、不妊症に悩む患者さんも多く知っていました。患者さんから取り出した卵子を実験材料としてボブとジーンに渡せるだろう、という形で3人のチーム研究がスタートします。
腹腔鏡はなぜ産婦人科で発達したのか
ここでとみーが、腹腔鏡について興味を持ちます。今ではメジャーな技術ですが、その第一人者が産婦人科医だったことを面白がります。
映画「ジョイ」の中では、腹腔鏡自体はドイツで開発されたとステプトー先生が語るシーンがあったそうです。イギリスでは彼が第一人者だったと考えられます。
当時は光ファイバーがないため、小さな穴から真っ暗な体内を覗くのは困難でした。ステプトー先生は鏡の反射で光を届けて見ていたと語られており、直線的にしか見えなかったと考えられます。
鏡の反射を使って光を届けて見るんだ、と語っていました。直線的にしか見られなかったにしろ、ちょっとだけ切って中を見られるのは、すごく画期的だったと思います。
これに対してとみーは、あくまで想像だと前置きしつつ、ある推測を語ります。
直線的にしか見られないからこそ、卵巣とか子宮って結構下の方で、骨盤に近いから、短い距離で当時の腹腔鏡の技術が生かしやすいのが産婦人科だったのかもしれない。
あきも「場所は確かにそうかもしれない」と応じます。腹腔鏡の歴史までは調べていないと断りつつ、この推測はあくまで2人の会話上の想像です。
1969年2月14日、世界初のヒト受精卵作成
3人が出会って数ヶ月、1969年2月14日、バレンタインデーに世界で初めてヒトの受精卵の作成に成功します。この成果は科学雑誌ネイチャーに論文として発表されました。
この成功の鍵は、エドワーズの研究室の大学院生バリー・バビスターが、ハムスターの受精を成功させるために開発した「バビスター液」という培養液にありました。
ボブは1960年代初頭からヒトの体外受精を試みていましたが、マウスで成功した方法がヒトにも通用するはずだという思い込みがあったそうです。しかし、ヒトの卵子に精子を振りかけても、精子は卵子の周りを泳ぐだけで向かっていきませんでした。
精子の「やる気」を解く鍵、受精能獲得
この問題の背景には、先行研究がありました。まず1951年、アメリカで研究していたMC・チャンが、ウサギで面白い実験をします。
排卵直後のメスウサギの卵管に、精液から取り出したばかりの新鮮な精子を注入する実験と、数時間前に別のメスウサギの卵管に入れておいた「滞在済み」の精子を注入する実験を比較しました。
結果、滞在済みの精子はすぐに受精が起こる一方、新鮮な精子は受精まで数時間のタイムラグがありました。ここから、精子はメスの生殖器の中で一定時間過ごさないと受精できないのではないか、という結論が導かれます。
もう一人、オーストラリアのオースティンもラットで受精過程を顕微鏡で詳細に観察します。精子が卵子の周りに到達してから中に突き進むまで、必ず数時間の待機時間があることに気づきました。
オースティンは1952年の論文で、精子が受精能力を得るプロセスに「キャパシテーション(受精能獲得)」と名づけます。
今ではメカニズムが分かっています。精子の頭部は精液のタンパク質の膜でガードされ、最初から暴れすぎてエネルギーを使い果たさないようストッパーの役割をしています。
この膜がメスの体内で剥がれ落ちると、精子のしっぽが激しく動くハイパーアクチベーションが起き、卵子の厚い殻を突き破るパワーを得ます。
ボブもこれらの実験を知っていたので、ヒトの精子でキャパシテーションを起こす必要があることは分かっていました。ただ、どうすればいいのかが分かっていませんでした。
ウサギの実験のように、他の女性の膣内に精子を入れて回収するのは、人道的に難しいことでした。
AのウサギにいれといたものをBのウサギに移すみたいなことが、人ではちょっとさすがにできない、という話ですね。
しかもウサギの実験は解剖して行っていたため、女性を手術するのはリスキーです。ボブはプラスチックのケースに精子を閉じ込めて膣内に置いてもらうなど試みましたが、うまくいきませんでした。
バビスター液が精子を活性化させる
転機はバビスターの経験にありました。彼はボブの研究室に入る前、ハムスターの体外受精を研究しており、培養液のpHにあることに気づいていました。
pH7.5から7.6という弱アルカリ性にした培養液に精子を入れると、狂ったように激しく泳ぎ始め、卵子の殻を突き破る確率が劇的に上がることをハムスターで確認していました。
そこでバビスターは、このバビスター液にヒトの精子を泳がせてはどうかと提案します。すると顕微鏡下でハイパーアクチベーションが起こり、精子の尾部が強く動き、それまでとは明らかに違う攻撃的な泳ぎ方に変わりました。
ハムスターの精子で起きたことが、人の精子でも起きたと。
ヒトの精子も受精能を獲得したと考えられました。そして1969年2月14日、いよいよ受精実験が行われます。
ボブは長年の研究で、ヒトの卵子が体外で受精可能になるには培養開始から36〜37時間必要だと突き止めていました。これは3人が出会う前、ボブがアメリカまで行って見つけていた成果です。
こうして精子が卵子の透明帯を突き破り、精子と卵子の核が並ぶ様子が確認されました。ヒトの卵子をシャーレの上で受精させることに、世界で初めて成功したのです。
論文に名前が載らなかったジーン
ところが、この記念すべき論文にはジーンの名前がありません。著者として記されたのは、ボブ、ステプトー先生、そして培養液を作ったバビスターの3人でした。
当時のイギリス、そしておそらく世界的に、論文の著者は博士号を持つ研究者か医師であるべきだという厳しいヒエラルキーがあったといいます。
ジーンは看護師としてチームに加わり、肩書き上はテクニシャン、実験助手という立場でした。どれほど重要な実験を行っても、学位のないスタッフは謝辞に名前が出ることはあっても、連名著者になることはほとんどなかったそうです。
リーダーであるボブもこの慣習に縛られており、残念ながら彼女の名前は載せませんでした。
これはジーンに限った話ではありません。DNAの構造解析をしたワトソンとクリックの陰にも、重要な役割を果たしたロザリンド・フランクリンという女性がいましたが、科学界の中で意図的に無視されていました。
縁の下の力持ち的にやっていただいたのに、名前が残っていないという方は、世の中結構いるんじゃないかなと思います。ちょっと悲しい科学史の一面なのかなと。
翌年、胚盤胞の作成に成功
翌1970年には、胚盤胞の作成にまで成功します。卵子は約5日間かけて体細胞分裂を繰り返し、100細胞ほどまで分裂して、真ん中が空洞になった胚盤胞と呼ばれる形になります。
母体内では、卵子は卵管の中を5日間かけて運ばれ、胚盤胞になった頃に子宮あたりに到着して着床し、妊娠が成立します。そのため、シャーレの中で胚盤胞まで育てられることは、子宮に戻すのにちょうどいい状態を作れるという点で非常に重要でした。
しかし1969年のバレンタインデーの成功では、受精はしても8分割ほどで卵子が死んでしまうことを繰り返していました。ボブは、より栄養が豊富な培地が必要ではないかと考え、栄養がリッチな培養液に切り替えます。
ここでとみーが、自分たちの経験を挟みます。とみーとあきは過去回で、顕微授精で不妊治療をしたことを話していました。
受精卵を作って胚盤胞まで行くのを、タイムラプスで観察するっていう医療をしたじゃない。
多分19個ぐらい受精して、胚盤胞まで行ったのは6個だったんだよ。8分割までは行ったけど、その後、細胞分裂の大きさが均等じゃなくなっちゃったりして。
今の医療で、温度管理もタイムラプスで箱の中で完結してるものでもそれぐらい難しいのに、それを60年ぐらい前にやってたのやべえって今思ってる。
すべて手動だった時代の人の頑張り
あきは、今は本当にいい時代になったと語ります。現在の培養器は子宮内環境を模し、温度もpHも管理され尽くし、栄養も豊富で、分割の様子まで動画で撮れます。
しかしこの時代は、それが一切ありませんでした。温度もpHも、すべて人がめちゃめちゃ頑張って管理していました。
超手動だもんね。
母体から取り出した卵子に少しでもダメージを与えたくない、光も当てたくない。そこで研究者は手を温め、シャーレを手で温めながら実験室まで運んでいたそうです。
取り出したぞとなると、シャーレに入れたやつを手で温めながら実験室まで。顕微鏡に乗せてみて戻すまでの間に、ダメージを受けないように、そういう努力もしていたそうです。
胚盤胞の成功には、いくつもの要因が重なりました。まず栄養リッチな培養液への切り替えに加え、ヒトの血清を培地に加えます。人間がまだ分かっていない必要な栄養分も供給しよう、という狙いです。
血清は思わぬ効果ももたらしました。当時使っていたプラスチックのシャーレはタンパク質を吸着しやすく、卵子が張り付いて物理的に傷つく問題がありました。
ヒトの血清を加えると、血清中の豊富なタンパク質がシャーレをコーティングし、卵子が吸着したり傷ついたりしにくくなったといわれています。
もう一つ重要だったのが、ステプトー先生が排卵直前の卵子を狙って回収すると決めたことです。お腹の中で育ちきったものを、彼の素晴らしい目で観察し、最適なタイミングで腹腔鏡手術で回収しました。
そしてジーンは、培養環境を保つため分単位で二酸化炭素濃度を調整しました。培養器にCO2を満たすと培地に溶け込んで酸性側に働き、アルカリに行き過ぎたpHを戻せるからです。
当時はpH計を培地に付けっぱなしにできません。そこで培地に入れたフェノールレッドの色を、基準となる色見本と見比べ、色が変わっていればCO2のバルブを開けて調整していたそうです。
ジーンはpHが0.1変わるたびにCO2濃度を調整したといわれています。
今の話を聞く限り、寝る時間がないんですけど。
もう全然寝てなかったみたいですね。2、3時間ごとぐらいにチェックしていたみたいです。
あきは、実験経験者としてこの精度に驚きます。0.1のずれでそんなに色が変わるだろうか、というのが率直な感想だといいます。
こうして1970年9月、胚盤胞の作成に成功し、ネイチャーに論文が発表されました。
まとめ
1968年に出会った3人のチームは、わずか数ヶ月で世界初のヒト受精卵を作り、翌年には胚盤胞の作成にも成功しました。その裏には、受精能獲得の解明、バビスター液、そして温度やpHをすべて手動で管理し続けた人の途方もない頑張りがありました。
- 3人が出会って数ヶ月の1969年2月14日、世界で初めてヒトの受精卵作成に成功した
- 成功の鍵は、精子に受精能を獲得させるpH7.6前後のバビスター液だった
- 翌1970年には栄養豊富な培地とヒト血清の追加などで胚盤胞の作成に成功した
- 温度管理もpH調整もすべて手動で、ジーンは0.1単位のpHを色見本と見比べて調整していた
- 重要な役割を果たしたジーンは、当時の慣習により論文の著者に名を連ねなかった
