細胞にタンパク質を作らせる「三つの山」
前回は、ウロキナーゼ受容体を細胞に作らせるためにメッセンジャーRNAを使ったという話でした。ここには大きく三つの山があったと説明されています。
一つ目は、ウロキナーゼの設計図を載せたメッセンジャーRNAを、そもそも合成できるようになったことです。
二つ目は、それを細胞に送り込めるかどうかです。細胞膜を越えなければならず、道中でRNAが崩れてしまうこともあります。
三つ目は、送り込まれたメッセンジャーRNAが、細胞の中でちゃんとタンパク質を作ってくれるかどうかです。
この三つの山をすべて越え、ついに細胞にメッセンジャーRNAでタンパク質を作らせることに成功しました。これがエリオットの研究室での最大のブレイクスルーだったと話されています。
もうざっと僕が考えるだけでこれぐらいあるので、もっと細かいところではいろんな小さなトラブルを乗り越えて、七年かけてようやくそこにたどり着いたということですね。
ただし、これはあくまでシャーレの上で飼っている細胞での成功です。体内に入れば、また別の動きになると補足されています。
弟子デイビッドの直談判と、脳血管攣縮への挑戦
エリオットは去りましたが、かつての弟子だったデイビッドが、今度はカリコを雇う立場として引き入れてくれました。師匠を弟子が雇うという逆転現象です。
デイビッドは脳神経関連の医師で、脳血管攣縮という現象に注目していました。動脈瘤や脳卒中の後に脳の血管が縮む、非常に危険な症状です。当時これに対抗する治療法はほとんどありませんでした。
唯一防げる方法として知られていたのが、一酸化窒素を使うことでした。一酸化窒素には血管を広げる効果があるため、縮んだ血管に届けば症状を緩和できると考えられました。
しかし一酸化窒素は簡単に壊れる不安定な物質で、体内に送り込んでも一瞬で壊れ、脳の患部まで届きません。
そこでデイビッドは、一酸化窒素を発生させるタンパク質をメッセンジャーRNAとして患部に送り込めば、命を救う治療になるのではと考えました。メッセンジャーRNAといえばカリコです。
デイビッドは所属の違う神経外科の学科長ユージン・フラムに、カリコを引き抜くよう直談判しました。入ったばかりの新入社員が、いきなり社長に会いに行くような無茶だったと語られています。
すごい。そもそもカタリン先生のもとで学んだデイビッドですもんね。
直談判は成功し、カリコは神経外科のフルタイム職員になれました。デイビッドのアイデアである、一酸化窒素を作り出す酵素アイノスのメッセンジャーRNAを作り、細胞内で一酸化窒素を発生させることに成功します。
シャーレから動物へ。インビボの壁
細胞での成功のあと、いよいよ動物実験ができないかという段階に進みます。ただ、まず攣縮を起こしてくれる動物を探さなければなりません。
デイビッドは、攣縮を起こすモデル動物を作っている研究者を見つけます。研究のためにわざと病気にされた動物です。
デイビッドはカリコとは正反対の性格で、とてもアグレッシブで人懐っこい人物でした。慎重なカリコに対し、彼はどんどん研究者に連絡を取り、実験の幅を広げてくれたと話されています。
そうした動物にカリコの作ったメッセンジャーRNAを注射し、効果を確認していきました。しかし、細胞では効果が出ても、動物実験ではあまり効果が出ませんでした。
生体に変えると複雑な要素が起こり、シャーレの上とは違うことが起きます。試験管の中と生体内の違いは、本当に超えるのが大変だと語られています。
去っていく研究者と、カリコの弱い立場
生体では成果が出せないまま、2年が経ちました。そのタイミングでまた変化が訪れます。スーパールーキーだったデイビッドが職場を変えてしまったのです。
デイビッドは神経外科医を目指していましたが、ペンシルベニア大学は枠がなく脊髄外科医として採用されていました。そこへ、彼のボスであるユージン・フラムがニューヨークの新しい神経学研究所へ移ることになり、デイビッドも誘われて移籍します。
カリコは連れて行ってもらえず、置いていかれてしまいました。新しい学科長には、ワシントン大学から来たショーン・グレディが就任します。
カリコ自身の研究はなかなか評価されず、資金も集められないため、立場がどんどん弱くなっていました。技術を使いたいと引っ張ってくれる人はいても、そうした進歩的な人ほど優秀な場所へ誘われてしまい、カリコが取り残される展開が続きます。
コピー機の前で出会ったドリュー・ワイズマン
そんな中で、非常にいい出会いがありました。カリコは論文を読むため図書館の科学雑誌をコピーするのが日課で、大学のコピー機をほぼ独占して使っていました。
ところがある日から、カリコと同じくらいコピー機を使う人物が現れます。待ち時間にその人と話すことにしたところ、それがのちに一緒にノーベル賞を受賞するドリュー・ワイズマンでした。
奇跡の出会いはコピー機の前だったんですね。
ワイズマンは国立衛生研究所のファウチ博士の研究室で特別研究員をしており、医学博士号と医学士号の両方を持ち、専門は免疫学と微生物学でした。ペンシルベニア大学で独立した研究室を持てることになり移ってきたところでした。
彼の研究計画は壮大で、インフルエンザやヘルペス、HIV、マラリアといった感染症を予防する新しいワクチンの開発でした。当時はHIVのワクチンを作れないかを研究していました。
治療薬からワクチンへ。着想の転換
カリコは資金が取れないため、興味を持ってくれそうな人には片っ端から声をかけ、「メッセンジャーRNAはどうですか」と持ちかけていました。ドリューにも同じように話を持ちかけます。
それまでカリコはメッセンジャーRNAを治療薬として使うことばかり考えていて、ワクチンに使えるとは思っていませんでした。ドリューと出会って初めて、ワクチンに使えるかもしれないと気づいたと話されています。
ドリューの側も、ワクチン開発のために抗原を細胞に届ける方法を模索していました。いろいろな方法を試していましたが、メッセンジャーRNAはまだ試していませんでした。
ワクチンは、殺したウイルスなどの抗原をあらかじめ体に入れておき、本物が来たときにすぐ免疫が働くようにする仕組みです。ドリューはその抗原を細胞に届ける方法を探していました。
コピー機の前で話していた相手がメッセンジャーRNAを作れる人間だと知り、ドリューは共同研究をしようと持ちかけます。ペンシルベニア大学で3人目の共同研究者が現れました。
一気に進んでいくんだ。
カリコはRNAに詳しい一方で免疫学には疎く、ドリューはRNAを扱ったことがありませんでした。お互いの強みを活かせる良きパートナーになったと語られています。
樹状細胞への応用と、サイトカインストームという課題
ドリューのターゲットは樹状細胞でした。免疫応答の司令塔役で、肺や胃や腸など、外界と接する場所にたくさんいます。
体を一本の管と考えると、肺や胃や腸の内側は外の世界と接する「外側」といえます。そこには常に細菌やウイルス、花粉などの侵入者がいるため、免疫細胞が待ち構えています。
樹状細胞は侵入者を見つけると素早く殺してバラバラにし、その断片を自分の外側にまといます。これを抗原提示と呼び、いろいろな免疫細胞に見せて、その敵と戦えるものを探します。
戦える細胞が見つかると一気に分裂して増え、体中を巡って同じ侵入者を探してくれます。これが免疫応答の最初のステップです。
ドリューはカリコに、GAGというタンパク質を作るメッセンジャーRNAを作れるかと尋ねました。
カタリナはもちろん、私はどんなメッセンジャーRNAでも作れますよと答えます。
カリコは培養した樹状細胞にGAGタンパク質の設計図を載せたメッセンジャーRNAを振りかけました。樹状細胞はGAGタンパク質を作り出し、免疫も活性化しました。一見うまくいき始めたのです。
ところが生体内では想定を超えるサイトカインが分泌され、細胞が過剰に活性化してしまいました。加えたメッセンジャーRNAが炎症を引き起こしている状態です。
これは、コロナウイルスワクチンの際に報じられたサイトカインストームと同じ現象が、細胞レベルで起きたものです。免疫が暴走すると自分の細胞まで攻撃し、臓器不全で死に至ることもあります。
防ぐことはできても、次の大きな課題が見つかった、という形でこの回は締めくくられます。話すことでアイデアが生まれる大切さも語られました。
やっぱり人に話すって大事だなと思いますね。話していることによってアイデアがいっぱい湧いてくるので。
まとめ
細胞にタンパク質を作らせる三つの山を越え、mRNAは治療への道を歩み始めました。去っていく研究者に翻弄されながらも、コピー機前でのドリュー・ワイズマンとの出会いが、mRNAをワクチンへ応用する着想を開きます。ただし過剰な免疫反応という新たな課題も見えてきました。
- mRNAで細胞にタンパク質を作らせるには、合成・送り込み・翻訳の三つの山があった
- 弟子デイビッドの直談判でカリコは職を得たが、細胞で効いても動物では効かないインビボの壁に直面した
- コピー機を独占するライバル同士だったカリコとワイズマンの出会いが、共同研究の始まりとなった
- 治療薬としてしか考えていなかったmRNAを、ワイズマンとの出会いでワクチンへ応用する発想が生まれた
- 樹状細胞への応用は成功しかけたが、サイトカインストームという新たな課題が見つかった
