2020年1月、mRNAワクチンへの即断
物語はカタリン・カリコ先生がビオンテックで働き始めて6年が経った、2020年の1月から始まります。
この年のことは、多くの人の記憶に残っているはずです。少し遠い記憶になりつつあるかもしれませんが、新型コロナウイルスが世界を襲った年でした。
ビオンテックのCEOであるウールさんが、医学雑誌ランセットである記事を読んだそうです。新しい呼吸器系のウイルスが、中国の武漢で蔓延しているという内容でした。
これを止めるには、メッセンジャーRNAワクチンが最適というか、これしかないでしょうということですね。
なぜmRNAワクチンが最適だと考えたのか。それは従来型のワクチンの製造方法と比べるとよくわかります。
従来型ワクチンとの違い
従来型のワクチンは、まずウイルスを不活化して体内に打ち込み、免疫細胞に「このウイルスが来たら攻撃しなさい」と教え込む仕組みです。
そのため、不活化したコロナウイルスが大量に必要になります。
例えばインフルエンザワクチンの場合、鳥の卵にウイルスを打ち込み、卵の中で増やして、それを塩素などで処理して不活化します。工場には大量の卵が並び、翌年に流行する型を予測して一年かけて作り続けます。
一方、コロナウイルスは肺や喉の上皮細胞にしか感染しないとされていました。そうなると上皮細胞を大量に培養してウイルスを増やす必要があり、卵以上に準備が大変になります。
だからこそ、ウールさんとCMOのエズレムさんは、mRNAワクチンが最適だとすぐに思い至ったのです。
ウイルスを大量に培養し、不活化する必要がある。卵や上皮細胞など準備に手間がかかる
遺伝子配列がわかればスパイクタンパク質を体内で作らせられ、大量培養が不要
口頭の約束で全速力で走り始める
2人はすぐに決断しました。ビオンテック社のすべてのリソースを注いで、SARS-CoV-2のmRNAワクチンを開発することを、この1月の時点で決めたのです。
もうこの1月の時点で決めたってことなんだ。
すべての研究を止めて、これをやるぞという体制に切り替えました。
ビオンテックはファイザーから資本を出してもらっている関係でした。そこで早速、ワクチン開発で提携しようと口頭で約束を取り付けます。
海外の会社では、契約書にない口頭の約束はないことにされるのがよくあることです。それにもかかわらず、詳細を詰める契約書をまとめる前に、両者は全速力で走り始めました。
それだけもう急いでたってことですよね。
トップ同士が即座に動いたスピード感を、あきさんは印象的に語っています。
SARS-CoV-2の遺伝子配列も、2020年1月の時点で中国のウイルス学者、張永振さん{要確認: 張永振}によってすでに発表されていました。約3万塩基対の長さで、その中に29種類のタンパク質を作る遺伝子があることも解析済みだったそうです。
スパイクタンパク質をターゲットに
ワクチン開発では、29種類のうちスパイクタンパク質にターゲットが絞られました。
スパイクタンパク質は、ニュースでも散々耳にした言葉です。ウイルスの表面に出ている、子供が描く太陽の絵やウニのトゲのような部分を指します。
このトゲが人の細胞表面にあるACE2受容体と結合すると、細胞がウイルスを必要なものと勘違いして取り込んでしまいます。閉じていた門のゲートが、鍵にぴったりはまることで開いてしまうようなイメージです。
そこで、このスパイクタンパク質を体内で作らせるためのmRNAを作ろうと、ターゲットが定められました。
遠隔指揮と、娘の結婚式での予感
カタリン先生は毎年、夫のベーラさんの誕生日にはアメリカに帰っていました。2020年、ベーラさん60歳の誕生日にもアメリカに帰っていたそうです。
これが家族にとって幸運でした。帰った直後にアメリカが入国制限をしたため、滑り込みで入国できた一方、ドイツのビオンテックには戻れなくなってしまいました。
そこから10か月間、カタリン先生はチームのメンバーに遠隔で指示を出すことになります。
新しい製造機械や巨大な冷蔵設備など、次々と課題が出てきました。しかし、どんなに費用や手間がかかることでも、ファイザー社の返事は必ず「了解、すぐにやりましょう」だったそうです。
幸せな出来事もありました。娘のスーザンさんと恋人のダイアンさんが2020年7月に婚約し、結婚式は10月に決まったのです。
ただ、カタリン先生は人類の危機に立ち向かう科学者として奮闘の最中でした。打ち合わせの電話にもいつも上の空で、コロナのことばかり考えて論文を読み漁っていたそうです。
10月の結婚式で、10か月ぶりに娘さんと会いました。そのとき、ふとビビッと来て娘さんに尋ねたそうです。
予定日はいつなの?
まだ体型も変わらないような時期だったそうですが、母親の勘で妊娠を察したのかもしれません。
乾杯の挨拶で、ベーラさんは「ワクチンについて質問がある方は今夜カタリンがお答えします」と、少し飛んだ挨拶をしたそうです。つかの間の、とても幸せな結婚式でした。
95%の有効性という驚くべき結果
2020年1月に走り始め、10月の結婚式から28日後、11月ごろにはすでにワクチンの臨床試験が始まり、その結果が返ってきました。
試験は世界135の地域の4万人以上を対象に行われました。ワクチンを打つグループと、生理食塩水を打つプラセボのグループに分け、誰がどちらを打ったかわからないブラインド方式です。
発熱や喉の痛みが出た被験者には病院に来てもらい、コロナにかかったかどうかを判定しました。
2020年11月8日の夜、CEOのウールさんから電話がありました。結果は、驚くべきことに95%の有効性が確認できたというものでした。
早いですよね。しかも年内って。
タンパク系のワクチンなら60%効けばいい方だそうですが、95%はほぼ確実に効果があるという水準です。
カタリン先生は夫に有効性を伝え、大好きなグーパーズというお菓子の特大サイズを開けて、シャンパンを開けるように全部平らげたそうです。
今日はもうこれ食べちゃうわよ
ワクチンの誕生と、報われた瞬間
結果はもちろんニュースになり、それからは取材の嵐が吹き荒れる怒涛の日々でした。カタリン先生自身、一体何が起こっているのかと戸惑うほどの反響だったそうです。
やがてワクチンはどんどん発展し、私たち自身も接種できるようになりました。最終的にコロナ禍は収束を迎えます。
カタリン先生の長い努力の末、コロナウイルスのmRNAワクチンにたどり着き、世界を平和にしてくれたのです。
クリスマスの直前、ペンシルベニア大学のコピー機の前で20年前に偶然出会ったドリューさんと一緒に、供給されたワクチンを受けたそうです。
医療従事者が2メートル間隔で並ぶ中、同僚の一人が「ワクチンの発見者たちが来た」と叫び、周りは歓声に包まれました。カタリン先生は涙で視界が滲んだそうです。
これは、だってもうここまで来るの長かっただろうし。
その後は世界各地で数々の賞を受賞し、講演で世界中を回りました。日本にも訪れ、天皇陛下、皇后陛下とも面会されています。
そのアテンドには常に娘のスーザンさんが付き添いました。かつては金メダリストのスーザンさんの母だったカタリン先生が、逆に「有名な科学者カタリン・カリコの娘」と言われるようになったのです。
そして2023年、ドリューさんとともにノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
いつ報われるんだろうって思いながら、ずっと。
mRNAが開く未来と参考文献
番組では参考文献も2冊紹介されました。ひとつは、ジャーナリストの増田ユリヤさんが書いた、ポプラ新書『世界を救う mRNAワクチンの開発者 カタリン・カリコ』です。
もう1冊は、本人が書いた自伝『ブレイクスルー』です。笹山裕子さん{要確認: 笹山裕子}訳、河出書房新社から出ています。
そのブレイクスルーの核心が、シュードウリジン(修飾ウリジン)の発見でした。通常のウラシルの代わりに修飾したウラシルを使うことで、mRNAが安定し、サイトカインストームを起こさないことを見つけたのです。
とみーさんは、カリコ先生にとってはコロナのワクチンよりも、このシュードウリジンの発見こそが自分の中で一番大きいのではないかと語ります。
型が出てしまったっていうところが、やっぱりカタリン先生にとっては一番の大きな発見であり
この技術の応用範囲は広く、mRNAはがんの治療にも使われようとしています。実際、その研究は今も継続されているそうです。
一般的な風邪もコロナウイルスで起きることが多く、すべての型を入れ込んだmRNAワクチンも作られているという話があります。インフルエンザもどの型でも対応でき、将来的には風邪を撲滅できるワクチンも作れるかもしれません。
がんについては、免疫細胞にがん細胞の部品を教え込むことができれば治せる可能性があります。あきさんは、京都大学の本庶先生が開発したオプジーボの例にも触れ、がんの型に応じたmRNA治療薬が今後出てくる可能性があると考えています。
スパイクをターゲットに
ウイルスの表面にあるスパイクタンパク質の配列を選ぶ
mRNAで指示
そのタンパク質を作るmRNAを体内に届ける
体内で生成
細胞がスパイクタンパク質を作り出す
免疫が記憶
免疫細胞が「このウイルスを攻撃せよ」と覚える
諦めなかった科学者を振り返って
最後に、あきさんは物語全体を振り返ります。
捨てる神あれば拾う神ありじゃないですけれども、常に苦しい立場になっても、それを引き上げてくれる人っていうのがいた
カタリン先生自身が諦めなかったこと、そして「あなたの研究は使えそうだ」と引き上げてくれる人がいたことが、最終的に人類を救う技術につながったといいます。
同じ技術に取り組みながら、そこまで行けずに埋もれていった人もいるだろう。だからこそ、本人も周りも報われて本当に良かった、とあきさんは話します。
なお次回は、新しいお札にも刷られている北里柴三郎{要確認: 北里柴三郎}を取り上げる予定だと予告されました。感染症が何よりも怖い病気だった時代に、数々のブレイクスルーで人類を救った人物として紹介されるそうです。
まとめ
長年報われなかったカタリン・カリコ先生の研究が、2020年のコロナ禍で一気に結実し、95%の有効性を持つmRNAワクチンとして世界を救うまでの物語でした。諦めなかった本人と、それを支えた人々が結びついた終幕です。
- ビオンテックは2020年1月、mRNAが最適だと即断し、ファイザーと口頭の約束で全速力で開発を始めた
- 従来型ワクチンはウイルスの大量培養が必要だが、mRNAは遺伝子配列がわかれば作れる点が強みだった
- 2020年11月、臨床試験で95%という驚くべき有効性が確認され、年内にワクチンが誕生した
- シュードウリジンの発見が核心のブレイクスルーであり、がんや他の感染症への応用も期待されている
- カリコ先生自身の粘り強さと、研究を引き上げてくれる人の存在が、人類を救う技術を生んだ
