タイタニック号の3人が語る、氷山の夜の選択
後編は、幼い男の子とその姉、黒い服を着た青年という3人が突然乗り込んでくる場面から始まります。3人は乗っていた船が氷山に衝突して沈没したと語ります。タイタニック号です。
沈没が迫るなか、親たちは自分の子供を救命ボートに乗せようと必死になります。青年も保護者として男の子と女の子を助けようとしますが、自分がいる場所とボートまでの間には大勢の人がいました。
青年は一度、その人たちを押しのけてでも2人を助けようと考えます。しかし目の前の人々を見ると、押しのけることがどうしてもできませんでした。
他の子供たちを押しのけてこの2人を助けてあげるよりは、このまま自分と男の子と女の子で神様の前に行く方が、目の前にいる人たちの幸福なんじゃないか
神様に背く罪、つまり自ら死んでいくことは青年1人で背負い、2人を助けた方がいいのか。青年は揺れながらも、結局は子供2人と死ぬ覚悟を決めます。
船が沈む直前、誰かが投げたライフブイが飛んできましたが、滑って向こうへ行ってしまいます。「3人は渦に巻き込まれて沈み、はっと気づくと銀河鉄道に乗っていた」と青年は説明します。
青年の話を聞いたジョバンニは、北の海で命がけで働く人たちを思い浮かべます。タイタニック号の犠牲者の痛みに共感し、父が働いているであろう北の海の人々の苦しさにも思いを重ねます。
灯台看守は「何が本当の幸福かは簡単にはわからないが、正しい道で経験する苦しみはすべて幸福へ続く一歩だ」と語ります。青年も、一番の幸いに至るための悲しみはみな神の思し召しだと静かに応じます。
渡り鳥の信号手と、賢治が歌った「星めぐりの歌」
しばらく行くと、渡り鳥のために赤い旗と青い旗で信号を送る男が見えます。旗を上げ下げして、鳥の群れをオーケストラの指揮のように統制しています。
その様子の傍らで、カムパネルラとタイタニック号の女の子が親しく話しています。それを見たジョバンニは、涙が出そうなほど悲しい気持ちになります。
どうして僕はこんなに悲しいのだろう。本当にどこまでも僕と一緒に行く人はいないだろうか
新世界交響楽がかすかに聞こえるなか、ジョバンニは両手で顔を隠して窓の外を見つめます。カムパネルラは寂しそうに星めぐりの歌を口笛で吹きます。
『銀河鉄道の夜』では星めぐりの歌の歌詞は書かれていません。しかし賢治の別の童話「双子の星」には、その歌詞が登場します。
「双子の星」に出てくる星めぐりの歌は、赤い目玉のサソリ、青い目玉の子犬、オリオン、アンドロメダ、大熊、小熊など、まさに銀河そのものを歌ったものです。カムパネルラが口ずさんでいたのもこの歌だろうと考えられます。
汽車は広大なトウモロコシ畑を過ぎ、暗い野原へ出ます。ジョバンニはここをコロラドの高原ではないかと思い、新世界交響楽が響くなか、インディアンが鶴を射止める光景を目にします。
天の川に橋を架ける――架橋演習と双子の星のお宮
次に川が見え、川岸に星とつるはしの描かれた旗や鉄の船が現れます。作品ではこれを工兵の架橋演習、つまり兵隊が橋を架ける練習をしている場面として描いています。
川向こうで爆発が起こり、水柱とともに鮭やマスが跳ね上がります。旅の楽しさに心が弾み、ジョバンニもカムパネルラも一時、孤独を忘れます。
タイタニック号の男の子が、水晶でできた小さな2つのお宮を見つけ、双子のお星様のお宮だと言います。姉弟は母から聞いた双子の星の物語を思い出しながら語り合います。
なぜここで双子の星のお宮と架橋演習が並ぶのか。ある本の指摘として、賢治の作品にはチュンセとポーセという名がくり返し登場することが挙げられます。
『双子の星』ではチュンセもポーセも男の子ですが、『手紙4』ではお兄ちゃんと妹として出てきます。この2つと、天の川に橋を架ける演習を組み合わせた読み方があります。
その解釈では、賢治は天の川の東の岸に『手紙4』のポーセ(=とし子)を、西の岸に双子の星のポーセ(=保阪)を住まわせ、両岸に架けた橋を渡って好きな時に会いに行ける世界を想像していたのではないか、とされます。ロマンチックな読み方の一例として紹介されました。
サソリの火――自己犠牲という賢治のテーマ
銀河を進むと、川向こうが真っ赤な炎に照らされ、ルビーのように赤く輝く火が見えます。カムパネルラはそれを「サソリの火だ」と言います。
タイタニック号の女の子が、父から聞いたサソリの火の伝説を語ります。サソリは小さな虫を殺して食べて生きていましたが、それは生きるためのごく普通のことでした。
ある時サソリはイタチに追われ、必死に逃げるうちに井戸へ落ちてしまいます。そこでサソリは、自分が食べてきた虫たちの気持ちにようやく気づき、後悔します。
サソリが「自分は死んでもいいので、森のみんなの幸いのために私の体を使ってください」と祈ると、サソリの体は真っ赤な美しい火となって燃え、夜の闇を照らしました。これは自己犠牲の物語であり、『グスコーブドリの伝記』や『雨ニモマケズ』に通じる、自分の命を犠牲にして誰かを救うという賢治のテーマがここに込められています。
サソリの火の話自体はおそらく賢治の創作ですが、参考にしたと見られる話があります。『仏説譬喩経』の「黒白二鼠の譬え」です。
天上か、この世か――サウザンクロス駅の神様論争
サンタウルの村を過ぎると、もうすぐサウザンクロス駅、つまり南十字駅です。降りる準備をするよう青年が言うと、男の子はもっと汽車に乗っていたいと駄々をこねます。
ジョバンニも別れたくなくて、どこまでも行ける切符を持っているから一緒に行こうと誘います。しかし女の子は、自分たちはここで降りて天上へ行かなければならない、母も神様もそこで待っている、と答えます。
天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ここで天上よりもっといい場所を作ればいいじゃないか
この「天上よりもっといい場所を作る」という発想は、賢治が信仰した日蓮の考えに重なります。念仏で極楽浄土へ行くのではなく、この世に浄土を作ろうという立場です。
さらにジョバンニは、女の子や青年が信仰するキリスト教の神を「嘘の神様だ」と言い、女の子も言い返します。ここから神様をめぐる論争が始まります。
僕、本当はよくは知りません。けれども、そんなんでなしに本当のたった一人の神様なんです
青年は、キリスト教も一神教だから本当の神様はたった1人だと応じます。しかしジョバンニは、そういうことではなく「たった一人の本当の本当の神様」だと言い、2人の話はかみ合いません。
なぜタイタニック号の青年を描いたのか
青年は、いつかその本当の神様の前で会えることを祈ると言って両手を組み、女の子もそれを真似て祈ります。ある考察では、賢治がタイタニック号の話を入れたのは、この神様をめぐる論争を描きたかったからではないか、とされています。
その背景には、他人を救うために命を犠牲にした人はどうやって救われるのか、という問いがあります。そして青年の犠牲は、実は賢治が理想とする自己犠牲の形ではないと読めます。
青年の回想では、亡くなる直前の海の冷たさや溺れる苦しさが一切語られません。「渦に巻き込まれたら、いつの間にかここに来ていた」と、最も苦しいはずの場面があっさり終わります。
一方ジョバンニは、氷山の流れる北の海で小さな船に乗り、凍てつく海の寒さと戦って働く人の姿を、具体的に思い描きます。この対比が、青年の犠牲の性質を浮かび上がらせます。
(青年は)男の子と女の子を道連れにして死に追いやっているじゃないか。もし本当に正しい自己犠牲なら、2人だけをボートに乗せて自分は席を譲るか、飛んできたブイを必死に捕まえて子供に渡したはずだ。
青年はそれをしませんでした。
では「本当の本当の神様」とは何か。答えが出ないため、今野勉さんの本の考察が引かれます。
今野さんは、生きている人と死んでいく人の本当の苦しみや悲しみに寄り添ってくれる存在こそが「本当の本当の神様」であり、自己犠牲をした人がどう救われるかを教えてくれるのがその神様なのではないか、と述べています。
この論争のあと、川下に青い光で輝く巨大な十字架が現れます。乗客たちは立ち上がってハレルヤと祈り、天から澄んだラッパの音が聞こえるなか、電車はゆっくり止まります。青年と姉弟は涙をこらえて別れを告げます。
「本当の幸いって何だろう」――カムパネルラとの最後の会話
乗客が降りて、車内にはジョバンニとカムパネルラだけになります。ここで再び本当の幸いをめぐる会話が交わされます。
カムパネルラ、また僕たち2人きりになったね。どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのサソリのように、みんなの幸いのためならば、僕の体なんか百遍焼いても構わない
カムパネルラも「僕だってそう思うよ」と綺麗な涙を浮かべます。そこでジョバンニが「でも本当の幸いって一体何だろう」と問うと、カムパネルラは「僕わからない」とぼんやり答えます。
カムパネルラは天の川に開いた真っ黒な穴を指さし、「石炭袋だ」と言います。ジョバンニも怖く感じますが、みんなの本当の幸いを探しに、どこまでも一緒に進もうと言います。
その時カムパネルラは遠くの美しい野原を見つめ、「あれが本当の天上だ、あそこにお母さんがいる」と叫びます。しかしジョバンニには、白く霞んだ景色しか見えません。
もう一度「一緒に行こうね」と言って振り返ると、カムパネルラの姿は消えていました。席には黒い上着だけが残され、ジョバンニは窓から身を乗り出して喉いっぱいに泣き出します。
目を覚ましたジョバンニと、カムパネルラの死
ジョバンニが目を覚ますと、そこはもといた丘の草むらでした。天の川が広がり、さそり座の赤い星が煌めいています。急いで牛乳を受け取り、母のもとへ届けようと街を歩きます。
街の橋の近くには人だかりができ、祭りとは違う雰囲気で騒いでいます。近づくと「子供が川へ落ちたぞ」という声が聞こえてきました。
川岸ではランプを持った大人たちが探し、警察も来ています。知り合いの友達が、何が起きたのかをジョバンニに教えます。
カムパネルラがすぐ飛び込んで、ザネリを船の方に押して助けてあげたんだ。でも助けに行ったカムパネルラがどこにもいないんだ
現場にはカムパネルラの父も立ち、静かに川を見つめています。ジョバンニの目には、川下の銀河が水のない空のように、まるで天の川のように映りました。
カムパネルラの父は「もう落ちてから45分経ちましたから」と言い、捜索を打ち切ります。ジョバンニは、さっきまで一緒にいたと言おうとしますが、喉が詰まって何も言えません。
父はジョバンニに気づいて礼を述べ、ジョバンニの父が帰ってきているかを尋ねます。ジョバンニは、「一昨日元気だという便りがあったから、そのうち帰ってくる」と思うと答えます。
最後に父は、明日放課後にみんなで家へ遊びに来てほしいと優しく声をかけます。ジョバンニは胸がいっぱいのまま、父の帰りを母に知らせようと、一目散に街へ走りました。こうして『銀河鉄道の夜』は終わります。
ザネリを救う意味と、賢治の人生が重なる読み方
『銀河鉄道の夜』は、亡くなった人が乗る電車であり、そこにザネリを助けたカムパネルラも乗っていたと読めます。タイタニック号の三人とカムパネルラは、命を犠牲にして人を助けた存在として描かれます。
違いは、青年は多くの子供を助けた一方で男の子と女の子を道連れにした点にあります。それに対しカムパネルラは、ザネリを助けて自らの命を失う、賢治が理想とする自己犠牲を体現しています。
ザネリは意地悪な子として描かれるため、なぜカムパネルラがそんな相手を助けるのか、と感じる読者もいます。しかし前編で触れたように、ザネリはジョバンニが変形した苗字で、賢治の分身ではないかと読めます。
カムパネルラが保阪だとしたら、「ザネリがカムパネルラに救われた=賢治が保阪に救われた」という読み取り方もできる。
1933年7月には、学生時代に同人誌アザリアを一緒に作った川本さんが、溺れかかった人を助けようとして水死しています。ただし、これは偶然だと考えられています。
川本さんが亡くなる前に書かれた原稿には、すでに「カムパネルラ、ザネリを救わんとして溺る」と記されています。そのため、川本さんの死に衝撃を受けてこの結末にしたわけではないだろう、と話されています。
浄土真宗の「往相と還相」から見る構造
もう一つの補足として、「宮沢賢治の詩の世界」というサイトから引用して、浄土真宗の考え方から作品を読む視点が紹介されます。往相と還相という二つの考え方です。
現世から浄土へ往き、往った人が現世の人々のために還ってくる。この構図が『銀河鉄道の夜』と同じ構造ではないか、という考察です。同じ構造を持つ作品として、もう一つの作品も挙げられています。
自分が望んで還るというより、阿弥陀如来のような超越的な力で還ってくること、そして自分のためではなく修行や衆生救済のために還ること。この二点が還相と似ているとされます。
つまり『銀河鉄道の夜』には、キリスト教的な要素や法華経的な要素だけでなく、賢治が幼少期から親しんだ浄土真宗的な考え方も含まれている、ということです。
四つの原稿が語る、指導者が消えていった過程
一番のテーマである「本当の幸いとは何か」を、作品の変遷から読み解きます。『銀河鉄道の夜』には大きく4つのフェーズがあり、長い推敲を経て形を変えてきました。
初期稿では前半の場面がなく、ケンタウル祭から始まり、最後にカムパネルラとの旅はブルカニロ博士という人物の思考実験だった、という終わり方でした。最終稿とはまったく違います。
第2稿・第3稿あたりでは、大きな黒い帽子をかぶった大人としてぼかされつつも、ジョバンニを教え導く仏様のような存在が出てきます。
最終稿では授業や活版所、家の場面が加わる一方で、思考実験の話やブルカニロ博士は消え、ジョバンニがカムパネルラの死を知る場面へ変わります。これは、教え導く指導者がいなくなった、あるいは要らなくなったという変化と読めます。
今野努さんの見解では、賢治は国柱会から距離を置き、誰にも頼らずひとりで法華経と向き合って生き、死んでいく心境に至ったのではないか、とされています。
カムパネルラの父は、ブルカニロ博士なのか
ここから、藤若さんの推測が語られます。最終稿でカムパネルラの父をジョバンニが「博士」と呼ぶ点に注目しています。この人物はブルカニロ博士ではないか、という見立てです。
その根拠として、息子が川に流されたのに、父の必死さがあまり感じられない点が挙げられます。「45分経ったので捜索を終わりにします」と、あっさり打ち切るのが不思議だというのです。
第3稿では、大きな黒い帽子の痩せた大人、おそらくブルカニロ博士が、ジョバンニに向かってカムパネルラを探しても無駄だと告げます。このきっぱり諦める感じが、最終稿の父と似ているといいます。
さらに第3稿では、目覚めた丘でブルカニロ博士がジョバンニに礼を述べ、いつでも相談に来ていいと語ります。この流れが、抽象化されつつ最終稿の父の台詞に重なる、と話されています。
カムパネルラのお父さんが一番初めに「どうもこんばんは、ありがとう」って言うのは、その「ありがとう」って何に対してと思って
この推測から言いたいのは、ブルカニロ博士の要素が完全に消えたわけではないのではないか、ということです。つまり、日蓮宗や国柱会から賢治が完全に離れたわけではないのでは、という読み方です。
「求道すでに道である」――本当の幸いの答え方
では、本当の幸いとは何か。作品では幸い・幸福・幸せという言葉が何度も出てきますが、その向かう先が徐々に変化していきます。
初めは「お母さんを幸せにする」「カムパネルラを幸せにする」でした。それが「みんなのために本当の本当の幸いを探す」へと広がり、最終稿ではサソリのように自分の体を百遍焼いても構わないという、普遍的な幸いへと変わります。自分や大切な人だけでなく、みんなの幸いを願う方向へ動いているのです。
『宮沢賢治の死の世界』の考察では、「手紙4」の最後で本当の幸いを探すことは法華経の信仰と実践だと明言されていた、と紹介されます。
一方『銀河鉄道の夜』では、カムパネルラは「僕わからない」と答え、本当の幸いが何かをぼかしています。この考察はそこに、大きな変化を見ています。
本当の幸いが具体的にこれだ、というそれよりも、本当の幸いを求めることこそが大切なんだ、というスタンスに変わったんじゃないか
これは『農民芸術概論綱要』の「われらは世界のまことの幸福を索ねよう。求道すでに道である」という言葉に重なります。「本当の幸いを求めて考え続け、行動し続けることそのものが大切なのだ」という賢治の考えが読み取れます。
キリスト教批判ではない――青年たちとジョバンニの違い
重要な注意点として、青年たちの描写はキリスト教批判ではない、という見方が示されます。女の子と男の子を死なせた点は問われていますが、それは自己犠牲ではないという文脈で出されたのであって、宗教の善し悪しを論じているわけではありません。
青年たちは、宗教的確信と厚い信仰心を持つ存在として描かれます。神のもとへ行けると確信しており、その確信はジョバンニにはありませんでした。
賢治の分身とも読めるジョバンニは、本当の幸福がわからないと言い、讃美歌や十字架に深く心を動かします。一方で青年たちは、本当の幸福がわからないとは言いません。確信があるからです。
本当の本当の幸いとは何かと悩み続けるジョバンニと、確信を持つ青年たちは、異なる存在として描かれている。だからこそこの場面はキリスト教の否定ではない、と話されています。
未完の完成――集大成としての『銀河鉄道の夜』
『銀河鉄道の夜』は宮沢賢治の集大成的な作品です。『手紙4』や『グスコーブドリの伝記』、『双子の星』など、これまでの作品のテーマや要素が数多く流れ込んでいます。
作品だけでなく、賢治が人生で向き合ってきた自己犠牲の実践や、自己犠牲をした人はどう救われるのかという問いも、この作品に詰め込まれています。
そして『銀河鉄道の夜』は、実は未完成の作品です。本には「この部分には原稿がありません」と記された箇所もあり、賢治が本当に作りたかった形を想像する楽しみが残されています。
宮沢賢治の最高傑作である『銀河鉄道の夜』が未完成の作品であるということこそが美しい
話し手はここで、『農民芸術概論綱要』の「永久の未完成これ完成である」という言葉を重ねます。『銀河鉄道の夜』もまた、未完の完成された作品だと結ばれます。
まとめ
『銀河鉄道の夜』後編は、タイタニック号の青年からカムパネルラの死まで、自己犠牲と「本当の幸い」という主題を軸に展開します。賢治は具体的な答えを示すのではなく、みんなの幸いを求めて考え続けること自体を大切にしていたと読み解かれました。
- タイタニック号の青年の犠牲は、子供2人を道連れにした点で、賢治が理想とする自己犠牲とは区別して描かれている
- サソリの火は、自分の体を森のみんなの幸いに捧げる自己犠牲の象徴として置かれている
- カムパネルラはザネリを救って命を落とし、賢治が理想とする自己犠牲を体現している
- 4つの原稿の変遷で指導者ブルカニロ博士が消え、誰にも頼らず幸いを問う姿へと変わった
- 「求道すでに道である」に通じ、本当の幸いを求め続けること自体が大切だと結ばれる




