外部LPを持たない異色のファンド、ミダスキャピタルとは
番組冒頭、川邊さんはまず吉村さんが現在どんな仕事をしているのかを尋ねます。吉村さんが率いるのは、ミダスキャピタルというグループです。
ミダスキャピタルは、見た目上はマジョリティー出資を行うプライベートエクイティファンドに見えますが、最大の特徴は外部のLPがいない点にあります。運用しているのは全額が自己資本です。
通常のファンドは外部から集めた資金で会社を取得し、数年で転売して投資家に資金を返す必要があります。しかしミダスは自己資本のみで運用するため、ファンドの期限が来ず、転売をしません。
マジョリティー取得して、あるいはゼロから創業して、全案件上場させて、上場以降も僕たちは売り切らずに、半永久的に対象会社の筆頭株主であり続ける。
吉村さんは、筆頭株主として保有する会社を「ミダス企業群」と呼びます。この企業群の時価総額の総計を、ビジネス上の一番のベンチマークにしています。
こだわりは2つあると吉村さんは話します。ミダスファンドのLPが内部メンバーだけであること、そしてミダスがそれぞれの会社の筆頭株主であり続けることです。
30億円で始めた企業群が、5,000億円規模に育つまで
現在、ミダス企業群と呼ばれる会社は17社あります。この企業群の時価総額の総計は、未上場企業の評価額も含めて約5,000億円にのぼります。
このうちミダスの持ち分は約2,000億円ほど。外部LPが入っていないため、実質的に自己資本のようになっているといいます。ただ、最初からこれほど厚かったわけではありません。
8年前にミダスを創業したときは、30億円で始めたと吉村さんは振り返ります。この資金の出どころは、以前経営していたエアトリの株式を市場で一部売却したものでした。
この30億円というのは、私が以前経営していたエアトリっていう会社をマーケットで一部売却した資金30億円で始めて、これが外部へのファンドレイジングなしに今約2,000億円ぐらいになっているという感じです。
17社のうち上場したのは3社です。リユースのバイセルテクノロジー、エンタメ系企業を買収していくジェンダ、デジタルマーケティングのAVICが該当します。
吉村さんは、今年から来年にかけて、ミダス企業群からさらに3〜4社のIPOを出せたらと語ります。
2050年に時価総額100兆円、1億人にポジティブな影響を
川邊さんが目標を尋ねると、吉村さんはビジネスサイドと社会貢献サイドの2つの軸を挙げます。
ビジネスサイドの目標は、2027年末までに1兆円、2035年までに10兆円、2050年までに100兆円まで企業群の時価総額を持っていくことです。
もう一つの軸が、ミダスキャピタルと同時に設立した公益財団法人「ミダス財団」です。国内外でさまざまな慈善活動を行っています。
財団の目標は、ビジネスと同じ時間軸に置かれています。2027年、2035年、2050年に、それぞれ1万人、100万人、1億人の人生に深いポジティブな影響を与えることです。
川邊さんはこの目標を無謀とは受け止めず、むしろそれ以上の成果が出るのではないかと期待を寄せます。孫正義さんが「男たるもの100兆円規模の企業を作らなきゃ」と語っていたことにも触れました。
チーズメーカーの長男に生まれ、偉人伝に夢中になった少年時代
ここから話は吉村さんの幼少期へと移ります。吉村さんは1982年、大阪で生まれました。実家はチーズの製造販売メーカーを経営する、裕福な家庭でした。
この会社は曽祖父が140年ほど前に創業し、父親が4代目の社長を務めています。売上は約400億円。父親が社長に就いたときはまだ売上30億円ほどで、40年ほどかけて大きくしてきた会社だといいます。
父親は同社の社長、母親はもともと松竹の女優で、結婚・子育てを経て今は父親とともに会社を経営しています。
そんな家庭に育った吉村少年が夢中になったのが読書でした。とくに偉人伝を読み続け、社会に影響力のある人になりたいと強く思っていたそうです。
読んだのはアレクサンドロス大王やナポレオン、イランの大統領、慈善活動家など。政治家や官僚など複数の選択肢を考えていたといいます。
そんな中で、中学生の頃に世の中で有名になった二人が、吉村さんの憧れを決定づけました。
一人がマイクロソフトのビルゲイツ、もう一人がグラミン銀行のムハマドユヌスさん。
この二人に憧れた吉村さんは、今の時代なら自分で会社を作って極大化することが、最も影響力を持てるのではないかと考えるようになりました。できればグラミン銀行のようなソーシャルビジネスをしたいと思っていたといいます。
なぜ「ビジネス」と「社会貢献」を分けることにしたのか
吉村さんは東京大学に進学します。大学1年時に自分で会社を作ってみて、あることを実感したと語ります。
それは、ビジネスの売上・利益を追求することと、社会の役に立つことという二軸を、同時に追いかけることの難しさでした。
顧客に選ばれている以上は社会に付加価値を出しているという考え方もある、と吉村さんは前置きします。ただ、ほとんどのビジネスは代替性が高く、なくなっても実際には誰も困らないのではないかとも感じたそうです。
そこで出した結論が、ビジネスは純粋に勝ち上がり、そこで出た収益の一部を純然たる社会貢献活動に流し込むという形でした。今もそれを実践していると話します。
ビジネス
売上・利益を純粋に追求して勝ち上がる
収益
事業で得た収益の一部を切り出す
社会貢献
ミダス財団を通じて純然たる慈善活動へ流し込む
世界一の金持ちになる──恵まれた自覚と、厳しい父の存在
子供の頃からソーシャルグッドな方向を志すのは珍しいのではないか、と川邊さんは問いかけます。吉村さんの答えは、恵まれているという自覚にありました。
子供時代から自分は非常に恵まれているという自覚が強く、だからこそ社会に最大限貢献していきたいという思いがあったと吉村さんは語ります。
自分の子供の頃の夢は、世界一のお金持ちになって、世界中で経済的なことで解決できる問題は全部解決していきたいっていうのが子供の時の夢で。
川邊さんは、「世界一のお金持ち」が社会貢献の中間地点に置かれている点を興味深いと受け止めます。子供が直接的に社会貢献をイメージするのはわかるが、まず世界一の金持ちを目指すという発想はどこから来たのかと尋ねました。
吉村さんは、偉人伝の影響に加えて、父親の存在を挙げます。父親はかなり厳しい人物だったといいます。
社長だった父親は会食で帰りが遅く、車の音が聞こえると、母親以下子供たちが玄関で三つ指をついて待っていなければならなかったそうです。80年代の話です。
風邪などで出迎えられないと、殴られることもあった、と吉村さんは振り返ります。その後リビングに戻っても、泣き声が小さく元気がないと、また叱られたといいます。
当時から理不尽だと感じていたものの、養われている身分ではそう言う権利がそもそもないと言われ、それはそうだと納得もした、と吉村さんは語ります。この経験が、まず自立して大きなお金を動かさなければ何もできない、という思いにつながっていきました。
父親から志を大きく持てや、事業家になれといった精神注入もあったのか
父親からは、むしろ吉村さんが会社を継ぐことが前提とされていたため、それ以上のことは特に求められていなかったといいます。長男である吉村さんの場合、志の面での影響は本からのものが大きかったと振り返ります。
家族からは世の中の厳しさを教わり、大志を抱くきっかけは自ら読んだ本にあった、と川邊さんが整理すると、吉村さんも同意します。
遊びも勉強も、東大からビル・ゲイツをなぞる進路選び
吉村さんは小学校まで公立で、中学から私立に進みました。進学したのは大阪で一番の進学校とされる大阪星光で、中学受験で入学します。
吉村さんが東大を目指した理由は明快でした。ビル・ゲイツがハーバードに入ってマイクロソフトを作ったことにあやかったものです。
ちょっと短絡的ですけど、自分は東大に入って自分で起業しよう。
中高時代は、バンドをやるなど、どちらかというと遊んでいたと吉村さんは語ります。大阪の梅田や難波といった繁華街で仲間とよく遊んでいたそうです。
組んでいたのはハイスタンダードのようなパンク・ロック系のバンドで、担当はドラムとキーボード。ピアノは幼い頃からずっと続けていました。
高校1年の途中から東大合格に向けて勉強し、合格します。大学に入ると、起業したい思いから先輩の会社で働かせてもらったり、友達を作るために10個ほどのサークルに出没したりしていたと語ります。
そのときの友達や後輩が、今のミダスにどんどん入ってきているといいます。10個のサークルはすべてで活動できたわけではなく、友達作りのために顔を出していたものでした。
20歳で起業、阪神タイガース缶コーヒーから旅行ビジネスへ
川邊さんは、大学入学時点で起業を決めていたことに驚きを示します。前々回のゲストである有線放送のUSEN宇野さんや川邊さん自身と比べても、その決意の早さは際立っていました。
吉村さんの大学入学は2000年か2001年。堀江貴文さんがライブドアで有名になった頃で、学生起業家も何人かいたといいます。ただ、多くは就職のタイミングで会社を辞めていきました。
吉村さんが起業したのは大学3年、20歳のとき。今のエアトリの前身となる会社でした。川邊さんも大学3年、20歳の11月に起業しており、経歴の近さに驚きます。
最初に手がけたのは、2003年、星野監督のもとで阪神タイガースがリーグ優勝しフィーバーに沸いた時期のビジネスでした。阪神タイガースとロイヤリティ契約を結び、球団ブランドの缶コーヒーなどを企画販売したのです。
学生の事業ゆえ、スーパーや問屋ではなく、パチンコチェーンの景品やホテルチェーンの冷蔵庫に入れてもらう形で、約60万本を売りました。
ただ、あまりにスポット的で在庫も抱えるため、吉村さんは在庫を持たず中長期で伸びるものを探します。そこで行き着いたのが旅行でした。
起業は吉村さん一人で始め、途中から後輩たちがアルバイトで加わりました。何があろうと20歳で起業すると決めていたといいます。
プライベートブランド展開とM&Aで積み上げたエアトリ
旅行ビジネスは国内航空券の販売から始まりました。当時、同じことをするサイトは50〜100個ほどあり、資金もブランドもない吉村さんには集客が難しい状況でした。
そこで吉村さんが選んだのは、すでに集客力を持つ企業のプライベートブランドとして展開する方法です。アスクルに「アスクル出張サポート」、TSUTAYAに「Tトラベル」といった形で、箱を作って提供しました。
こうしたプライベートブランドを600ほどに提供し、一定量が増えたところでBtoCも始めます。多くのブランドを抱えつつ、リスティング広告やSEOの手法を駆使していました。
その後、上場を果たしますが、広告費がかかりすぎるため、複数のブランドを一つに統合します。それがエアトリでした。国内線から始め、海外航空券や海外ホテルを取り込み、統合サイトとしてマーケティングを展開していきました。
途中では、同業の先輩である大石さんの会社と経営統合し、エアトリを形づくっていきました。川邊さん自身も過去に別会社と合併した経験があり、二人は経歴の重なりに共感を示します。
3日で5,000万円──株主優待券をつないだ資金繰りの日々
川邊さんは、資金繰りをやったことがない者は経営者ではない、とXなどでたびたび語っていると明かします。吉村さんも、資金繰りが一番大変だったと振り返ります。
旅行ビジネスは扱う金額が大きい一方、粗利益率が低く、仕入れの支払いタイミングが非常に早いのが特徴でした。末締め末払いではなく、10日ごとに決済が必要だったといいます。
連休があると、クレジットカード会社からの入金が後ろにずれ、支払いは前に来る。結果、3日以内に5,000万円を用意しなければならない事態になりました。借りられるところからは実家も含めてすべて借りていたといいます。
そこで吉村さんが編み出したのが、株主優待券を使った資金繰りでした。優待券は5,000万円分を購入し、支払いは1週間後にできる取引が成り立っていたのです。
5,000万円で買った優待券は、換金すると4,000万円ほどに目減りしました。ひどいときはこれを毎週のように繰り返し、一度でも支払いを飛ばせばすべて終わる状況だったといいます。
吉村さんはオフィスに寝袋を置いて働いていましたが、若く好きでやっていたので苦にならなかったと語ります。それでも資金繰りは別格の大変さでした。
資金繰りは苦労じゃない──胆力と社会への視点
この綱渡りの資金繰りは4、5年ほど続いたといいます。川邊さんは、並の精神力ではないと驚きます。
もともと強かったのか、だんだん強くなったのかを問われ、吉村さんは「だんだんだ」と答えます。ビジネスの苦労は、資金繰り以外はそれほど苦労には感じないとも語りました。
さらに吉村さんは、財団で支援するような出口の見えにくい大変さと比べれば、ビジネスの苦労は資金繰りも含めて苦労とは言えないのではないか、という視点を示します。
言ってみれば遊んでるだけって言っていいかなですけれども、ビジネスでいろいろやってるだけなので。ただ、その中では資金繰りが大変でした。
換金の相場も毎回一定ではなく、1週間後ではダメと言われたり、大黒屋で3,500万円にしかならなかったりと、その都度苦労があったといいます。
厳しい父親や実家のファミリービジネスは、事業を続ける吉村さんに「やめろ」という空気もあったといいます。吉村さん自身も、これなら三菱商事に行っていればよかったと思う瞬間があったと明かします。
それでも吉村さんは、その先に違う景色があるのではないかと信じて続けた、と語ります。少年時代に抱いた決意が、資金繰りの夜を越えて事業を前に進めていました。
まとめ
チーズメーカーの長男として生まれた吉村英毅さんは、偉人伝に夢中になった少年時代に「世界一の金持ちになって世界を変える」という決意を抱きました。東大からビル・ゲイツをなぞるように20歳で起業し、阪神タイガースの缶コーヒーから旅行ビジネスへとたどり着き、株主優待券をつなぐ資金繰りの日々を越えて、時価総額5,000億円規模の企業群を築くに至ります。
- ミダスキャピタルは外部LPを持たず自己資本のみで運用し、上場後も筆頭株主であり続ける異色のファンド
- 吉村さんは2050年に時価総額100兆円、1億人へのポジティブな影響という2軸の目標を掲げる
- 少年時代の「世界一の金持ちになって世界を変える」という夢は、偉人伝と恵まれた自覚から生まれた
- ビジネスと社会貢献を無理に両立させず、事業の収益を財団の慈善活動に流し込む形を選んだ
- 3日で5,000万円を用意する資金繰りを4、5年続けた経験が、経営者としての胆力を育てた




