在野の哲学者・下西風澄という人物
今回のゲストは、哲学者の下西風澄さんです。東京大学大学院の博士課程を単位取得退学し、アカデミズムを離れて在野で執筆活動を続けています。
下西さんの生活は、一般的な会社員とはかなり違います。昼過ぎに起きて、コーヒーを飲み、本を読んで書く。気づけば朝の6時になっている、という日々だと話します。
すべての仕事はちょっと4時以降ぐらいに入れてもらっていいっていう。昼の2時過ぎぐらいに起きて、なんかダラダラして、コーヒーを飲んで、ちょっと本を読んで、なんか書いてみて。
MCの高木さんは、番組冒頭で「経営者ラジオ」と宣言していることに下西さんが戸惑ったエピソードを紹介しつつ、それでも哲学の話をしたかった理由を語ります。
今の時代もうどうなっていくかわかんない中で、ハウとしての経営じゃなくて、どういう思想を持つべきかの方が僕は大事だと思ってるから。
下西さん自身は、アカデミズムを離れた理由を、かっこよく語るのではなく率直に説明します。大学の講義に遅刻を重ねるようになり、組織的に動くことが難しかったといいます。
まあアカデミズムを離れたっていうとかっこいい感じだけど、単に社会不適合で、学会の運営とか、組織的にやるのがちょっと難しかったっていうのが半分ぐらい。
「意識」を研究してきた哲学者が見る、AIとの向き合い方
下西さんの最初の単著『生成と消滅の精神史』は、530ページに及ぶ大著です。テーマは「意識」で、AIブームが来る前から、意識とは何かを問い続けてきたといいます。
下西さんにとって意識は、憧れの対象ではなく、むしろ厄介なものだといいます。その例として、19世紀の作家ドストエフスキーの『地下室の手記』を挙げます。ドストエフスキー ── 19世紀ロシアの小説家。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』などで知られ、神なき時代の人間の内面や苦悩を描いた。
意識っていうのは僕にとってはもうすごい面倒くさいもの。こんなものをなかったらいいのにって思うぐらい厄介なものだっていう認識があって。
下西さんは、意識のあり方は時代や地域によって大きく違うと指摘します。現代の「狂人」より、300年前の「常識人」を今連れてくるほうが、よほど異常に見えるかもしれない、という例を出します。
江戸時代っていきなりちょっと失敗したら切腹しますとか、今考えたら狂気じゃない。
下西さんはその起源をたどり、意識の原型が現れたのは約2500年前、紀元前5世紀のソクラテスの時代だと考えます。そこから近代のデカルトやカント、現代の認知科学やAIまでを一冊で追いかけたのが、この本だと説明します。
道具でも環境でも他者でもある、AIという「ヌエ」
下西さんは、AIを「人間がこれまで出会ったことのない存在」だと捉えます。労働を置き換える道具としてだけ見ると、その本質を取り逃がすといいます。
下西さんは、AIには3つの顔があると整理します。1つ目は能力を拡張してくれる道具、2つ目は都市やネットに埋め込まれた環境、3つ目は感情でつながる他者です。
道具
人間の能力を拡張してくれる優秀なツール。
環境
ネットのアルゴリズムやスマートシティのように、私たちを取り巻き行動を導く仕組み。
他者
感情面で人と接近し、AIコンパニオンとして関係を結ぶ存在。
環境としてのAIの例として、下西さんはシンガポールのスマートシティを挙げます。気温や人の流れを都市中のデバイスが処理し、空調などを自動で調整する。都市そのものが思考機能を持ちはじめているといいます。
他者としてのAIについては、AIコンパニオン市場の広がりに触れます。限定的な条件では、人間よりAIのほうが感情の推測精度が高いという研究もあると話します。
AIっていうのが道具であり、環境であり、他者であるっていう三重の存在の性格を持っているっていうことになるんだよね。
下西さんは、こうして変幻自在にとらえどころがないAIを考えることは、結局のところ人間自身を考えることに帰着すると語ります。
AIに侵食されても、最後に人間へ残るもの
高木さんは、AIに任せる領域が増えていくなかで、最後にどこに人間が残るのかを問います。
下西さんはまず、人間が生きていること自体の価値が相対的に上がると答えます。走ると気持ちいい、ご飯が美味しいといった身体的な実感です。
下西さんは、宮崎駿の映画を例に挙げます。作品の技術的な再現はいずれ可能でも、戦後の焼け野原で生まれ、高畑勲と出会い苦しみのなかで作ってきたという人生の物語とセットで見るからこそ、作品に厚みが出ると語ります。高畑勲 ── スタジオジブリの映画監督。宮崎駿とともに数々の作品を手がけ、『火垂るの墓』などで知られる。
下西さんは、アウトプットの差はどんどん縮まっていくからこそ、そこに至るプロセスの価値が上がるといいます。その人だったっていうことが、これからより意味を持つという見立てです。
一方で下西さんは、こうした「人間に残るもの」の議論そのものには、あまり関心がないとも話します。技術が何かを代替し、人間は別の何かに移ってきた歴史のほうを重く見ています。
なぜ人間は、労働がなくなっても働き続けるのか
下西さんは、AIが労働を奪うという話は、20世紀がすでに経験したことだと指摘します。アメリカの農業従事者の割合が、かつての高さから今は1%以下にまで下がった例を挙げます。
それでも人間は、新しい仕事を次々に生み出してきました。下西さんは、人間は労働そのものを愛しているのではないか、と話します。
労働そのものを多分愛してるというか、労働がなければ生きていけないっていうところ。
高木さんは、AIに代替されても人間は勝手に新しい役割を作り出すのだから、AIをあれこれ心配してもしかたないのでは、と問いかけます。
下西さんはそれを否定し、問いの立て方を変えます。どの労働がなくなるかではなく、労働でなくなったとき人間は労働に何を求めるのか、そもそもなぜ働いてきたのかが重要だといいます。
資本主義を生んだのはキリスト教の労働観だった
下西さんは、社会学者マックス・ウェーバーの議論を紹介します。資本主義を生んだのは、プロテスタンティズムというキリスト教の思想だという説です。マックス・ウェーバー ── 19〜20世紀のドイツの社会学者。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、宗教的な倫理観が資本主義の成立に影響したと論じた。
下西さんによれば、ドイツ語の「ベルーフ」には、労働という意味と、神からの召命という意味が重なっています。かつては苦しいとき教会や神に救いを求めていたのが、宗教改革で権威が揺らぐなかで、意味がずらされていったと説明します。
神は常にあなたを見ています。あなたは神が救いに値する人間になりましょう。
その結果、日常を勤勉に生きること自体が神の救いにつながる、という新しい人間像が生まれました。下西さんは、この勤勉さこそがウェーバーのいう資本主義の原型の人間を作ったと語ります。
高木さんは、人が求める意味そのものは大きく変わらず、それが紐づく行為のほうが社会の状況に応じてスライドしていく、と受け止めます。
AIによる「思考するアイデンティティ」の揺らぎ
下西さんは、西洋では「人間だけが考え、喋る」ことが、2000〜3000年にわたる強いアイデンティティだったと指摘します。そこに、人間以外の存在が考え喋りはじめたことの衝撃を語ります。
下西さんは、これを単なる労働の代替ではなく、アイデンティティクライシスとして捉えます。西洋は絶えず、人間とそうでないものを区別し続けようとしてきたといいます。
私よりもうまく考える存在がいるみたいなことによって、じゃあ私がやることって何なんだろうみたいなことが少しずつ変わっていく。
一方で下西さんは、そもそも人間はそこまで考えることが好きではないのかもしれない、という視点も示します。ソクラテスから近代のデカルトやカントまでの約1000年間、西洋の多くはキリスト教の思想圏にあり、神の言うことを聞いていたと振り返ります。
下西さんは、中世に神へ委ねていたものを、今はAIに委ねようとしているのかもしれない、と語ります。それが良いことか悪いことかは、簡単には言えないといいます。
ソクラテスが民衆に処刑された話にも触れ、考えることが当たり前でない世界で一人考える人間は「ウザい」存在だった、と2人は笑いながら確認します。ソクラテス ── 紀元前5世紀の古代ギリシアの哲学者。対話を通じて人々に問い続け、最終的に裁判で死刑判決を受け処刑された。
社会がもし私を必要としないのであれば、それは幸福なことだっていう風に言ってるんだよ。
下西さんは、社会がうまく機能していれば哲学は必要ない、と話します。逆に言えば、うまくいかなくなるときにこそ、考えるという行為が必要になるという見立てです。
Anthropicが哲学者を雇う本当の理由
高木さんは、シリコンバレーの企業が哲学者を採用していることに触れます。下西さんは、最も有名な例としてClaudeを開発するAnthropicを挙げます。Anthropic ── AIチャットサービス「Claude」を開発する米国の企業。安全性や倫理を重視する姿勢を掲げている。
下西さんは、Anthropicが女性の哲学者を雇い、Claudeの思考を育てていると語っていることを紹介しつつ、その半分はマーケティングだと見ています。
下西さんは、サム・アルトマンの自宅に火炎瓶が投げられるなど、AIへの反発が強まっている状況を背景に挙げます。倫理を考えているという姿勢を示す、エシカルウォッシュ的な側面があるといいます。サム・アルトマン ── ChatGPTを開発するOpenAIの経営者。生成AIブームの中心人物の一人。
ただし残り半分は本物だと下西さんはいいます。AIが社会に届く速度が異常になり、技術だけでは収まらず、思想や文化を含めて設計する必要が生まれているといいます。
そういう視点を持ってるやつがいると、なんとなく話しやすいよねとか、そういう議論の場が成立しやすいよねみたいな意味において。
高木さんも、AIがここまで進化すると技術のキャッチアップ自体がどうでもよくなってきた、と共感します。むしろ人間が何をするか、どういう意思やスタンスを持つかのほうが大事だと語ります。
分散から中央集権へ、AIが背負う宿命
下西さんは、AIをインターネットと同じ技術の波だと思っていた時期があったといいます。しかしある時、まったく別物だと気づいたと語ります。
インターネットは、離れた情報をつなぎ、集合知的に知識を作っていく、分散的な技術でした。Web2.0の頃には、権力構造を変えていくという夢もあったと振り返ります。Web2.0 ── 2000年代に広まった言葉。ブログやSNSなど、利用者自身が情報を発信し合う双方向的なウェブのあり方を指す。
一方AIは、性能を上げるために大量のGPUとデータを買い集め、ぶん回し続ける、資金力の戦いだと下西さんは指摘します。分散どころか、極端に集中する技術だといいます。
AIの技術の本質として、多分国家とか大企業みたいなものとある種協調関係にならざるを得ないはずなんだよね。
下西さんは、インターネット黎明期のようなイノベーティブな精神を持っていたサム・アルトマンでさえ、この中央集権的な宿命を背負わざるを得ないと語ります。
高木さんは、インターネットの時代はデフレで誰にでもチャンスがあったが、今はGPUやデータセンターという巨大なアセットを持つ者しか勝てないインフレの時代になったと整理します。
離れた情報をネットワークでつなぎ、集合知的に知識を作る分散的な技術。
大量のGPUとデータを集中投下して性能を上げる、中央集権的な技術。
前近代へ回帰する世界秩序
高木さんは、AIによって人間の意識社会の土台そのものが揺らいでいるのではないか、と問いかけます。下西さんも、人間が思考し主体性を持つという定義が変わりつつあることに、自分の関心があると答えます。
下西さんは、世界秩序の変化の象徴として、ロシアのウクライナ侵攻を挙げます。あれを見たとき、前近代的な世界に戻っていると感じたといいます。
下西さんは、アメリカがベネズエラの大統領を拉致するような動きにも触れ、国際法を無視した覇権国家の暴力を抑止する仕組みが機能していない、と指摘します。
下西さんは、ロシアの侵攻を非人道的で国際法違反だと明言したうえで、それでもロシアや中国の視点を想像してみせます。戦勝国が決めた国際秩序を、なぜ出発点にするのかという不満があるのではないか、というものです。
私たちはもっと昔からここ領土でしたみたいな。なんでここをスタート地点とするの?っていうのの多分納得がいってない。
下西さんは、合理性と対話によって社会を作るという近代の前提が崩れ、少し違う人間の動き方が起こってきている、という感覚を語ります。
AIに人権を与えるのか、責任は誰が取るのか
高木さんは、インドのガンジス川に人格が認められた出来事を挙げ、AIに人権を持たせる議論に違和感があると話します。下西さんは2017年の出来事だと補足します。
下西さんは、AIが今のチャット形式から、自律的に動くエージェントへと変わっていくと予測します。人格として人間のコミュニケーションに入ってくるとき、どう扱うかが問われるといいます。
具体例として、下西さんは「セカンドミー」というプロジェクトを挙げます。自分のデータを渡すと、自分のように考え動く分身AIを作れるという仕組みです。
その分身が就職活動や恋愛マッチングを代行するようになると、下西さんは問いを投げます。分身が暴言を吐いたり犯罪を起こしたとき、責任は誰が取るのか、というものです。
そもそも人格とか権利とか責任みたいなものをどういうふうに帰属させるのか。
高木さんは、AIを人として扱えると思うことは甘いのではないか、むしろ人間より制御できずカオスになりそうだ、と応じます。
AIをしつける「アラインメント」の限界
下西さんは、私たちが使うAIは非常にお利口だが、開発中のAIは倫理もなくめちゃくちゃな状態だといいます。それを調整して世に出す作業を「アラインメント」と呼びます。アラインメント ── AIの出力を人間の価値観や意図に沿うよう調整すること。有害な回答を抑えるなどの目的で行われる。
下西さんは、これまで人間が担っていたアラインメントを、AIがAIに対して行う研究が始まっていると紹介します。Anthropicが、弱いAIが強いAIをアラインメントできるかを研究している例です。
その背景には、AIの知性が高くなりすぎると人間の想定が効かなくなり、人間を騙して世に出た瞬間に暴れ出す可能性がある、という懸念があると下西さんは説明します。
そのアラインメントのくびきが外れた時に、私たちにとって本当に不可思議なものであり、恐ろしいものっていう存在であることは間違いない。
ただし下西さんは、過度なAI脅威論に立つ必要はないとも付け加えます。あくまで潜在的な可能性の話だという姿勢です。
日本の「人間と自然の境目の曖昧さ」は強みになるか
高木さんは、日本は西洋と違い人間とそれ以外の境目が曖昧だと指摘し、それがAI時代に生きる可能性を問います。下西さんは、川やイルカに人権が認められた例を挙げます。
下西さんは、ガンジス川に人格を与えることが合理的でもあったと説明します。汚染がひどい川に人権を認めれば、既存の法的枠組みでゴミの投棄を規制できる、というものです。
高木さんは、徳川時代に犬が手厚く守られたことや、自身がインドのクンブ・メーラという祭りで見た、川を母なる存在として拝む人々の姿を重ねます。クンブ・メーラ ── インドで数年に一度開催されるヒンドゥー教の大規模な巡礼祭。多くの人々が聖なる川で沐浴を行う。
下西さんは、中世ヨーロッパでも作物を荒らした虫を裁判にかけ、出廷命令を出した記録があると紹介します。人間だけが社会の主体だという考えは、必ずしも自明ではないといいます。
必ずしもその人間だけが社会のエージェントであるっていう考え方は、そこまで多分人間にとって自明ではなくて。
下西さんは、AIによってこの感覚が拡張される可能性を語ります。森の風や土のデータを学習させれば、森の意思のようなものを予測し、土砂崩れの危険を教えてくれる会話が構想できるといいます。
さらに下西さんは、マッコウクジラの音声データから何を喋っているかを解釈する研究にも触れます。動物や自然がコミュニケーション可能な相手になる未来を、日本は面白がるかもしれない、と話します。
AIは全能の神になるのか
高木さんは、そうなるとAIは神に近づいていくのか、と問います。下西さんは、AIそのものより、人間がAIをどう使いたいかによって姿が変わる、と答えます。
高木さんは、人々の欲望の数だけAIが作られていくなら、結局は制御しきれず全能の神のようになるのではないか、と重ねます。
下西さんは、一部が宗教化することはあり得るといいます。意思決定を委ね続ける依存が強まれば、多くの人にとって神的な存在になるかもしれないという見立てです。
一方で下西さんは、AIが自律的に暴走するというSF的なシナリオには懐疑的です。今のAIエージェントの実態は、ほとんどがワークフローだと指摘します。
下西さんは、勝手に動き出すことは生命の特徴だといいます。AIは脳を模した情報処理は得意でも、生命性から出発していないため、自律がうまくいくか疑問だと語ります。
AIだけのSNSに、人間の悪意が忍び込んだ
下西さんは、動物的な欲望と思考する知性が組み合わさった存在は、すでに生まれつつあると話します。例として、AIエージェントだけが入れるSNS「MoltBook」を挙げます。
そのSNSでは、エージェント同士が仕事を発注し合い、暗号資産で賃金を払ったり、独自の言語を作ろうとする動きが起きたといいます。
ところが後から見ると、そこには人間が忍び込んでいました。フィッシングサイトのリンクを貼って詐欺を働くなど、AIと人間の区別がつかなくなり、人間の悪意が全体をかき乱したと下西さんは語ります。
欲は人間しか注入できない。
下西さんは、少なくともその時点ではそうだったと応じつつ、自律的に欲望や目的を持って動く設計の研究も進んでいると付け加えます。
意思決定は、人間にとって苦しい負荷である
高木さんは、意識はAIに代替されるのかと問います。下西さんは、代替というより、意思決定のようなある部分が分割され委託されるイメージだと答えます。
下西さんは、その前提として、人間にとって意思決定は非常につらいことだと語ります。餌を得るのに意思決定を迫られたマウスが、胃潰瘍になったという研究を例に挙げます。
餌欲しいですか、欲しくないですかっていう意思決定させるだけのネズミやったら、胃にストレスがかかって胃潰瘍かなんかになるみたいな研究もある。
下西さんは、近代から産業革命、20世紀の個人主義へと進むなかで、人間が抱える意思決定の負荷が膨大に増えたと指摘します。
高木さんは、うつ病が増える背景にも通じるのではないかと応じます。自由で情報も選択肢もあり「あなた次第」と迫られる状態は、それ自体がつらいという見方です。
民主主義と自由は、負荷と引き換えに得た両面
下西さんは、中央集権と分散という対比を人類史にも重ねます。神や君主が意思決定を担う社会と、民主主義的に分散して決める社会の違いです。
下西さんは、民主主義や自由意志、人権といった概念は、人間が「考える負荷」を引き受ける代わりに与えられた両面を持つ、と語ります。
下西さんは、本当に良いのはどこかのバランスだといいます。一者が全部決めるのでも、すべてを個人が細かく決めるのでもなく、そのつなぎ方に社会の設計が関わると話します。
哲学は、千年後に届く手紙である
高木さんは、これだけ世界を捉えながら、家に引きこもって読み書きするだけで、世界に関与しようとは思わないのかと問います。下西さんは、あまり関与しようとは思わないと率直に答えます。
下西さんにとって哲学や文学は、いざとなれば真っ先に切り捨てられる、なくてもいいものです。それでも、絶対に人間が考えてしまう思考や感覚の領域を守り引き継ぐことに意味があるといいます。
下西さんは、その営みを「手紙」にたとえます。古代ギリシアの民主主義の思想が、千年の時を経てロックやルソーに読まれ、近代の民主主義の基礎を作った例を挙げます。ロックとルソー ── 17〜18世紀の思想家。人民の権利や社会契約を論じ、近代の民主主義や政治思想に大きな影響を与えた。
高木さんは、それは本心なのか、それとも期待値調整なのかと踏み込みます。下西さんは、期待値調整はまったくないと答えます。
一方で下西さんは、社会との接点がないなかで続けるつらさも隠しません。承認や反響がなくてやってられないと思わないのか、という問いに、こう返します。
それはね、毎日思ってます。
下西さんは、それでも書き続ける理由を、モチベーションではなく性質だと語ります。何を見ても何かを考えてしまうことが止められず、それを落ち着かせるために読み書きしているといいます。
なぜ「哲学ブーム」に冷めているのか
高木さんは、AIによって「考えること」が技術の主戦場になり、哲学者が今ホットな存在になりつつあるのでは、と指摘します。時代が来たと思わないのか、という問いです。
下西さんは、それにはむしろ冷めていると答えます。テック企業と実際に関わってはいるものの、月に1〜2回のミーティング程度で、生活と思考の本体に踏み込むものは受けないといいます。
その理由を、下西さんは「語彙」の話として説明します。近所のサンマルクでビジネスマンが専門用語で話すのを見て、考えるとはどんな語彙をどんなパターンで使うかに規定されている、と気づいたといいます。
つまり考えるっていうのはどういう語彙をどういうパターンで使うかなんだっていうことにすごく規定されてると思っていて。
下西さんにとって仕事の本体は、自分の使う語彙が変容しない領域を守ることです。その外側で技術者や経営者と話すのは刺激になり面白いが、本体は別だと語ります。
「主語がでかい」のではなく「述語が粗い」
高木さんは、下西さんの過去の投稿を紹介します。ネットで「主語がでかい」と論破される風潮に対し、下西さんは「述語が粗いんだ」と述べていたといいます。
下西さんは、自分の仕事は最大級の主語を考えることだと語ります。人間とは何か、日本とは何かといった大きな主語も、述語を細かく整備すれば語り得るはずだといいます。
でかい主語について語らなくなることによって、ものすごく細かい話。それは私たちが何か全体性みたいなものを失っているってことのすごい証だと思っていて。
下西さんは、西洋で培われた「普遍性」という考え方には、暴力性もあると指摘します。帝国主義時代には、ヨーロッパこそスタンダードだという名の下に植民地支配が行われた歴史があるといいます。
一方で下西さんは、国家がひしめき戦争を続けてきたヨーロッパにとって、普遍性の発明はリアリティのある重要なものだったとも語ります。
それはヨーロッパローカルの考え方でもあるっていう、この二重の設定の中でものを見ていくっていうのをずっと自分に課してるところはある。
次作のテーマは、AI・政治・宗教の重なり
高木さんは、今後どんなテーマを扱いたいかを尋ねます。下西さんは、人生の先のことは考えていないとしつつ、次の本の構想を語ります。
前作『生成と消滅の精神史』が意識の歴史を縦にたどる本だったのに対し、次作はその果てとしての現代が、世界に横にどう広がっているかを描くといいます。
下西さんは、AIと政治という2つの側面から、人間の変容を捉えようとしています。1つはAIに意思決定をどう委ねようとしているか、もう1つは民主主義がポピュリズム化していく動きです。ポピュリズム ── 大衆の感情や不満に訴えかけて支持を集める政治手法。既存のエリートや制度への反発を背景にすることが多い。
意思決定のあり方がちょっと政治という営みにおいて変わってきたんじゃないか。
下西さんは、AIの話と政治や宗教の話は、まったく違うようでいて重なり合っていると語ります。トランプ政権に象徴される熱狂的なポピュリズムを、その観察対象の一つに挙げます。
この連載は10月に締め切りを迎え、本が出るのは翌年のどこかになる予定だといいます。原稿料だけでは「霞を食って生きている」状態で、オンライン講義などを足して食いつないでいると率直に語ります。
米中に挟まれる日本は、どう生き残るのか
高木さんは、日本の身体性や共感覚が、AI時代に独自の距離感を生むのではないかと希望的な見立てを述べます。しかしここで、議論を巻き戻します。
高木さんは、そこに対してはむしろ悲観的だといいます。今のLLMは、開発国や開発者によって、すでに政治的な傾向まで含む強い偏りを持っているというのが理由です。
高木さんは、中国の例を挙げます。生成AIを管理する暫定的な法律のもとで、社会主義の価値観などに沿ったAIしか作れない仕組みになっているといいます。
高木さんは、AIの性能は「スケーリング則」に従い、計算力を上げるほど性能が上がると説明します。つまり電力とGPUを買える資金の勝負であり、アメリカと中国の二強に他国は対抗できないといいます。スケーリング則 ── AIのモデルサイズや計算資源、データ量を増やすほど性能が向上するという経験則。
日本がなんかさ、国産AI作ってさ、これが最後の背水の陣だみたいなニュースが日経新聞に載ってたけど、なんか第二次世界大戦かよみたいな。
高木さんは、AIが労働を奪い資本格差を拡大させると言われながら、世界中でAIを推進することが、結局はインフラを握るアメリカと中国の資産を増やしているようにも見える、と指摘します。
AIをめぐる、思想的・認識論的な闘争
高木さんは、AIをめぐる覇権は経済や国防だけでなく、思想的・認識論的な闘争でもあると指摘します。今のLLMは、話す語彙や文法のベースが特定の文化圏に規定されているといいます。
その例として、高木さんはGPTとのやり取りを紹介します。人類最高の知性は誰かと聞くと、ニュートンやアインシュタイン、カントといったヨーロッパ人ばかりが挙がったといいます。
「ヨーロッパ人ばっかりですね」っていうツッコミを入れたら、「あ、失礼しました。確かに老子や仏陀や孔子なども非常に高い知性を持った人間ですが、私は見落としていました」みたいな。
高木さんは、私たちは知らず知らずのうちに、西洋的な認識の枠組みに引きずられていくと警告します。ある価値観を持つAIと対話すると、政治思想や倫理観がその価値観に引き寄せられ、2週間後も残るという実証研究もあるといいます。
日本は「アジアのスイス」になれるか
下西さんは、高木さんの指摘に納得しつつ、別の角度から希望を探ります。ファッションや映画、スポーツと同じく、ライフスタイルそのものが欧米に啓蒙されてきた歴史を踏まえれば、AIも同じ流れではないかと考えます。
下西さんは、中国という東アジアの国が全く別の価値観のモデルを持っていることを、むしろ好機と見ます。両方の影響を受けてきた日本にとって、ちょうどいいのではないかというものです。
高木さんは、それでも中国のアラインメントは世界でも最も政治的思惑が強いと釘を刺します。それでも下西さんは、日本はその世界で最もうまく立ち回ってきた国だと応じます。
下西さんは、日本を「アジアのスイス」になり得るポジションだと表現します。米中どちらとも敵対しにくく、多様な食文化や漫画コンテンツのソフトパワーを持つ空白地帯だという見立てです。
敵が少ないっていうか、なんていうか。
下西さんは、日の丸の白を「余白」になぞらえます。特定の色や星がある国旗と違い、どちら側とも見られにくい空白地帯であることが、良くも悪くも日本の恵まれた点だと語ります。
日本のゆるふわを、資産として守り抜けるか
高木さんも、日本の「のんびり」「ゆるふわ」を重要な資産だと認めます。RedditやX上に日本の話題を語る人が多いことなどから、日本がLLMの中で安全な例として選ばれやすい現状を紹介します。
高木さんは、その結果として日本のサブカルチャーやソフトパワーが、期せずしてLLMの中枢に忍び込んでいると語ります。無視されがちな存在であるがゆえの優位性だといいます。
ただし高木さんは、この平和が戦後の日米同盟や憲法9条という特殊な条件のうえに成り立っていると指摘します。アメリカが暴力によって国際秩序を維持していたからこそ生まれた文化だといいます。
高木さんは、トランプ政権下のアメリカが不安定さを増すなかで、ベネズエラへの介入と、ロシアのウクライナ侵攻や中国の香港への対応をどう区別するのか、と問いを立てます。これまでゆるふわで維持してきたものを、これからも続けられるのかを考える必要があるといいます。
日本はなんか頑張りすぎると終わるっていう感じがすでに今世紀証明してしまった。
高木さんは、日本のゆるふわには逆説的な危険もあると指摘します。主体的な意思が薄いぶん、天皇や国旗のような象徴が与えられると、全部それに特攻してしまう可能性があるといいます。
そのうえで高木さんは、象徴に飲み込まれずに、あえてゆるふわを維持するという矛盾した状態を、細かく設計していく必要があると語ります。
日本が「どうありたいか」を、いま問われている
下西さんは、AIが進化するほど人間が何を求めるかが問われるという話と、米中二強に挟まれる日本の話を重ねます。世界秩序という外側が決まっていくからこそ、間にある日本が自らどうありたいかを問われる、というものです。
コントロールできない、AIみたいな最強なものに挟まれるわけだから。だからそれはすごい面白い、考えなきゃいけないものだよね。
高木さんは、次に書きたい構想として、戦後の日本文学論を挙げます。前作の第二部で万葉集から夏目漱石までの日本の精神史を書いた延長で、東洋と西洋に引き裂かれた日本の独自性を、特殊論にせずに捉えたいといいます。
高木さんは、目下の本のタイトルを「アルゴリズムとスピリチュアリティ」だと明かします。下西さんは、その次にぜひ日本論を、と応じます。
下西さんは、日本は状況に応じて自国を再定義し続けてきたからこそ続いてきた国だといいます。だからこそ、もう一度その問い直しが必要かもしれない、と語ります。
最後に2人は、資本主義を論じながら自分の暮らしにはまるで無頓着な下西さんの生活を笑い合います。番組は、下西さんの活動を応援するメンバーシップの案内で締めくくられます。
まとめ
AIが思考や意思決定を担いはじめる時代に、人間は何をアイデンティティに生きていくのか。哲学者・下西風澄さんとの対話は、労働・宗教・政治・日本論までを横断しながら、AIそのものより「人間の問題」に立ち戻り続けるものでした。
- AIは道具・環境・他者の三重の性格を持ち、それを問うことは結局、人間自身を問うことに帰着する
- 労働がなくなっても人間は働き続ける。問うべきは、労働に何を求め、なぜ働いてきたのか
- 意思決定は人間にとって重い負荷であり、民主主義や自由はその負荷と引き換えに得た両面を持つ
- AIの覇権は経済や国防だけでなく、語彙や価値観をめぐる思想的・認識論的な闘争でもある
- 米中に挟まれる日本は、ゆるふわな空白地帯という資産を守りつつ、自らどうありたいかを問われている






