仏教でいう「愚痴」は、居酒屋の文句のことじゃない
愚痴と聞くと、私たちはつい居酒屋でこぼす文句や不満を想像しますよね。
でも仏教における「愚痴」は、言葉のことではなく、心のことなんです。
人を苦しめる3つの煩悩のうち、特に猛毒を含むということで「三毒」とも言われるものの一つ。それが愚痴です。
これを端的に一言で言うと、「バカな心」なんですね。
愚痴という漢字を見てみてください。「愚」も愚か、「痴」もバカという意味なんです。
ただ、ここで言うバカは、記憶力が悪いとか勉強ができないという意味ではありません。
仏教では、因果律がわかっていないことをバカと言うんです。
恨み・妬み・嫉み——似ているようで、実は違う
因果律というのは、原因があって結果がある、ということ。
すべての物事、すべての運命は自分の行いが引き起こしている。これが仏教の絶対的なルールなんです。
このルールが見えなくなった状態、それが愚痴です。そしてこの心は、恨み・妬み・嫉みの形で現れ出します。
この3つの違い、意外とわかっていない人が多いんじゃないかと思います。
まず「恨む」。これは自分が不幸なときに、他の人が成功しているのを見て、「自分が不幸なのはあいつが悪いんだ」と外のせいにする心です。
次に「妬む」。これは人が成功しているのを見て、素直に喜べない心。「あれはズルしてるからだ」と、他人の成功を引きずり下ろそうとする心です。
最後に「嫉む」。これは一番ピンと来にくいと思うんですけど、「あいつはあんなに成功してるのに、自分はなんてダメなんだろう」と、人と比較して自分を卑下する心です。
ベクトルは違いますが、3つに共通しているのは、己の行いに全く集中できていない状態だということ。
人のことばっかり気になっているんですね。
いまSNSには、恨み・妬み・嫉みが溢れています。直接言えない鬱憤がネット上に流れ出している。あれも全く同じメカニズムなんじゃないかと思います。
母親を恨む学生と、会社を恨む人は同じ構造
わかりやすい例を出しますと、朝寝坊して学校に遅刻してしまった学生の話です。
「なんで起こしてくれなかったんだよ」と母親を恨む。誰しも経験があるんじゃないでしょうか。
でもこれは、因果律的に言うと全く正しくないんです。母親が悪いわけでもありません。
夜更かししたこと、目覚ましをセットしなかったこと。自分の行いが見えていないから、目の前の母親のせいにして恨んでいるわけです。
これくらいなら笑い話ですけど、会社のせいにする人も、構造は全く同じなんです。
評価されない、年収が上がらない。その原因を環境のせいにして、自分の行いから目が離れているのは危ないんです。
もちろん、本当に理不尽でブラックな環境なら、それはすぐに逃げるべきです。
でも自分の行いに目を向けない限り、どれだけ転職しても、次の会社でまた「ここも環境が悪い」と愚痴をこぼすことになるのは明白なんですよね。
結果に振り回されず、種まきに集中する
改めて、人や会社のせいにしてしまう気持ち、もちろんよくわかるんです。
私もうまくいかないときは、環境のせいにしたい、あいつが悪いと恨みたくなります。人間だから仕方ないんです。
でもそんなときこそ、「ああ、今自分は因果律を見失っているな」と気づいてほしいんです。
恨み・妬み・嫉みに時間を使っているその間があるなら、自分の未来を変えるための行動にその時間を使ってほしい。
外部のせいにするのはやめて、結果に振り回されず、今の自分にできる種まきに淡々と集中する。
自分の運命を切り開くのは、自分自身の行いでしかないんです。
他人が成功しようが失敗しようが、自分の運命とは関係ない。自分の行いだけに集中する。
まとめ
つい人のせいにしたくなる心は、私自身の中にもあります。だからこそ、外部のせいにしたくなったときは、一度立ち止まって「今、因果律を見失っているな」と思い出せたらいいなと、いまは考えています。
- 仏教でいう「愚痴」は文句のことではなく、因果律がわかっていない「バカな心」のこと
- 恨み・妬み・嫉みは、すべて己の行いに集中できていない状態から生まれる
- 環境のせいにして愚痴をこぼす暇があったら、今の自分にできる種まきに集中する

