同じ「治外法権」がマルとバツに分かれた理由は?
笠原さんがこの回のきっかけとして挙げたのは、模擬試験の答案に「治外法権」と書いてバツになった子がいて、同じ「治外法権」でマルになった子もいた、というニュース記事です。
笠原さんはこの記事をもとに、字が読めないという理由で点を落とすことについて、テストを作ったり採点したりする先生に向けて話をすると宣言します。
ただし笠原さんは、自分はこの話をするのに向いていない側の人間だと最初に打ち明けます。子どもの頃に連絡帳の字を嫌になるほど直され、とうとう連絡帳を出さなくなった経験があるからです。
手書きが嫌いだという話はこの番組でも何回もしてきましたし、字そのものも人に誇れるような字はしてないです。
「国語の先生だから字が綺麗だ」っていうのはほんとやめてほしいですね。
そのため笠原さんは、丁寧に書くよう勧める側からではなく、書くのが億劫な側から「字を丁寧に」という言葉を点検したいと話します。
一方で笠原さんは、自分は手書きが嫌いなだけで、書くことに困難を抱えているわけではないと区別します。嫌いと困難を同じ棚に並べるのは違うというのが、この回を通じた前提です。
そのうえで笠原さんは、聞き手に1つの問いを投げかけます。困難のない自分ですら直されるうちに連絡帳を出さなくなったのなら、書くことに困難のある子に同じ言葉を届けたらどうなるのか、という問いです。
笠原さん自身の立場。直される指導を受けるうちに、書くこと自体が嫌いになった
丁寧に書こうとしても字が崩れてしまう。笠原さんは自分をこちらに含めない
判読できない字は「書いていない」のと同じか
笠原さんが紹介した記事は、10月31日の日本経済新聞電子版のコラム「受験考」の回で、見出しは「中学受験、字を丁寧に書こう」です。書き手は中学受験の塾で教えている方のようだと笠原さんは話します。
コラムによると、秋の模試で解答欄に「治外法権」と書いた子の答案がバツになり、正解は「領事裁判権 ── 外国人が滞在国で罪を犯した際、その国ではなく本国の領事が裁判を行う権利。幕末の不平等条約で日本が欧米諸国に認めたもので、治外法権の一部にあたります」とされていました。授業ではどちらでもよいと聞いていたのに、と保護者から問い合わせのメールが届いたそうです。
ところが解答用紙を確かめると、同じ「治外法権」でマルになった子もいました。問い合わせのあった子の答案は、字が判読できなかったためにバツになっていた、というのがこの話のオチです。
コラムは、読み手を意識して丁寧な字を書けるかどうかで合否は変わると結び、何より本人の自覚が大切だと書いています。笠原さんは、データや専門家の見解が出てくる記事ではないため、1つの現場のリアリティのある話として読んだと断っています。
笠原さん自身も中学受験の指導経験があり、今は定期考査を採点する立場です。中学受験は選抜のための入試であり、高校や大学の入試より厳しく採点されている肌感覚があるため、コラムの事情はわからないでもないと話します。
それでも笠原さんが引っかかったのは、字が読めなかったと伝えると保護者から連絡がなくなった、というくだりでした。
正論の指導が届いた先で相手が黙るという形がまあ構造的に似てるなって。
話が終わったように見えても、納得して黙ったのか、言ってももう仕方ないと思って口をつぐんだかというのは、外からは見分けがつかないわけなんですよ。
笠原さんは、字が崩れた理由も同じように外からは決めつけにくいと指摘します。コラムには、判別しにくい字が増えたのは面倒がるからではないかという見立てがあり、笠原さんにはそれが「嫌い」と「困難」を同じ棚に置いているようにも見えたといいます。
面倒がって崩れた字と、丁寧に書こうとしても崩れてしまう字は別物なのに、読めなければどちらにも同じバツがつきます。ただし笠原さんは、読めない字にバツをつけること自体がおかしいと言いたいわけではありません。
実際に笠原さんは生徒に対し、乱れた字だけでなく、薄い字や小さすぎる字も含めて、読む人への配慮をしようと伝えています。入試も採点してもらうものである以上、読んでもらうつもりで書こうという話は、実務上言わざるを得ないと考えています。
一方で、字の読みやすさには線引きの問題があります。同じ字でも見慣れた人には読めて、初めての人には読めないことがあり、大きな模試なら採点者も複数いるはずです。笠原さんは、どこからが読めない字なのかという線は完全にブラックボックスだと話します。
さらに笠原さんは、社会のテストが測りたいのは不平等条約について知っているか、考えられるかであって、字そのものではないと指摘します。採点に字のうまい下手が混ざれば、測りたい力と関係のないもので点数が動いてしまいます。
読み手に伝わらず、答案の上では書いたことにならない。減点されるのはやむを得ない面がある
読めはするが上手ではない字。テストが測りたい力とは関係がないため、点数に混ぜたくない
国語の教員は普段から生徒の文章を読むため、紛らわしい字を読むのには比較的慣れています。笠原さんも、まず読んで中身をつかんでから、字の乱れをどこまで指摘するかを考えるといいます。
ただ、読んでから判断する手間をどの採点にもかけられるわけではありません。笠原さんは、うまい線引きがないまま採点されると、書くことに困難を抱える子の字も「読めない字」の側に入れられてしまうかもしれないと懸念を示します。
書くことに困難のある子はどのくらいいるのか
書くことに困難のある子がどのくらいいるのか気になった笠原さんは、関連する数字を調べました。最初に見たのは、文部科学省が2022年に出した調査です。
この調査では、通常の学級にいる小中学生のうち、読むか書くかに著しい困難を示すとされた子は3.5%でした。ただし笠原さんは、担任の先生などが学校での様子を見て答えたもので医師の診断ではないこと、読むことと書くことが一緒になっていることに注意が必要だと話します。
通級による指導、つまり通常の学級にいながら週に何時間か別の場で指導を受ける仕組みの統計でも、事情は変わりませんでした。令和5年度の調査では、通級で指導を受ける子は全体で20万3000人余り、そのうち学習障害 ── LD(Learning Disabilities)とも呼ばれる発達障害の1つ。知的発達に大きな遅れはないのに、読む・書く・計算するなど特定の学習に著しい困難が生じる状態を指しますの区分は4万人余りです。
ただし通級の統計の区分はLDまでで、読むのが難しいのか書くのが難しいのかは分かれていません。笠原さんが調べた範囲では、書くことだけを取り出した公的な数字はすぐには見つからなかったといいます。
そこで笠原さんはAIも使って研究論文を調べ、ある研究者のグループの論文に行き着きました。小学2年生から6年生に実際に読み書きの課題を解いてもらい、学年平均を大きく下回った子の割合を出した研究です。
笠原さんは、この数字も統計上の線を下回った子の割合で、医師の診断の数ではないと注意を促します。小学生だけを対象にしたもので、調べ方が変われば数字も変わり、文部科学省の3.5%と並べて比べる性質の数字でもありません。
それでも、書くことに絞って実際に課題を解いてもらうと漢字で6%ほどという数字が出ていることは、知っておいてよいと笠原さんは話します。
さらに笠原さんは、書くことの困難は診断名として独立しておらず、学習障害の中の1つの現れ方という扱いだと説明します。どこから困難と呼ぶのか、線を引くこと自体がかなり難しいのです。
定義が難しいから配慮しづらいという事情は、現場にいると笠原さんも感じるといいます。ただ笠原さんは、それを素直に受け入れるのではなく、角度を変えて考えたいと話します。
定義が難しいからこそ、割合だとか診断名から入るのではなくて、
目の前の答案にある困難をちゃんと把握して配慮していく、成績つけていくことが重要なんじゃないかなと思うわけです。
笠原さんの実感では、答案の字が乱れている生徒は少なからずいて、単に下手なだけの場合もあれば、本当に難しい場合もあります。乱れてはいないのに極端に小さく書く生徒や、筆圧が上がらず薄い生徒など、パターンはさまざまです。
笠原さんは、どの生徒の字でも、ちゃんと書いてくれたものには読もうとして向き合い、否定しないよう気をつけているといいます。読み手への配慮を伝えるのも、否定せずに向き合ったあとという順番を守っています。
配慮を受けるための「証明」は誰が負うのか
笠原さんは、診断が出ていれば別の配慮ができるという話は、裏を返せば配慮を受けるにはまず証明が要るということだと指摘します。試験では多くの場合、家庭の側が診断書のような「できないことの証明」を用意します。
大学入試でも、共通テストで受験上の配慮を申請するには医師の診断書が必要です。笠原さんは、証明の責任が子どもと家庭の側ばかりに乗っている非対称性が、あまり問題にされていないと感じています。
診断書を手に入れるにはお金も時間もかかり、診てくれる医療機関が近くにあるとも限りません。発達に関する相談は予約が何か月も先になることもあり、地域や家庭によっては受診そのものが難しい場合もあると笠原さんは話します。
さらに証明を出しても、すぐに話が進むとは限りません。笠原さんは担任として配慮の申請の間に入ることがあり、個別の事情はぼかしたうえで、ほぼ1回で認められることは少なく、何度か確認が入るたびに説明を重ねると語ります。
担任として間に入るだけでも気が重い、気分悪くなるのに、証明を用意するご家庭の側はもっと重いものを背負ってるんだろうなと、
やっと配慮を受けられても、今度は周りから「ずるい」と見られる心配もあります。笠原さんによれば、今は面と向かって言う生徒はいないものの、試験直前や推薦が関わる場面、あるいは終わったあとで不公平だという声が出る可能性は残ります。
笠原さんは、そうした声の裏には「公平とは全員が同じ条件で受けること」という考えがあると見ます。そのうえで、自身の考える公平を次のように語ります。
でも公平って本来は測りたい力をちゃんと測れる条件を揃えることだと個人的には思います。
同じ問題を同じ時間・同じ方法で解く。配慮は「ずるい」と見られやすい
笠原さんの考える公平。測りたい力と無関係な理由で点が落ちるなら、条件は揃っていない
笠原さんは、条件を揃えるにはどこかで線を引く必要があるため、証明を全部やめろとまでは考えていません。問いたいのは証明の重さを誰が負うのかという設計であり、学校が普段の授業で見ていることや記録していることで担える部分もあるのではないかと話します。
生成AIは評価をどちらへ引っ張るのか
普段の授業で見ていることとテストの点数が並ぶと、成績で重く見られるのはたいていテストだと笠原さんは話します。全員に同じ問題を同じ時間で解いてもらうテストは、公平に見えるからです。
しかし笠原さんは、テストは道具でしかなく平等そのものではないと指摘します。得意な子と不得意な子が出て、手で速く書ける子に有利な形をしているからです。
一方で笠原さんは、現場の制約も無視できないと認めます。40人ほどの学級をいくつも受け持てばテストはやはり楽で、一人ひとりの考える過程を全部見ていたら仕事が回りません。笠原さんは普段の提出物を原則デジタルで集めていますが、勤務校の定期考査は紙に手書きです。
そのため笠原さんが考えたいのは、テストをやめるかどうかより、どれだけ過程を見るかです。例えば定期考査の比重を下げ、形成的な評価 ── 学習の途中で理解度や進み具合を確かめ、指導や学び方の改善に生かすための評価。単元末や学期末に成果を判定する総括的評価と対比されますの比重を上げる工夫はできるはずだと話します。
過程を見るという話は、生成AIの登場でより切実になっています。AIに頼めば整った文章が出てくるため、出来上がった提出物だけを見ても意味が薄れ、プロセスを評価する可能性が広がっています。
ただし笠原さんは、AIが評価を正反対の方向にも引っ張っていると指摘します。AIで不正されるくらいなら、目の前で時間を区切って手で書かせる一発のテストが確実だ、という方向です。
生成AIの登場
整った文章を誰でも出せるようになり、完成した提出物だけでは判断しにくくなる
方向1: プロセス評価
成果物ができるまでの過程を見る評価の可能性が広がる
方向2: 一発テスト回帰
監督下で時間を区切り、手書きさせるテストの重みが増す
懸念
手書きと制限時間で不利になる子が、さらに不利になる
笠原さんは、「字を丁寧に」は古臭い作法の話に聞こえて、実はど真ん中のテーマになってくると話します。世の中が一発テストに戻ろうとするほど、手書きの不利は大きくなるからです。
とはいえプロセス評価も万能ではありません。家で落ち着いて取り組める環境があるか、自分の考えを説明するのが得意かで、別の差が生まれます。手書きの不利がなくなっても、説明の不利が新しく生まれるだけかもしれないと笠原さんは話します。
笠原さんは、自分の授業で生成AIの文章が出てきたときにも似た迷いがあるといいます。普段から生徒の様子や書くものを見ているため、AIで書いたかどうかは飛躍からなんとなくわかりますが、それが表現の飛躍か考え方の飛躍か、悪意か勉強のチャレンジかは慎重に考える必要があるといいます。
普段の表現がつたなくても、AIを使ったらうまく書けたと喜んでいる生徒も一定数いるんですよ。
自分のアイデアが形になった喜びの方が先に来て、書くことに自信を深めていく生徒もいるんです。
笠原さんは、AIに書かせたこと自体を頭ごなしに否定してよいかは悩ましいと話します。字の話と同じく、測りたいのが考え方なら、表現の不利をAIが埋めている場面とも言えるかもしれません。ただ、どこに線を引けばよいかは今はわからないといいます。
点数を落とすなら、落とし方にも作法を
線引きがわからないという話を重ねたうえで、笠原さんはコラムの「丁寧に書こう」という呼びかけを、実務を考えればやらねばならないことだと、妥協しつつ受け止めます。丁寧な字は礼儀というより、伝えるための条件になってしまうという見方です。
ただ、その条件で点数を落とすならば、落とし方にももうちょっと作法があっていいんじゃない?って思うわけです。
オープニングで投げかけた、書くことに困難のある子に「丁寧に書きなさい」が届いたらどうなるかという問いに、笠原さんは自分の中で答えは出ていないと話します。定義が難しく数字もはっきりしないからこそ、割合や診断名の前に目の前の一枚の答案に立ち止まり、その場その場で考えていくべきだと締めくくります。
番組の最後に笠原さんは、採点する立場の人が読めるか迷う字に出会ったときどうしているか、コメント欄で教えてほしいと呼びかけます。国語の先生には読みづらい字も読める人が多いだろうとして、そうしたエピソードも歓迎しています。
あわせて、11月1日で第4回教育系ポッドキャストの日の期間が終わったことへの感謝と、年内の予告を今週中にVoicyで行う予定であることも伝えられました。2026年のレギュラー配信は残り8回だといいます。
まとめ
手書きが嫌いだと公言する国語教員の笠原さんは、読めない字への減点を「伝えるための条件」としては認めつつ、その線引きの曖昧さ、配慮のための証明が家庭に偏る構造、生成AIによる一発テスト回帰の流れを順に点検しました。結論は出さず、目の前の答案に立ち止まって考え続ける姿勢を示しています。
- 読めない字は答案の上では伝わらず、減点はやむを得ない面があるが、「読めない字」と「うまくない字」は分けて考えたい
- 手書きが「嫌い」なことと、書くことに「困難」があることは別物で、同じバツで扱うと困難のある子が取りこぼされる
- 書くことの困難を示す数字は調べ方で大きく変わり、定義も難しいため、目の前の答案から困難を把握する姿勢が大切
- 配慮に必要な証明の負担が家庭に偏ると、公平のための仕組みが別の不公平を生む
- 生成AIはプロセス評価と一発テスト回帰の両方向に評価を引っ張っており、手書きの不利は今後ますます重要なテーマになる





