国語の偏差値が一番低くても「苦手」と言わなかった理由
笠原さんはこの回で、自分で苦手を直そうとすることと、人に苦手を直せと言うことは同じ話なのか、という問いを立てています。きっかけは、10月26日から11月1日まで開かれる第4回「教育系ポッドキャストの日」です。
「教育系ポッドキャストの日」は笠原さんの番組が主催するイベントで、今回で4回目になります。共通テーマの「苦手克服」は、高校教員のトヨさんと学習塾講師のシロさんによる番組『教育をざっくばらんに語るラジオ ~いくざく~』のNo.186「苦手教科との向き合い方をざっくばらんに語る」の中で提案されたものです。
笠原さんは予告編として第116回でも苦手克服の話をしており、そこでは自分が苦手と向き合わずにのたうち回る「ずるいところ」をひたすら話したといいます。
苦手を話せと言われても、それを直視して向き合うのはやっぱり嫌なもんですよね。
自分の良くないところを直したい気持ちはあっても、誰かから直せと言われるとむっとしてしまう。笠原さんはこの感覚を出発点に、自分の克服と他人への要求の違いを考えていきます。
苦手は克服すべきという前提はどこから来るのか?
笠原さんは、「苦手克服」というテーマを聞くと、多くの人が「克服したほうがいいに決まっている」という前提で考え始めるはずだと指摘します。そのうえで、なぜ当たり前のように苦手は克服するほうがいいと考えてしまうのか、と問いかけます。
自分の苦手ならば、克服するかは自分で決められます。
ところが、人の苦手を見ている時は、克服した方がいいよと簡単に言えてしまうんですよね。同じ克服という言葉を使っていても、決めている人が全然違うわけですよ。
同じ「克服」という言葉でも、自分の苦手の場合は本人が決め、他人の苦手の場合は周りが決めている。笠原さんは、決めている人が誰なのかという違いに注目しています。
克服するかどうかを自分で決められる
「克服した方がいいよ」と周りが簡単に言えてしまう
まず自分の苦手から考えると、笠原さんは学生時代、基本的に苦手な教科はなかったといいます。正確には、苦手だと認めたくない気持ちがあり、意地でも「苦手」という言い方をしなかったそうです。
笠原さんの成績に濃淡があったのは事実で、偏差値ではむしろ国語が一番悪かったといいます。それでも、得意不得意が苦手意識には結びついていなかったと振り返っています。
「苦手だから捨てる」が当たり前になった学校
成績と苦手意識が結びつかないのは割と例外的なのだと、笠原さんが気づいたのは教員になってからでした。
笠原さんによれば、今の学校では生徒も教員も「苦手だから捨てる」と言いがちです。背景には、昔に比べてカリキュラムオーバーロード ── 学校で教える内容や科目が増えすぎて、教員にも生徒にも負担が過剰になっている状態を指す言葉です気味で、科目負担が重くなっていることがあるといいます。
苦手かどうかって、点数だけで決まっているわけではないんでしょうね。自分に苦手という札をかけるかどうかの方が多分大きいんじゃないかな
笠原さんの見立てでは、苦手かどうかは点数よりも、自分に「苦手」というラベルを貼るかどうかで決まる部分が大きいということです。
人付き合いだけは「苦手」とはっきり言える
一方で笠原さんは、今の自分に苦手なものがないわけではないと話します。学校の教科とは別に、人間関係はまるでダメだといいます。
自分はまあ人間関係がまるでダメですね。懇親会みたいな場所は特にダメで、大体壁の花になってますね。
今年の夏の教育セミナー後の懇親会でも、笠原さんは自分からまったく話しかけに行かなかったそうです。自分のことを話そうとすると、全部ちゃんと話したくなって話しすぎ、しかも相手に伝わらない話が多くなるといいます。
そのため、黙っているほうが「メンパ」、つまりメンタルパフォーマンスとして良いと笠原さんは話します。教育業界の人が相手だと価値観のズレが大きくなりがちで、なおさら黙ることが増えるそうです。
笠原さんは、教科は成績が悪くても苦手と言わなかったのに、人付き合いははっきり苦手だと言ってしまう、と自分の矛盾を認めています。そして人付き合いについては、あまり改善するつもりがないといいます。
苦手なままの自分でなんとかなってるから別にいいかなと。
まあ、そういう甘えがあるから良くならないとも言えるんですけどね。
「書くのが苦手」な生徒の原因は一つではない
ここから笠原さんは、生徒の苦手に話を移します。国語でよく聞くのが「文章を書くのが苦手です」という声です。
笠原さんは、書くことが苦手な生徒の原因は一つではないと指摘し、3つの可能性を挙げます。原因が重なっていることもあり、原因が違えば本来打ち手も変わるはずだといいます。
| 原因 | 内容 |
|---|---|
| 1つ目 | 文章の組み立て方などの技能がまだ十分に身についていない |
| 2つ目 | 以前うまくいかなかった経験から、書くこと自体に抵抗がある |
| 3つ目 | 時間の取り方や課題の出し方が、その生徒に合っていない |
このうち笠原さんが最も重く見ているのは3つ目の原因です。本来は授業設計のミスであるはずなのに、書けないのが子どものせいにされ、子どもが自信を失っているのではないかと考えています。
3つ目の設計の問題が子供のせいにされた途端に、2つ目で挙げた文章を書くことの抵抗感というものに変わっていくわけなんですよね。
設計の問題
時間の取り方や課題の出し方が生徒に合っていない
子どものせいにされる
書けないのは本人の問題とされ、自信を失う
抵抗感へ
書くこと自体への抵抗感が育ってしまう
笠原さん自身、第116回で、子どもの頃に連絡帳のことで嫌になるほど指導されて手書きが嫌いになった話をしています。指導されるほど書きたくなくなる順番には身に覚えがあるため、気をつけるべきだと話しています。
自由に書かせると、生徒は苦手を意識せずに書き始める
笠原さんは、もっと自由に書かせて、人に喜んで読んでもらえる経験を積めば、書くことが苦手だと思わせないで済む方法があるのではないかと考えています。
そのため笠原さんはライティングワークショップ ── 生徒が書きたいことを選んで書き進め、互いに読み合ったり助言を受けたりしながら書く力を育てる授業法ですの実践に関心があり、書き慣れの実践からも多くを学んだといいます。ライティングワークショップは、ざっくり言えば生徒が書きたいことを書いていく授業のやり方です。
ライティングワークショップは、日本では『作家の時間』という本でまとまった形で紹介されています。国語の授業が週3回あった頃は、笠原さんもライティングワークショップに近い授業を回していたそうです。
書き慣れの実践は、京都の高校の先生だった方によるもので、生徒が自由に書いたものを文集や本にまとめてみんなで読むというものです。笠原さんは、そこに書くことの喜びがあると話しています。
笠原さんの授業でも、最後に振り返りのコメントを書いてもらっています。授業の振り返りを厳密に書かなくてよく、何を書いてもいいと伝えているそうです。
生徒としては、昨日見た夢の話だとか、今朝食べてきたご飯の話だとか、最近の恋愛事情だとか、何だっていいんだみたいな形で書いてくれるんですが
何でも書いてよい振り返りでは、生徒が気負わず、苦手か得意かを意識しないで書くため、分量もそれなりに出てくると笠原さんは話します。
評価にさらされることによって、苦手というような意識を高めてしまうのは残念なことですよね。
紙と内線に頼る教員のICT苦手をどう見るか
笠原さんは、ちょっと嫌味な話になると断ったうえで、教員の苦手の話をします。教員は本来、生徒の苦手克服を支援する立場にいるはずです。
ただし笠原さんは、教員が自分の得意なことについて、知らず知らずのうちに他人にも同じ水準を求めていないかと疑問を持っています。自分の好きな科目や得意な科目を担当教科にしている先生が多いからです。
ICTや生成AIについて笠原さんは、使えない、使いたくない、使える条件が整っていない、の3つは本来分けて考えるべきだと言います。そのうえで自分自身は、知らず知らずどころか、はっきりと思っていることがあると明かします。
教員に対しては仕事なんだから、新しい技術が入ってきたら自分でちゃんと勉強してほしいなって。
具体例として笠原さんが挙げるのが、校務での紙と内線です。紙じゃないと読まない、画面はわかりづらい、メールは見落とすといった声がある一方で、紙はなくしたり、忘れたり、情報が流出したりしやすいと指摘します。
なくしたり、忘れたり、情報流出したりしやすい
検索ができ、リマインダーも設定できる
電話について笠原さんは、さらに嫌だと話します。かけた瞬間に相手の仕事に割り込んでしまう感覚があるからです。
笠原さんは第116回で、苦手と向き合うとは自分のことを自分で決め、その結果の責任を引き受けることだと話していました。紙で読むと決めるのは本人の自由でも、紙をなくすことや相手にも紙を求めること、電話で割り込むことは周りにも影響すると考えています。
デジタルを求めるのはブーメランなのか?
笠原さんは、第116回で手書きを強要されるとムッとすると話していたのに、自分もデジタルを強要しているではないか、というブーメランを自覚しています。
それでも笠原さんは、議論のレイヤーが違うと考えています。出願ですら全てデジタルになっている時代に、手書きや紙が好きだからといって学校の中だけデジタルを使わないのは、なかなか通らないのではないかという見方です。
生徒の苦手と大人の苦手を比べると、笠原さんは、生徒の苦手については本人より教育の仕組みのほうを疑っていると話します。一方、教員のICTの苦手には、仕事なのだからもう少し頑張ってほしいと感じているといいます。
子供のできないことに関しては鬼の首を取ったように取り上げて愚痴を言っているんだから、まあその時間があるんだったら勉強してほしいなと
まあこれ以上言ったら消されるので、ちょっとやめておきます。
笠原さんはリスナーにも、他人の苦手を本人の問題として見ているのか、環境や仕組みの問題として見ているのか、相手が子どもか大人かで見方が変わっていないか、と問いかけています。
本人よりも教育の仕組みのほうを疑う
仕事なのだから自分で勉強してほしいと求めたくなる
克服する、補う、手放す。苦手との3つの向き合い方
では苦手とどう向き合えばよいのか。笠原さんは選択肢を3つくらいに分けられると考えています。
笠原さん自身、紙の提出物を求めず集めないのは、紙の管理がまったくできるようにならないからだといいます。自分の苦手を道具や環境で補っている例です。
ただし学校の授業には、必ず身につけてもらわなければならない内容もあります。笠原さんは、そうした内容で問われるのは克服を求めること自体ではなく、目標の設定と支援が妥当かどうかだと考えています。
国語で克服してほしいのは「自分の言葉で表現すること」
国語では「流暢に話せ」「きれいなまともな日本語で書け」といった目標を素朴に立てがちだと笠原さんは指摘します。もっと抽象化して、国語の目標や身につけるべき能力を論じられるはずだという考えです。
笠原さんが、国語で苦手だと思っていてもやるべきだと言わなければならないと考えているのは、その人自身が自分の言葉で何かを表現することです。
どんなにつたなくても、漢字や表現技法が全然使えない、書けなかったとしても、自分で表現しようとする気持ちと、自分の意見は自分で表現するという責任を引き受けるみたいな姿勢
逆に、漢字が書けるといった知識は後回しで大丈夫だと笠原さんは話します。伝えたいことを何度も書いて表現するうちに、必要な知識は結びついて学べるはずだと「割と楽天的に」考えているそうです。
| 向き合い方 | 対象 | 考え方 |
|---|---|---|
| 克服してもらう | 自分の言葉で表現すること | 苦手でもやるべきこと |
| 優先度を下げる | 漢字などの知識や正しさ | 後から追いつけばよい |
| 補う | 知識や正しさ | 環境によってうまく補えればよい |
だから授業は、自分を表現したい、伝えたいと思える場にしなければならないと笠原さんは考えています。書くことが苦手だと思わせない方法を探る話と、考え方の根っこは同じだといいます。
笠原さんは、自分にとっての苦手と他人にとっての苦手は、同じ言葉で呼んでいても分けて考えたほうがいいと話します。
学校は苦手を自覚する場か、試行錯誤する場か
最後に笠原さんはリスナーに、これまで克服しようとしてきた苦手は、自分で克服したいと思ったものか、それとも誰かから克服すべきだと言われてきたものか、と問いかけています。
エンディングでは、第4回「教育系ポッドキャストの日」が10月26日から11月1日まで開催されていること、期間中にハッシュタグ「#教育系ポッドキャストの日」を付けて配信すれば今からでも参加できることが案内されました。
笠原さんは、今の学校教育の現場が、苦手に直面させられる機会が多く、「自分はこれができない」と可能性を削ぐ認識を育てるあり方になっていないかと懸念しています。
苦手を自覚する場というよりは、苦手を試行錯誤できるような場であればいいのになぁなんてことを思っています。
まとめ
笠原さんは、自分の苦手と他人の苦手を同じ「苦手」として扱わず、誰が問題だと思い、誰が克服を望んでいるのかを分けて考えることを提案しています。生徒の苦手は仕組みの問題として捉え直し、学校を苦手を試行錯誤できる場にしたいという考えが、この回の軸になっています。
- 自分の苦手は克服するかを自分で決められるが、他人の苦手には「克服した方がいい」と簡単に言えてしまう
- 苦手かどうかは点数だけでなく、自分に「苦手」という札をかけるかどうかで決まる部分が大きい
- 書くことの苦手は、授業設計の問題が子どものせいにされることで生まれている可能性がある
- 苦手との向き合い方には、克服する、補う、手放すの3つがあり、学校では目標設定と支援の妥当性が問われる
- 国語で克服してほしいのは自分の言葉で表現することで、漢字などの知識は後から追いつけばよいと笠原さんは考えている




