ドライブデートの帰りに出会ったフリーペーパー
この回は、日曜日のドライブデートの話から始まります。二人はカレーとコーヒーのお店に立ち寄り、台湾茶を飲み、最後に花を買って帰ってきたそうです。
そのお店で出会ったのが、フリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』でした。トイレに立ったゆーちゃんが、棚に置かれたチラシやフリーペーパーの中からふと手に取ったのがきっかけだったといいます。
(店で出会った雑誌の)その名も「フリースタイルな僧侶たち」。
面白すぎるよね。
このフリーペーパーはお坊さんたちや、その活動に賛同した人たちで作られているものです。インスタグラムやウェブサイトからは、過去のバックナンバーもPDFでダウンロードできるそうです。
妻がゆーちゃんに、どのあたりが気に入ったのかを尋ねます。ゆーちゃんは、ジャケットも気になりつつ、特集タイトルの「傷つき、傷つけ」に惹かれて手に取ったと話します。
特集の「傷つき、傷つけ」っていうのがなんとも気になって手に取ってみた。ほんとこれなんか偶然の出会いってのはすごく(いいなと思って)。
そもそもZINEって何?夫婦が惹かれる自主制作の魅力
ゆーちゃんは、お店の人が「ZINE」と呼んでいたと補足します。二人は前々からZINEが好きで、自分たちの結婚式のコンセプトブックとしてZINEを作ろうとしていたこともあるそうです。
ここで妻が、ZINEを知らない人のために解説を入れます。
ZINEとは個人や少人数が独自のテーマで自由に制作発行する自主制作の小冊子です。写真、イラスト、エッセイなど、内容も形式も自由で、手作り感のあるアートな表現媒体として若者を中心に人気を集めています。
二人は、大宰府で毎年開催されている「pages」というイベントにも足を運んでいるといいます。日本だけでなく世界のZINEやアートブックが集まる場で、いつか自分たちも作りたいと話しているそうです。
まあクリエイション、なんか(何かを)作るっていうのが我々多分好きなんだよね。
「傷つけば傷つくほど強くなれる」への違和感
ここからは、ゆーちゃんが特に響いた記事の話になります。文筆家・若林リオさんの「傷つけたり傷つけられたりした話」という文章です。
「傷つけば傷つくほど強くなれる。人生で何度耳にした言葉だろう」っていう言葉から始まっていて。
ゆーちゃんは、この言葉の背景に「人は痛みでしか成長できない」という考え方があると指摘します。体罰や叱咤激励、厳しい指導が肯定されてきた根っこには、「傷つけることには意味がある」という発想があるといいます。
(みんな)傷つくことにもね、意味付けをみんなしようとする。傷ついたことに。
ゆーちゃんは、その意味付けは傷つけた側の事情ではないかと話します。傷つけられた方は意味付けなどしていないのに、傷つけた方が勝手に意味を与えている、という構図です。
一方で、若林さんの文章には別の一節もあったといいます。傷つけた人は覚えていないだろう、という話から、自分自身への問いへと転じる部分です。
「なんか自覚のないところで私も誰かを傷つけているのではないだろうか」「誰も傷つけずに生きている人などいるのだろうか」っていう、なんか言葉もまた一つの真実というか。
自分も傷つけられた経験を繰り返したくない。でも、誰も傷つけずには生きられない。その難しさに立ちすくみながら読んだと、ゆーちゃんは振り返ります。
もうこのページをなんかね、もう立ちすくみながら読んだみたいな。「おお、いい、いいな」みたいな。なんか文章に一瞬で引きつけられて。
利他の主体は「受け手側」にあるという発見
ゆーちゃんが次に紹介するのは、政治学者・中島岳志さんとのインタビュー記事です。ゆーちゃん自身、「利他的になろう」という言葉をよく使うそうですが、そこに書かれていた一節が印象に残ったといいます。
その中の一つに、なんか「利他の主体は受け手側にある」ってことが書いてあって。
どれだけ利他的に振る舞ったつもりでも、それを利と感じるか、恩と感じるかを決めるのは受け手側だ、という考え方です。恩着せがましく何かをやっても、それが利他になるかどうかは自分では決められません。
ゆーちゃんは、この視点が特集「傷つき・傷つけ」の本質を突いていると感じたようです。単純に「言葉で傷つけられた」という話ではなく、もっと入り組んだところに傷が生まれる、という気づきです。
「お前のために言ってやったんだ」みたいな、なんかそういうことが結果的に傷として残るんだな。
恩を着せられたことが、結果的に傷として残る。そんな本質的なことが、20ページほどの薄い冊子にギュッと詰まっていて、ゆーちゃんは「すごいな」と感嘆します。
なぜ「加害性」を気にしてしまうのか
妻は、ゆーちゃんがなぜこの特集に引きつけられたのかを深掘りしていきます。ゆーちゃんは、自分自身が被害を受けた経験もあるが、それ以上に自分の加害性を気にしていると打ち明けます。
自分の加害性みたいなものをやっぱ気にしてるんだよね、自分が。
ゆーちゃんは、自分を「面倒くさい男」「熱い男」と表現しつつ、人のために行動してきたつもりだと語ります。今年40歳になろうとしている中で、自分の加害性に気づかないまま年を取りたくない、という思いがあるそうです。
自分の加害性に気がつかずに年取りたくないなって常々思ってるんだよね。
先輩から傷つけられてきた経験を、下の世代に引き継ぎたくない。でも無意識にやってしまっているのではないか。そんな懸念が、この特集と強く重なったといいます。
これに対して妻は、加害性を気にすること自体が、人との距離の近さの表れではないかと返します。
(加害性を気にするのは)よほど他人に対して自分が影響あるであろうことをしたなっていう自覚があったりとか、結構踏み込んでるな、他人に対してみたいな、っていう人が思う感覚。
妻は、「程よい距離感」という言葉についても、独自の見方を示します。
程よい距離感っていうか、多分それって結構遠いんだよね。程よくないんだよね、多分。
遠い距離で人と付き合う人は、そもそも自分の加害性を気にする次元にいない。ゆーちゃんは程よい距離感の一歩内側で人と関わり続けているから、加害性を気にするのだろう、という分析です。
支援職が抱える「これでよかったのか」という不安
ゆーちゃんは、その距離の近さは対人支援職の宿命でもあると話します。クライアントや患者に対して、一歩踏み込まなければならない場面があるからです。
距離感、境界線を越えなきゃいけない時もあれば、越えちゃいけない時もあるって、その絶妙なラインの中で探りながら(やっている)。
その人にとって本当にプラスになるのか。ゆーちゃんは、それを常に自問自答しながら関わっていて、いつも不安を抱えていると語ります。それでも、やらないわけにはいかないというせめぎ合いがあるそうです。
妻は、そうしたゆーちゃんの不安や危うさが、外からはほとんど見えないと指摘します。
なんかゆうちゃん、その不安さとか、その自分が自分に対して思う危うさみたいなのって、あんまり外から見えないよね。
そのせいで、何も考えずに突き進んでいる人のように誤解され、冷ややかな目で見られることもあると妻は言います。妻から見れば、衝動的に進むエネルギーと同じくらい、不安や思慮深さも持っているのに、それが一番見えにくいのだそうです。
ゆーちゃんは、隠しているつもりはないと答えます。ただ、仕事の場では相手を不安にさせないために、あえて見せないようにしている面もあるといいます。
(仕事では不安を)相手に見せちゃいけないっていうのもあるじゃない。不安にさせちゃいけないから。
中2で突きつけられた「ナギホはいつも正しいよね」
今度はゆーちゃんが妻に、診療の中で「これでよかったのか」と思う瞬間はないかを尋ねます。妻は、ずっとあると即答し、そう思うようになった明確なきっかけを語り始めます。それは中学2年生のときの出来事でした。
自分が独り善がりでよかれと思って、それこそさっき言った利他だよね。人のためっていう利他。と思ってやった、言ったことが、受け取る側からすると、それってすごく何か脅かされるような感覚を与えてしまった。
正義感の強かった妻は、不登校気味のクラスメイトを「その子のため」という名目でいじっている子たちに対して、いたたまれなくなって声をかけたといいます。
「それって、なんか自分が楽しむためにやってるだけじゃん」みたいな。「もう(そこに)行かない方がいいんじゃない?」みたいなことを言ったのよ。
すると、その子から返ってきた一言が、妻の中に今も残り続けているそうです。
「なんかナギホはいつも正しいよね」って。なんかその時の顔が忘れられない。
妻は、その子の震えた表情に、多くのことが詰まっていたと振り返ります。何かに怯えながらも、自分を守るために便乗せざるを得なかった弱さです。
やられている側のためを思い、加害者側の子にも「あなたはそんな子じゃないでしょ」と良かれと思って言った。でもそれが、ギリギリで自分を保とうとしていた相手を、なおさら追い込んでしまったのではないか。妻は、その感覚が忘れられないと語ります。
だからこそ、自分が言った一言や行動が、タイミングや言い方を間違えると、相手の何かを脅かしてしまう。そんな怖さを、妻はそのとき強く感じたといいます。
良かれと思った言葉が、相手を傷つけるとき
ゆーちゃんは、妻の中学時代の話を、学校のスクールカーストの構図に重ねます。自分にそのつもりがなくても、相手からは「持っている側」からの言葉に見えてしまうことがある、という指摘です。
さらにゆーちゃんは、支援職も構図としては同じだと続けます。支援する側はセーフティゾーンにいて、相手は支援を必要とする側にいる、という非対称の関係です。
(支援職が)良かれと思って、正義感を持って言った言葉が、「いいよね、あなたは、あなたはお金に困ってないんだから」とか、絶対ありうるわけだし。
利他の精神でやっているつもりでも、相手にはそう受け取られないことがある。ゆーちゃんは、その本質的なところを、この短い記事が突いていると改めて感じたようです。
妻は、それこそが僧侶たちの作る冊子らしさだと話します。ここでゆーちゃんは、医療者との違いに話を広げます。
彼らには言葉しかないね、宗教家っていうのは。医療という道具がないからね。
医療者は「こうしたらこうなる」という医学的なストーリーを描けるけれど、宗教家には言葉しか武器がない。だからこそ、その言葉はすごく精錬されているのだろう、とゆーちゃんは推し量ります。
「未開封の手紙」という利他のかたち
妻は、中島岳志さんのインタビューで特に面白かった一節を読み上げます。「すみません。飲みに誘ったら迷惑ですよね…」というタイトルの記事の、利他についての部分です。
利他には決定的な事後性があります。ある行為がなされた瞬間には、それが利他になるかどうかはわかりません。それがいつか利他として受け取られる可能性があるだけという状態です。
考えてみると、誰しもが自分の中に未開封の手紙がたくさん溜まっているのかもしれませんね。
ある行為を「未開封の手紙」に例えるこの発想に、ゆーちゃんも反応します。「お前のためだ」という言葉が、その瞬間は届かなくても、10年後、20年後に意味を持つことがある、という話です。
「あの時のあの先輩のおかげで」みたいな。30年後にそれが発動する時だってある。
ゆーちゃんは、昔の熱血教師ドラマの「ビンタ」を例に挙げます。やられた側はその時「うっせー」と思っても、何十年後かに「あの一言で目が覚めた」と受け取り直すことがあるのではないか、という見立てです。
ただ、ゆーちゃんはそこで「そういうこと?ではないか。違うのか」と自ら立ち止まります。妻は、そこに違和感があると応じます。
未開封にできる傷と、できない傷
妻は、「傷だ」とはっきり感じた出来事は、蓋をしても忘れられないと話します。ずっと見ないようにしてきたものではあっても、すぐに思い出せてしまう、というのです。
本当の傷って、そういや利他性もない傷って、多分未開封ではいられないっていうか、ずーっと多分、すぐにでも思い出せる。
妻は、「未開封の手紙」になれる条件を整理します。少なくとも受け手側が、その出来事に強い意味付けをせず、「何だったんだろう」くらいの状態で記憶の倉庫にしまっておけること、だといいます。
そうしておけば、いつか何かの拍子に倉庫から出てきて開封され、「あの時のあれは良かったんだ」と思える。それが、この記事の言う「未開封の手紙を開けていく」ことなのだろう、と妻は解釈します。
一方で、利他性のかけらもない傷は、そもそも未開封の手紙にすらならない。だから、簡単に「あの経験が糧になった」とはならない、と妻は線を引きます。
未開封にはできないレベルがあるよね。
発信すれば、誰かを傷つけずにはいられない
ゆーちゃんは、妻に勧められて聞くようになったラジオ『チャポンといこう!』の話を持ち出します。そこで語られていた「発信することの意義」が、この話とつながるといいます。
発信することは誰かを傷つけないことはできない。でも誰かを傷つけることを恐れたら何も発信できない。
ゆーちゃんは、支援や教育、後進育成など、他者に関わる行為には常に「傷つけうる」可能性が伴うと考えています。無関心でいるのではなく、より良い関係を築きたいと思う以上、お節介や恩着せがましさは避けられない、というのです。
だからこそ、それを避けて通れない前提で、どうすればいいかをいつも考えていると、ゆーちゃんは話します。
傷つけうる前提で、ゆーちゃんが心がけていること
ゆーちゃんは、自分なりに心がけていることをいくつか挙げます。まず、相手が求めないことはなるべくやらず、できる限り相手の希望を聞くようにしているそうです。
また、一対一のやり取りは「やりすぎてしまう」ことがあるため、なるべく場作りを意識しているといいます。その場の中で相手が自然と感じ取ってくれればいい、という考え方です。
相手がそれを欲した時に常に提供できるように、自分はそれを蓄えておくとか、磨いておくみたいなことはやってるつもりかな。
ラジオやnote、Xといった発信も、その一環だといいます。相手が望んだときに見られるよう準備しておく、というスタンスです。
- 相手が求めないことはなるべくやらない
- 一対一ではなく、場作りを意識する
- 相手が欲したときに提供できるよう、発信や自分を蓄えておく
自覚することが、自分も他人も守る
ゆーちゃんに問われた妻も、自分が心がけていることを言葉にしていきます。妻がまず意識しているのは、言葉を飲み込むことだといいます。
今のこの人に、このタイミングで、この場で、この瞬間、この言葉を使って言うことに本当に意味があるんだろうか(と思う)。言いたいけど、今じゃないとか。
妻は、たとえば3年後に伝えたほうがこの人にとっては良さそうだと感じたら、あえて飲み込むこともあると話します。
ただし妻は、その判断すら独り善がりかもしれないと、すぐに付け加えます。今言ったほうが良かったかもしれないし、3年後に言うのが正解かも分からない。結局、正解は誰にも分からないのです。
それも独り善がりじゃん、その判断すら。正解はやっぱりわからない。
最後に妻は、二人のような「程よい距離感が難しい人間」だからこそ大事なことをまとめます。傷つけられるかもしれない、傷つけるかもしれないと思いながら、それでも一歩踏み込む。その自覚こそが大切だ、というのです。
自覚することが、自分も他人も守る。取り留めのないぼやきでした、という言葉とともに、この回は締めくくられます。
まとめ
一冊のフリーペーパー『フリースタイルな僧侶たち』の特集「傷つき・傷つけ」をきっかけに、支援職の夫婦が、利他や加害性、人との距離感について語り合った回でした。良かれと思った言葉が誰かを傷つけうること、それでも人に関わることをやめないための姿勢が、それぞれの経験とともに語られています。
- 「傷つけば強くなれる」という意味付けは、傷つけた側の事情かもしれない、という視点
- 利他になるかどうかを決めるのは受け手側で、行為には決定的な事後性がある
- 妻が中2で言われた「ナギホはいつも正しいよね」が、良かれと思う独り善がりを突きつけた
- 発信も支援も、誰かを傷つけずにはいられない。だからこそ場作りや準備で工夫する
- 傷つけうる前提で関わること、そしてその自覚こそが、自分も他人も守る





