なぜ瞑想の体験会に行くことになったのか
この回でしもちゃんは、大阪で参加したヴィパッサナー瞑想の体験会について話します。まずは、そこにたどり着いた経緯からのスタートです。
もともとのきっかけは、番組で何度も語られてきたメンタルの不安定さでした。しもちゃんはその中で唯識という仏教の一派の考え方にたどり着いたと振り返ります。
唯識を調べるうちに瞑想にも興味が広がり、しもちゃんは家でも自己流で瞑想をするようになったと言います。ただ、それが正しいのかどうかがわからなかったそうです。
独学すぎてって。
そうです。
そこで頭に残っていたのが、学生時代のインターン先で一緒に働いていた人の話でした。ヴィパッサナー瞑想に行ったものの、2日ほどで逃げ出してしまったというエピソードです。
(ヴィパッサナー瞑想は)すごい映画監督とかも来るとこみたいで。(友人は)2日ぐらいで本当に逃げ出しちゃってんな、みたいな言ってて。
その話から、しもちゃんの中でヴィパッサナー瞑想は「ちょっとかっこいいもの」として記憶に残っていたと言います。そのワードを頼りにネットで検索したそうです。
検索でたまたまヒットしたのが、大阪でその日に開かれる体験会でした。ヴィパッサナー瞑想は、まず体験会に参加しないと本番に参加できない仕組みだったと言います。
収録予定だった土曜の午前を調整してもらえたことで、しもちゃんは「今日行くしかない」と決めます。この行動の背景には、最近意識している考え方があるそうです。
最近、そのなんか波に乗るっていうのをなんか大事にしてて。「行きたいな」ってちょっと思ってる時に、(調整して)行けるんちゃうかな、みたいな。
和室に集まった参加者たちと、集団瞑想会の空気
会場は、男女共同参画センターのような一般的な公共施設だったとしもちゃんは説明します。中は20畳ほどの和室でした。
10時開始で、しもちゃんが9時55分ごろに着いたときは席が半分ほど。終わる頃には満席になっていたと言います。集まっていたのは、それぞれ初回の体験会に来た人たちでした。
おーほうほう、なんかちょっと怪しい感じしてきた。
参加者の年齢層は40代以上の女性が中心で、しもちゃんが一番若いくらいだったそうです。中には10年以上、自分で瞑想を続けている人もいました。
(前に座っていた人は)瞑想を自分で10年やってて、「瞑想めっちゃ気持ちいいんすよね」って言ってるような女性もおったりして。
会では仏教とは明言せずに、「業」などの言葉を交えながら瞑想のやり方が説明され、隣の人と話すワークショップもあったと言います。事前の内容説明はなかったそうです。
体験会の最後に本番の案内はあったものの、別途申し込みが必要そうだったこともあり、しもちゃんはこの日で一区切りつけて帰ってきたと話します。
結局、(瞑想は)場所の提供とかあるかもしれんけど、まあ自分でやっていくしかないな、って思って。
何かに頼るのではなく、結局は自分でやっていくものだと感じたしもちゃんは、集団よりも一人のほうが落ち着くと考え、今後は一人で続けることにしたと言います。
爪や髪に意識を向けて気づいた「自分の境界」
ここからは、しもちゃんが実際の体験で得た気づきの話に移ります。会では姿勢を整えたあと、身体の各部に順番に意識を向けるよう促されたそうです。
(講師から)髪の毛に一回意識向けてください、とか。自分の手の爪に向けてください、足の爪に向けてください、っていうのがあったんですよ。
半信半疑でやってみたしもちゃんが感じたのは、自分の意識は自分の内側だけで感じているわけではない、ということでした。
(爪や髪に意識を向けてみて)自分の意識って別に自分の中だけで感じてるわけじゃないんやな、と思ったんですよ。
この気づきは、しもちゃんが読んでいた唯識論の問いと重なります。「爪は自分か」という問いです。
爪が付いている状態なら「自分」と答える人が多い一方、剥がれ落ちたら「自分ではない」と答える人が多い。しもちゃんは、付いているかどうかで自分かどうかが変わるのはおかしいと指摘します。
(言いたいのは)自分っていう境界線はないし、自分なんてものは証明するの難しいですよね、ってことなんですけど。
その前提が頭にあったため、爪に意識を向けられるなら、体の外でも中でも関係ないと感じたと言います。いなけんは、これを幽体離脱のように俯瞰でボディスキャンする感覚だと言い換えました。
つまり、意識を向ける行為は体の内か外かという話ではなく、もっと抽象的なものだという理解です。しもちゃんもこの整理に同意します。
この気づきをもとに、しもちゃんは寝る前に置いてある漫画に意識を向けてみたそうです。すると、いつもより散漫だった思考がキュッとまとまった感覚があったと言います。
小説を読むことは瞑想なのか
ここでいなけんが、しもちゃん一行と関西で会った帰りの新幹線で小説を読んだ話を持ち出します。普段は電子書籍派で、紙の本は久しぶりだったそうです。
いなけんが読んだのは、司馬遼太郎の歴史小説『坂の上の雲』でした。以前ドラマにはまり、小説は途中で挫折したためリベンジしたかったと言います。
いなけんは、小説を読むこと自体が瞑想体験のようだったと語ります。文字を追うだけでなく、その描写を頭の中に情景として投影する感覚があったからです。
小説読んでるようで、これはなんか、自分の集中力を高めているというか、瞑想体験をしてるというか、っていう感覚を得た。
いなけんは、この情景を投影する力は誰にでもあるものではないと考えています。漫画を読めない友人がいて、その理由が「コマを読む順番がわからない」ことだったという体験を挙げました。
文字情報から頭の中に描写を投影するのは、脳にとって高度な作業だといなけんは言います。しもちゃんも、情景を浮かべるにはある程度のインプットが必要だと応じます。
情景浮かんでくるってことは、ゼロから作るわけじゃなくて、過去にある1とか2の素材を、こう使い合わせて100を作るじゃないですか。
そこから話は、ショート動画のような受け身のコンテンツと、小説のように能動的に情景を組み立てる読書との対比へと広がっていきました。
文字情報から情景を頭の中に投影する。過去のインプットを組み合わせて能動的に世界を組み立てる作業になる
情報が向こうから流れてくる。終わりがなく永遠に続くため、受け身のまま時間が過ぎていきやすい
意識の使い方と「信じないで確かめる」というスタンス
しもちゃんは、これまで集中できず思考が散漫になると感じていたことを振り返ります。しかし瞑想での気づきが、その捉え方を変えたと言います。
本来は触覚のない爪や髪にも意識を向けられるなら、それは自分がそう思っているだけのこと。だから、考えたいものを定めてそこへ意識を動かせば問題ないのではないか、という結論です。
いなけんは、これを眼鏡や車の例で受けました。眼鏡自体には触覚がないが、目の延長として身体の一部のように意識を向けられる、という話です。
(ペーパードライバーだけど)車運転してたら、車も体の一部になんか同化するみたいな。
自分の体ではないものすら意識の一部になりうる。その延長で考えると宇宙全体が自分になる、というところまで話は広がり、しもちゃんはそれが有意識の話につながると受け止めます。
こうした体験を踏まえ、しもちゃんは今の時点での瞑想の解釈を語ります。それは、好きなことを自分の倫理観に従って考えるためのトレーニングだ、というものです。
人からどう思われたらどうしよう、とか、俺このままでいいんか、とか考えることあるけど、そんな考えてもどうでもいいし。(それは)まやかしやから。
体験会でしもちゃんが特に良かったと感じたのが、講師の最初の一言でした。「私の言うことは信用しないでください」という言葉です。
しもちゃんは、このスタンスを誰に対しても持てたらいいと感じたと言います。上司でも友達でも恋人でも、相手の言葉を正解ではなく一つの意見として捉える、その第一歩になったそうです。
いなけんも、かつての上司の言葉を思い出しながらこれに共感します。当時の年齢に自分が近づいてわかったのは、上司も絶対の答えを持って言っていたわけではなかった、ということでした。
自分からしたら絶対だと思う人も、絶対的な解があって何かを言ってるってわけじゃなくて、なんかAかBかを選ぶ時に、(BよりはAかな)ぐらいで言ってる。
ただし、しもちゃんはただ無視するのではなく「信じないで確かめる」というアプローチのほうがいいと補足します。一旦は言うことを聞いて、自分で確かめてみる姿勢です。
「今何をしていますか?」でトイレにスマホを持っていかない
もう一つ、しもちゃんが使えそうだと感じたのが「今何をしていますか?」という問いかけでした。自分にこれを問うと、今ここに戻れると言います。
具体的な例としてしもちゃんが挙げたのが、トイレでのスマホです。いつもは無意識に携帯を触っていたところ、ふと「今何してるっけ?」と考えたそうです。
(トイレに行こうとした時に)今何してるっけ?って、まあふと、考えて、いやトイレしたいんや、と思って、(スマホを)携帯置いていくとか。
いなけんは、これは未来を見越した今の話ではないかと問いかけます。トイレに向かう自分から逆算してスマホが不要だと判断しているように見えたからです。
しもちゃんは、結果的にそう見えるが過程は違うと答えます。まず「今何してるっけ」と点で今に戻り、そこから「じゃあ携帯はいらない」と逆算していく、という順番です。
戻ってくる瞬間だけは点なんですよ。
いなけんは、無意識のうちに何かに操作されるように携帯を触ってしまう感覚に共感します。「今何してますか」と意識を向けない限り、気づけばSNSを眺めている、というわけです。
しもちゃんは、この問いかけを実際にやってみると、携帯が知らない間に生活に入り込んでくる怖さを実感したと話します。ここで持ち帰りたい核は、携帯は無意識に生活へ入り込んでくるという点です。
ショート動画のように終わりのないコンテンツは、本能を勝手に発火させてくる。だからこそ「今自分は何をしているのか」と自分をスキャンすることが大事だ、と2人は語り合いました。
「よく生きる」とは何か、資本主義と幸せをめぐる問い
最後に話題は「よく生きる」という問いに移ります。しもちゃんは、仏教や瞑想を考え続けても結局は「どう生きたらいいか」にたどり着くと言います。
しもちゃんは、ブッダの五戒も砕いていくと「どう判断したらいいか」という話になると整理します。その上で、一つの目安として資本主義の数字を挙げました。
資本主義のいいところって全部数字で表せれるから、やっぱお金、収支が、まあプラマイゼロ、もしくはプラスになってる状態、(が今の社会でよく生きること)なんじゃないかな。
これにいなけんは真っ向から否定したいと反応します。ただしすぐに、しもちゃんが補足を加えます。狙いは常に右肩上がりを目指すことではなく、下振れしない状態を保つことでした。
いなけんは、数字は具体に見えて実は究極の抽象だと指摘します。何かを数値化することは、そこで削ぎ落とされた価値を捨象していることでもある、という見方です。
資本主義における上がってるっていう数字で表せる、例えば資産額とか年収とかが上がってるって、本当に価値と幸せみたいなベクトルが右肩上がりとリンクしてるんですか?
しもちゃんは、これは一般論ではなく、自分のように「軸はあるようでない」と考え続ける人に向けた話だと補足します。軸がふにゃふにゃしている人は、まず数字に乗ってみると考えやすい、という提案です。
(数字主義に乗るのも)ぶれ続けると思うんですけどね。数字主義の時もあれば、やっぱ自分の価値観大事やねっていう時もあれば、また数字主義の時もあれば、みたいな。
いなけんは、2026年の日本で生きる以上、いきなりお金をゼロにして生きるのは難しいと認めます。幸せを満たすための最低額はあり、周囲との比較も気になってしまうからです。
一方で、金融資本の青天井を目指すことには美学はあっても、幸せとは別ベクトルのゲームだといなけんは言います。沖縄の離島でのんびり暮らす選択に踏み切れないのは、まだ勇気がいるからだと打ち明けました。
資本主義という制約を理解した上で、そのラットレースから抜けた幸せの価値を自分でどこに規定するか(が問われている)。
資本主義にどっぷり浸かれない自分と、その恩恵を受けている自分。資本主義という制約を理解した上で、幸せの価値をどこに規定するかという問いを残しつつ、2人は話を締めくくりました。
まとめ
瞑想の体験会レポートから始まったこの回は、意識をどこに向けるか、無意識に流されないためにどう「今」へ戻るか、そして「よく生きる」とは何かという問いへと広がっていきました。特別な技法よりも、日常の中で自分に問いかける小さな習慣が話の中心になっています。
- ヴィパッサナー瞑想の体験会では、爪や髪など身体の各部に順番に意識を向けるボディスキャンが行われた
- 意識は体の内か外かではなく、爪や眼鏡、車のように「自分の外」にも向けられるという気づきが語られた
- 小説を読むことは、文字から情景を頭に投影する能動的な作業であり、瞑想体験に近いという見方が出た
- 「今何をしていますか?」と自分に問うと今ここに戻れて、トイレにスマホを持っていかないなど無意識の行動を止められる
- 「よく生きる」をめぐり、数字で測る資本主義の軸と、そこから抜けた幸せの規定の間で揺れ続ける葛藤が話し合われた





