「論理的」は国によって意味が違う?
教育関連法シリーズの1話目では、日本の教育基本法がどう作られ、どう変わってきたかを扱いました。2話目では教科書検定などを入り口に、何を教えるかを誰が決めるのかを、ブラジルなど各国と比べています。
2話目の結論は、教える内容を決めるのは教科書のような「もの」よりも「人」に頼る部分が大きい、というものでした。決定権が誰にあるかは国ごとに少しずつ違う、という話です。
3話目では一歩進んで、教えた中身が人にどんな影響を与えるかを扱います。題材は、渡邉雅子 ── 名古屋大学大学院教育発達科学研究科の教授。教育学の立場から、各国の作文教育と思考スタイルの関係を研究していますさんが2023年に出した『「論理的思考」の文化的基盤 4つの思考表現スタイル』です。
ほんさんによると、この本は値段が高めの学術書で、読み始めるのにパワーがいるものの、その価値はあったそうです。本の結論をひとことで言うと、「論理的」という言葉は文化によって違うことを指しているというものです。
日本でいう論理的っていうのと、アメリカでいう論理的っていうのと意味違うよねっていう。
それは噛み合わないね。
渡邉さんは、大学受験くらいまでの母国語の作文教育と、歴史教育を手がかりに、この違いを分析しています。比べる国はアメリカ、フランス、イラン、日本の4か国です。
ほんさんは、イランはムスリム圏の代表という位置づけだろうと説明しています。友人からは「インドや中国が抜けているのでは」と指摘されたそうですが、ほんさんは研究としては全部を調べきるのは難しいと受け止めています。なーちゃんも、4か国だけで十分に違いが出ていると話します。
2つの軸でできる4つの思考スタイル
渡邉さんは、各国の教育を2つの軸で4つの象限に分けています。1つ目の軸は「教育の目的」で、もう1つは「知識の形態」です。
教育の目的の軸は、技術を身につけることを目指すか、人間形成や教養の獲得といった内面的な成長を目指すかの違いです。ほんさんは、技術目的なら結果重視に、価値目的ならどう考えたかというプロセス重視になると整理しています。
知識の形態の軸は、知識を体系的に組み立てるか、経験を積み上げていくかの違いです。数学や医学のように上から枝分かれするツリー構造の「〇〇学」が体系的知識で、その反対が積み上げ型の経験的知識です。
ほんさんは例として、経営学は体系立っているが「〇〇論」は学問とは言いがたい、といった違いを挙げています。なーちゃんは、ここで日本がどの象限に入るかを想像しながら聞いてほしいと呼びかけます。本の流れに沿って、日本は最後に登場します。
この図は、ここから順に紹介される4か国の位置を、話の中で語られた軸のとおりに並べたものです。
アメリカの「ファイブパラグラフ・エッセイ」とは
ほんさんが「一番わかりやすい」と言うのがアメリカです。アメリカの教育は技術目的・結果重視で、経験的知識、つまり実践的なプラクティカルさを重視する象限に入ります。渡邉さんはこれを「経済原理」と呼んでいます。
アメリカの作文教育を代表するのは、ファイブパラグラフ型のエッセイです。小学校から徹底して書かされる型で、次のような流れになっています。
序論
最初に結論を言う
本論
結論を支える根拠を3つ示す
結論
最後にもう一度結論を繰り返す
ほんさんは、この型はより早く、より効率的に結論にたどり着く「最短距離」の書き方だと話します。根拠が1つでは弱いので3つ挙げる、という発想です。
これが多分ビジネスの中でいうロジカルシンキングで一番ロジカルって呼ばれるやつですね。
ビジネス界でよく言われる「結論ファースト」や、ゴールから逆算するバックキャスト ── 目指す未来の姿を先に決め、そこから逆算して今やるべきことを考える思考法。未来予測から積み上げるフォアキャストと対になる言葉ですの考え方も、この型から生まれているとほんさんは見ています。結論に向かって、短く強い因果関係を示す訓練です。
なーちゃんは、「エッセイ」と聞くと日本語の随筆のようなイメージがあると話します。アメリカでいうエッセイはこの型の文章のことで、学年が上がるとクリエイティブライティングも入ってくるものの、まずはエッセイからだそうです。
大学受験でも、この形式で志望理由を書くことが求められます。ほんさんは、この形式に慣れていないと、日本人はたとえ頭が良くても入れないことがよくあると話しています。
フランスは「市民」を育てる熟慮の国
アメリカと真逆にあるのがフランスです。フランスは価値目的・プロセス重視で、体系的な知識を持つ象限に入り、渡邉さんはこれを「政治原理」と呼んでいます。
ほんさんによると、フランスの教育の目的は、共和制を担える市民をどう育てるかにあります。ここでいう市民は「〇〇市に住んでいる人」ではなく、なーちゃんの言葉を借りれば「崇高な概念」としての市民です。
(アメリカは)ビジネス界に行ける人たちをたくさん育ててるんですよ。
フランス人は市民を育ててるんです。
フランスで大事にされるのは熟慮です。一本道で結論にたどり着くのはダメで、いろいろな観点から抜け漏れなく考え尽くしたうえで結論に行くことが求められます。
その型が、ディセルタシオン ── フランスの中等教育やバカロレア(大学入学資格試験)で課される小論文の形式。問いを立て、対立する見方を検討して結論を導く構成が特徴ですと呼ばれる論文形式です。初等教育ではまず、テーゼを言うための定義をたくさん覚えるところから始まるそうです。
なーちゃんは「高度ですね」と驚きつつ、教養の獲得が目的ならこうなるのかと納得します。ほんさんは、結論を早く出すより熟慮のプロセスを身につけることが大事なのだと説明しています。
ここから、アメリカとフランスがすれ違う理由も見えてきます。フランス人はアメリカ人を「浅い」と感じ、アメリカ人はフランス人を「Aと言ったのに反対のことも言う、明晰でない」と感じやすい、とほんさんは話します。
結論が早すぎて浅く、考えが足りないように見える
反対の主張まで持ち出すので非効率で、クリアでないように見える
『エミリー、パリへ行く』は論理の衝突ドラマ
ほんさんは、アメリカとフランスの論理の対立がいちばんよく描かれている作品として、Netflixのドラマエミリー、パリへ行く ── 原題は『Emily in Paris』。シカゴのマーケターのエミリーがパリに赴任し、仕事や恋に奮闘するNetflixのコメディドラマですを挙げています。
アメリカナイズされた主人公のエミリーが、フランスでずっと対立し続けるコメディです。後半では両者が融和していきますが、序盤の奮闘ぶりは、ほんさんの目には完全に論理の対立に見えたそうです。
なんでこんな回りくどいこと言うの?みたいな。(それを)エミリーが体験するっていう。
ほんさんは、この本を読んだタイミングでちょうどこのドラマを見たため、「あ、それ」と腑に落ちたと話します。なーちゃんも「めっちゃ見たい」と興味を示していました。
ドラマはパリの風景が美しく、観光への経済効果も大きいそうです。舞台がローマに移ったときには、パリの市長がパリから出ないでほしいという趣旨のコメントを出していた、とほんさんは紹介しています。
ドラマも面白いし、この理論知ってからそっち見るともっと面白いって感じがする。
なーちゃんは、この組み合わせなら「花子アメリカに行く」のように何でも作れそうだと笑います。ほんさんも全部の組み合わせでいけると応じ、イラン版は撮影させてくれるかどうか、と話が弾みました。
イランの作文は神への感謝で終わる
3か国目のイランは、ほんさんによればムスリム圏の代表です。統治の仕組みが宗教で決まっている国で、教育は技術目的、かつコーランを重視する体系的知識の象限に入ります。
渡邉さんはこれを「法技術原理」と呼んでいます。ほんさんは、ここでいう「法」は法律というより、世界の法則や教典に近い意味だろうと解釈しています。世界の法則がすでに決まっていて、そこから文章を作るという論理です。
イランで習う作文は、エッセイやディセルタシオンに当たるもので、エンシャーエンシャーと呼ばれます。その構成は次のようなものです。
神への感謝。
そう、世界はこんな素晴らしい、こんな素晴らしい世界を作ったんだ、神様は。(っていう)感謝で終わる。
ほんさんは、文章の「雰囲気作り」は、中国の漢詩の表現力や、日本の俳句・和歌のリズム感にも近いものだと説明します。コーランは音律も含めて一字一句覚えるものなので、文面に論理が書かれているだけでは美しい文章とは言えない、という感覚があるそうです。
結論がすでに決まっているので、イランの作文は既知の真理に収斂していきます。真理をあらためて表現し、世界の美しさを示すための文章作りだと、ほんさんは見ています。
ほかの国との関係では、フランスからは「真理が決まりすぎて自由がない」と見え、イランからはフランスが「世界を勝手に創作している」と見えます。イランから見たアメリカは個人主義的で、アメリカから見たイランは教訓じみていて時代遅れに見える、とほんさんは整理しています。
日本の作文は「感想文」だった
最後に登場するのが日本です。日本は価値目的・プロセス重視で、体系よりも経験的知識を重んじる象限に入ります。ほんさんは、日本はもともとプロセス重視の国で、アメリカに合わせて結果重視になろうとして無理がきている、と話します。
経験的知識について、ほんさんは「八百万の神の国」だからと冗談まじりに説明します。なーちゃんも、すべてに神がいて階層がないと応じています。
そして日本の作文教育を代表するのが、感想文です。アメリカのエッセイ、フランスのディセルタシオン、イランのエンシャーと並んで、日本だけが感想文。2人ともこの並びに驚いています。
書いたよ書いた、読書感想文。イベントがあればその感想文。
何でも感想文。運動会の後の宿題が感想文。
読書感想文は毎年あり、博物館に行っても運動会のあとでも感想文。ほんさんは、大人になった今もアンケートの最後に感想を書かせていることに気づき、少し恐ろしくなったそうです。
ほんさんによると、他国の留学生は「感想文を書いて」と言われても書けないそうです。自己主張が少ないと言われる日本人ですが、実は自分の感想を文章にする教育をひたすら受けてきた、という見方です。
感想文にも決まった型があります。ほんさんが挙げた流れは次のとおりで、最後に学びを書かないと先生が丸をつけない、と話しています。
ほんさんは、日本人は常に「経験から学ぶ」ことを訓練されてきたとまとめます。なーちゃんも、ずっと経験から学べと言われてきたと振り返っていました。
国語で鍛えられる「心情を読み取る力」
日本の国語教育は、自分の感想を書くだけにとどまりません。ほんさんは、大学受験の国語でも、論説文・説明文・物語文を問わず「この人はどう思ったでしょう」と問われると指摘します。
ここのこの登場人物Aは何を考えた、何を感じたんでしょう。正解あるんかいって思いますよね、今。
自分の感想に加えて、「この人はこう思ったに違いない」という推論も長年訓練されている、とほんさんは話します。小学校6年、中学3年、高校3年の計12年、義務教育だけでも9年間です。
なーちゃんは、人だけでなく『ごんぎつね』のキツネや、カエルの本など、いろいろなものの心情まで推測させられると笑います。説明文でも「筆者は何を言いたいのでしょう」と問われ、読み取る対象はやはり心情です。
ほんさんの小学2年生の娘さんも、週1回の日記が始まったばかりです。先生のコメントには「いつ、どこで、誰と何をしたかを書いて、あなたがどう感じたかを書きましょう」とあったそうで、なーちゃんは即座に「テンプレ」と反応しました。
ほんさんは、アンケートを作るたびに「また感想を聞いている」と気づくようになったと話します。外から来たコーチングの文化も「何を感じたか深掘りしよう」と言いますが、日本人はもう十分に深掘りさせられてきたのでは、とも感じているそうです。
すごい個人の感情とか個人の思いとか成長を大事視する国ですよ、ここ。
なーちゃんは、こうした教育を受ければ、他人の目線が気になったり、調和を重んじたり、角が立たないようにしたりするのも当然だと応じます。
感想文の国は海外からどう見える?
感想文で育った日本人がアメリカ式のエッセイを書こうとすると、かなり無理をしなければなりません。ほんさんは、ビジネスの世界で多くの人が一度は苦労すると話します。
日本とアメリカの間では、日本からはアメリカが他者への配慮に欠けて見え、アメリカからは日本が「結局あなたの意見は何?ファクトは?目的は?」と疑問だらけに見えるそうです。
(感想文に)目的はないですよ。感想を提出するということですよ。
イランから見ると、日本の感想文は個人の視点の話しかしていないので個人主義に見えます。逆に日本からイランを見ると、ずいぶん大きなことを言っていると感じます。
フランスとの関係について、ほんさんは本からは読み取りきれなかったとしつつ、熟慮の国からすれば一人の感想を重く見すぎているように見えるのでは、と推測しています。
ほんさんは、「個人の感想です」という日本独特の注意書きも、感想文の感覚を共有しない人が入ってきて、伝わらなくなったから出てきた言葉かもしれない、と話します。
外国人にとって日本の国語の問題が難しいのは、言語の違いだけが理由ではありません。センター試験でも「どの感想が一番近いでしょう」と問われ、なーちゃんは「よく人の感情を五択にしたよね」と驚いています。
アメリカの歴史教育は因果関係の分析
作文に続く2つ目のテーマが歴史教育です。ほんさんによると、国ごとに歴史を見る時間軸がかなり違います。
アメリカの歴史教育は、植民地への入植から始まり、独立を経て今に至るまでが主軸です。日本から見ると短いスパンの歴史を、強く教えるイメージだとほんさんは話します。
アメリカの歴史教育でいちばん重視されるのは因果関係です。この大統領がこういう決断をしたから世界がこう変わった、という原因と結果を、歴史の中からひたすら分析していきます。
なーちゃんは、そうした教育なら尊敬する人に歴代大統領の名前が挙がりそうだと言い、個人が決断する力をつけていこうという方向になるね、と受け止めます。ほんさんも、歴代大統領のランキングがある国だと応じています。
ほんさんによると、授業では入植して町を作るゲームも使われるそうです。リソースの配分を間違えると消滅したり、偶然の出来事が起きたりする中で、自分の判断が何を引き起こすかを学びます。
だから歴史には原因と結果があるっていう世界観ですよね。もう完全なるロジカルシンキング。
なーちゃんは「いい国作ろう、じゃないね」と表現し、ほんさんは「いい国の作り方を徹底的に学ぶ」のだと言い直しています。ここでも効率、つまり経済原理です。
フランス革命を起点に学ぶ「一本道ではない」歴史
フランスの歴史教育は、フランス革命の前、革命から世界大戦まで、世界大戦後という3つほどの時間軸に分かれているそうです。市民を作るという発想がここで初めて生まれたので、フランス革命が起点になります。
学ぶ中心は、フランス革命における理念や思想の対立、社会全体の動き、変革のプロセスがどう構造化されるかです。革命のあとも王政復古があったように、フランスは一本道ではうまくいかないことを経験してきた国だと、ほんさんは話します。
Aという考えがあれば、必ず反Aが出てくる。行ったり来たりしながら統合して今があり、この先もまた反対が出てきて統合していくだろう、という歴史観です。ディセルタシオンの「テーゼ・アンチテーゼ・統合」と同じ構造だと、なーちゃんは気づきます。
もうそういうことね。(ディセルタシオンは)そっか、もう経験してきてんだな。
ほんさんは、フランスは今も100点ではないと思っているのだろうと話し、なーちゃんはその感覚が素敵だと応じます。また、フランスでは日本よりも、個人より集団や社会への貢献が重視されているようだとほんさんは付け加えています。
イランは王朝の興亡、日本は縄文からの「流れ」
イランの歴史教育は、ほんさんによればおそらく4か国で一番長いスパンで教えられています。王朝が建っては腐敗して崩れ、また新しい王朝が出てくるという、王朝興亡史の繰り返しを学ぶそうです。
不変の繰り返しっていうパターンがあるよね。歴史は繰り返すよねっていうことを教わると。
長いスパンで見れば歴史はずっと繰り返しており、世界は永遠に右肩上がりで発展するものではない、という歴史観です。ほんさんは、これも自然の法則としてのイスラムの教えの一部なのだろうと見ています。学び方は基本的に暗記で、大学受験でも一字一句正確に覚えているかが問われるそうです。
一方の日本の歴史教育は、因果関係ではなく「流れ」を読み解くものだとほんさんは言います。誰々が出てきて、ここと戦ったらこういう国になりました、とファクトを淡々と追っていく形です。
なーちゃんは、小学校でも中学校でも高校でも、必ず縄文時代から始まると指摘します。縄文の知識ばかり詳しくなって近代史までたどり着かない、と2人は笑い合いました。
本ではこうした日本の歴史観を縁起 ── 仏教の考え方で、すべてのものごとは互いに依存し合い、さまざまな条件が重なって生じるとする見方説と書いているそうです。すべてに相互依存があり、「こうなるよね」ではなく「こうなったね」と見る。偶然性も受け止めて、「面白いね」で終わります。
私すごい歴史の授業好きだったけど、癒しだったんでしょうね。求められないっていう。
ほんさんは、だから日本人には世界を変えるという感覚があまりないのかもしれない、と話します。なーちゃんも、自分から変えに行かないと同意しています。
| 国 | 時間軸 | 重視すること |
|---|---|---|
| アメリカ | 入植から現在までの短めのスパン | 個人の決断が生む因果関係 |
| フランス | フランス革命を起点とした3区分 | 思想の対立と統合のプロセス |
| イラン | おそらく最も長いスパン | 王朝興亡の繰り返しという法則 |
| 日本 | 毎回縄文時代から | 出来事の流れとファクト |
推論のスタイルと「OS」の違い
渡邉さんによれば、こうした教育によって推論のスタイルそのものが変わります。ほんさんは、各国がどんな推論をしそうかを次のように整理しています。
| 国 | 推論の仕方 |
|---|---|
| アメリカ | この結果には原因があるはず、これが起きればこうなるはず |
| フランス | 何かがあるなら反対の動きもどこかにあるはず |
| イラン | また繰り返しが起きる、このパターンね |
| 日本 | 何が起きるかわからない、いろんなことが起きたな |
なーちゃんは「日本はちょっと平和だな」とつぶやきます。ほんさんは、それを平和と感じるのは日本だけで、他の国からはもどかしく、イライラするように見えるかもしれないと応じています。
OSが違うって、それはOS全部違うわと思ったっていう。
相手に期待する論理性もずれます。アメリカは「まず結論を言え」、日本は「まず状況を教えて」、フランスは「あらゆる論点を洗い出して議論しよう」と求めますが、日本ではそれより場の調和が大事だとなりがちだ、とほんさんは話します。
感想文が育てた日本の「共感OS」
ほんさんによると、感想文は江戸時代にもあったらしく、明治時代にその教育方法が引き継がれ、戦後教育でも意思をもって残されたそうです。なーちゃんは「頑張って残したやつね」と驚いていました。
本には、日本の教育が目指すものとして共感や感受性が書かれていたそうです。ほんさんは、相手の気持ちを読み取り、調和していく人を育てる手法として、感想文はとても強力なのかもしれないと話します。
読み取ることが点数につながるので、テストがなくなっても読み取り続けます。ほんさんは、組織文化は評価で決まるので、評価されるところは伸びるのだと説明しています。
もうちょっと読み取って欲しかったな、自分が言ってることって会社の中で言ってることあるもんね。
もうちょい強めの文章でしたか?とかあるもんね。
ほんさんは、日本人がハイコンテキストと言われるのは文化の違いというより、このOSの差が大きいのではと考えています。日本人は外国人と話すときでさえ「今困っているかも」「こういうことが言いたいのかな」と勝手に読み取ってしまうからです。
うん、求められてないけどね。これがOSですから。OSがリアクション反応ですから、もう。
2人は、他の国の作文や歴史教育はどうなっているのかを次回見ていこう、と話してこの回を締めくくりました。
まとめ
この回では、渡邉雅子さんの本をもとに、作文と歴史の教え方が国ごとの「論理的」の意味を変えていることが語られました。日本の感想文と心情読解の教育は、読み取って調和する「共感のOS」を育ててきた、というのが2人の受け止めです。
- アメリカはファイブパラグラフ・エッセイで結論ファーストの効率的な論理を、フランスはディセルタシオンで熟慮と統合の論理を訓練する
- イランの作文は既知の真理に収斂し、神への感謝で終わる。歴史も王朝興亡の繰り返しとして学ぶ
- 日本は感想文と「登場人物の気持ち」を問う国語で、自分の感想と他人の心情を読み取る力を12年かけて鍛えている
- 歴史教育も、アメリカは因果、フランスは対立と統合、イランは繰り返し、日本は流れと、推論のスタイルを形づくっている
- 教育の中身を決めることは、どんな人を作るかを決めることでもある、とほんさんは話している





