人を撃ちやすくする「4つの距離」とは?
今回のゆる言語学ラジオのテーマは「戦争と言葉」です。水野さんは冒頭で、この問題を考えると、ひろゆきさんの「嘘を嘘だと見抜ける人でないと匿名掲示板を使うことは難しい」という発言が、ある点でおかしい理由も語れるようになると予告します。
(ひろゆきさんの発言は)ある点では問題だと思いますね。
話の土台は、前回扱った『戦争における「人殺し」の心理学』です。人には本来殺人への抵抗があり、8割ぐらいの兵士は銃を撃たなかったものの、ベトナム戦争で発砲率が急に上がったという内容でした。
水野さんによると、著者のグロスマンは、条件付け以外にも殺人への抵抗を減らす要素を挙げ、それを4つの「距離」に整理しています。
| 距離 | 内容 | 番組で出た例 |
|---|---|---|
| 文化的距離 | 人種や民族の違い | 民族の違いを強調する |
| 倫理的距離 | 復讐や制裁として自分が正しいと固く信じる | キングダムの城を守る場面 |
| 社会的距離 | 階層化された環境で特定の階級を人間以下と見なす | 「こいつらは人間じゃない」 |
| 機械的距離 | レーダーや暗視装置、画面が介在し相手が人間だと忘れる | 暗視装置で人が緑色にしか見えない |
倫理的距離について水野さんは、戦争は一般に地元が有利だと言われ、家や家族を守ることに倫理的な優越感が伴うからだという説を紹介しています。
機械的距離の話を受けて、堀元さんは自分の仕事に引きつけます。Zoom越しやメールのほうが、対面より値段交渉で強気に出られるというのです。
人間が目の前にいちゃうと、それ人間すぎるから、ちょっと悪いなこの値段言うの、みたいなのもあるんだけど、ZOOM越しだとさ、ちょっとあんま相手を人間だと思わなくて済むみたいなのがあって。
「相手を人間だと思わないのが商談で大事」とまで言い出した堀元さんに、水野さんは前回の話を聞いていたのかと突っ込みます。条件反射で人を操るのは良くないと言っていたのは堀元さん本人でした。
二枚舌外交にしないでください。
一方で水野さんは、重い話題として処刑の例も挙げます。ナチスなどが後頭部から銃弾を撃ち込んだり、死刑囚にフードをかぶせたりしたのは、顔や表情が見えると相手を人間だと感じてしまうからだと説明しました。誘拐の犠牲者はフードをかぶせられると殺される危険性が上がる、という研究も紹介されています。
ルワンダ虐殺で言葉が踏んだ3段階
ここから話は戦争と言葉の関わりへ移ります。水野さんが紹介したのは、1994年のルワンダ内戦で起きた大量虐殺を研究した言語哲学者の論文です。
ルワンダは1962年にベルギーから独立しました。それまで統治者側に立っていた少数派のツチから、多数派のフツに主導権が移り、フツ政権はツチを虐げる政策を取ります。その結果、30年後には軍人だけでなく一般市民までもが、かつての隣人だったツチの人々を大量に殺すようになったといいます。
論文の主張は、ここに言語が関わっており、虐殺は大きく3つの段階を踏んでいたというものです。
第1段階について水野さんは、日本なら関西人と関東人のようなものだと例えます。本質的な違いではなくても、40年間「まったく違う」と言い続ければ、本当に違うのかもと思えてきそうだというわけです。
言語のレベルでどんどんジェノサイドの心理的抵抗が減ってってるってことですね。
水野さんは、これが先ほどの文化的距離や社会的距離に関わっていると整理します。ポイントは「あの人はツチだ、だから殺そう」とは直接ならない点です。
あの人たちはゴキブリなのだと。そしてゴキブリは駆除すべきものだと。よってあの人たちは駆除しよう。
ゴキブリという比喩には、夜に活動して次々と繁殖する害虫と、夜間に暗躍してどこからでも湧く反政府ゲリラを重ねる理屈がありました。社会通念に沿った比喩だからこそ、殺そうという呼びかけのハードルが下がったと水野さんは説明します。
蛇の比喩も同じ構造です。フツの少年がツチの人の首を刈るショッキングな写真が出回った背景には、男の子が大人になる通過儀礼として蛇の首を切り落とす慣習があったといいます。
堀元さんは「そんな例えで人を殺せるのか」と感じつつも驚きます。水野さんは、これはエスカレートした果てだとしながら、関東大震災で外国人が井戸に毒を入れたというデマが広まったように、日本でも起きていることだと述べます。ルワンダでもラジオが虐殺を呼びかけたものの、直接「殺せ」と言うより、「ゴキブリを駆除しよう」のような一見カジュアルな言葉で呼びかけていたそうです。
「殺せ」と言わずに殺させる婉曲表現
婉曲表現の話を受けて、堀元さんはフランス革命直後の「街灯に吊るせ」というスローガンを思い出します。「殺せ」では強すぎて人が引いてしまうが、婉曲表現なら受け入れやすかったのではないかという見立てです。
水野さんはカルトの言葉も同じだと応じます。「ポアする」は、魂を浄化させるという一応ポジティブな意味として使われていました。
あいつを殺せとかって、はっきり言うのはすごい憚られるけれども、一個挟むと人はそういうことを簡単にできるようになっちゃう。
堀元さんは『プロパガンダ戦史』を読んだときの話を加えます。プロパガンダの本質は、みんなが自分を正義だと思える名付けをすることで、戦争に突入しようとする独裁者ほど「私たちは戦争などしたくない」と言い、判を押したように同じ論法になるといいます。
水野さんはさらに、ベトナム戦争で発砲率が上がったもう1つの理由として脱感作 ── 本来は刺激への過敏な反応を徐々に弱めていく心理学・医学の手法。ここでは、敵を人間と感じる感覚を鈍らせる訓練の意味で使われていますを挙げます。敵は自分とは異質で、人間ですらないと考えさせる手法です。戦争では「ジャップ」「鬼畜米英」のように、敵を蔑称で呼ぶことがよく見られると話しました。
言語行為論とは何か?発話は「世界への働きかけ」
水野さんによると、こうした現象は言語哲学の言語行為論 ── 言葉を発することそのものを、約束・命令・謝罪などの行為として分析する理論。オースティンが提唱し、弟子のサールらが発展させましたを学ぶのにぴったりな題材です。今回の裏テーマは「戦争で学ぶ言語行為論」だといいます。
言語行為論とは、人の発話を真か偽かで問うものとして扱うのではなく、世界への働きかけとして捉えるべきだという20世紀半ば頃の考え方です。水野さん自身も最初にテキストを読んだときは「働きかけてないけど」と思ったそうです。
言語行為論以前に主流だったのは、文は事態を記述しており、世界と対応しているかどうかで真か偽かを決められるという立場でした。水野さんはこれを論理実証主義 ── 20世紀前半に広まった哲学の立場。検証できる命題だけを意味あるものとし、真偽を問えない文は哲学の対象外とみなす傾向がありましたの人たちの考え方として紹介します。
これに対してオースティンは、真偽を問えない発話が日常にはたくさんあると指摘しました。「ファミレス行こう」という勧誘、「本当に悪いことをした、申し訳ない」という謝罪、選手宣誓などです。
選手宣誓は真か偽かと問われた堀元さんは、ここぞとばかりに「偽です」と断言します。サッカーではファウルを受けていないのに受けたふりをするから、スポーツマンシップにのっとっていないというのです。
オースティンの答えは、謝罪や宣誓や勧誘は、発話を通して謝る・誓う・誘うという行為をしているのだ、というものでした。だから「言語行為論」という名前がついています。
「世界への働きかけ」の意味を、水野さんは命名で説明します。「この船をエリザベス号と名付ける」と宣言しても、船には物理的に何も起きていません。しかし周りの人がそれを受け入れた瞬間、その船はエリザベス号になります。
現実世界への働きかけ。でも物理的な世界は何も変わっていない。ここがポイントですね。
堀元さんは、企業の謝罪会見やYouTuberの謝罪動画は確かに世界への働きかけだと納得し、フジテレビの長時間に及んだ謝罪会見を「働きかけすぎ」と茶化しました。
「今日暑くない?」はなぜすれ違うのか
水野さんは、言語行為論でコミュニケーションのすれ違いの多くが説明できると考えています。何かを要求したつもりなのに、相手が真か偽かで返してくるケースです。
典型例が「今日さ、暑くない?」です。言った側はクーラーをつけてほしいのに、「はい、確かに暑いです」と返されてしまいます。
我々みたいな理屈っぽい人間は十代後半ぐらいでそれにびっくりするよね。
堀元さんは痴話喧嘩も近いと話します。表に出てくる個別の不満に反論しても解決せず、「待ち合わせに10分遅れるなんてひどい」は、遅刻のひどさではなく「もっと私のことを考えてほしい」という働きかけだというわけです。
水野さんは、オースティンや発展させたサールがこれを言語行為論と呼ぶかはわからないとしつつ、発話の真偽の先にある意図を考えるという意味ではその通りだと答えます。文自体の意味は意味論、状況に応じた意図は語用論 ── 言葉が実際の場面でどう使われ、どんな意図を伝えるかを扱う言語学の分野。文字どおりの意味と話し手の意図のずれを分析しますが扱う領域だと補足しました。
ルワンダを言語行為論で見ると何が起きていたのか
話はルワンダ虐殺に戻ります。言語行為論的に見ると、「ツチはゴキブリだ」「蛇だ」と表現することで、ツチの人々は物理的には何も変わらないのに、人々の世界が実際に作り変えられたことになります。その結果、駆除すべきものという扱いになり、残虐な行為が起きたというのが水野さんの読み解きです。
つまり言語行為論に従えば、言葉は世界を写し取るのではなく、世界を作り変えるということになります。
和泉先生はこれを、ドラえもんの「そっくりクレヨン」に例えているそうです。普通のクレヨンは現実を描き写しますが、そっくりクレヨンは描いた絵のほうに現実を近づける道具です。
我々は喋りながら世界を作り変えてるのだということですね。
堀元さんは身近な例として、水野さんの顔に「チベットスナギツネ」というコメントがついて以来、そうにしか見えなくなったと話します。水野さんも、堀元さんを「ナス」と呼ぶ視聴者のせいで、堀元さんが紫の服を着る頻度を増やしたことを持ち出し、まさに世界が作り変えられていると返しました。
「嘘を嘘と見抜け」は何が問題なのか?
準備が整ったところで、水野さんは本題に入ります。オースティンの主張を掘り下げると、言葉は道具ではなく行為だということになります。
現実世界を写し取るもの。言葉は中立で、世界と対応しているかで真偽を考えればよい
発した時点で行為になる。言葉で言ったほうに世界を寄せ、作り変える
水野さんによれば、ひろゆきさんの「嘘を嘘であると見抜ける人でないと匿名掲示板を使うことは難しい」は、オースティン以前の世界観に立った主張です。嘘を見抜くとは、現実と対応しているかがわかるという話で、嘘を言った人はただ対応しないことを言っただけだ、という前提になっています。
オースティンが言ってるのは、嘘を言うことで世界は作り変わりますよと。
堀元さんは、今のTwitterには嘘を取り締まるコミュニティノート ── X(旧Twitter)の機能。利用者が投稿に補足情報や訂正を付け、評価の高いものが表示される仕組みですが実装されていると指摘し、SNSもオースティンの側に寄ってきていると話します。
水野さんは、和泉先生がヘイトスピーチや悪口を研究してきた理由もここにあると説明します。ヘイトスピーチは世界を作り変え、悪口は世界の序列を作り変える言語行為だからです。以前ゲストに来たときは関係なさそうだと思っていた堀元さんも、ようやく腑に落ちたと話し、「あの時に説明してくれれば」と水野さんにぼやきました。
「個人の感想です」は言い逃れになるのか
堀元さんは言語行為論の理屈を広告に当てはめます。青汁の「これを飲んでから毎日健康です」に「※個人の感想です」と添えるのはずるいのではないか、という疑問です。
これ飲んでから体が健康ですって言ってる時点で、この青汁には健康効果がありますっていう世界作ってるわけじゃん。
水野さんは、言語行為論にはこうした発話内行為 ── 発話によって同時に行われる行為のこと。約束・命名・謝罪・警告などがあり、オースティンはこれを分類しましたの分類があり、なまじ知っているせいでどれに当たるか考えて歯切れが悪くなると打ち明けます。堀元さんは「青汁という区分をオースティンが立てているはず」と茶化しました。
堀元さんは、ゆるコンピュータ科学ラジオでビットコイン関連の広告を扱った際、「個人的には絶対買ったほうがいいと思います」も推奨にあたるのでダメだと言われた経験も話します。意見の表明という言い訳が通らないのは、言語行為論っぽい話だというわけです。
この話を踏まえ、堀元さんは言論にはより一層責任があると感じたと言います。ただその直後に「選手宣誓は嘘です」とサッカー批判を再開し、ラグビーの脳震盪対策の話にまで脱線していきました。
言葉は道具でもあり、行為でもある
水野さんはここまでを振り返ります。文化的・社会的距離があれば殺人へのためらいは減り、暗視スコープや前回話したドローンのような機械も使えますが、もっと手軽なのが言葉です。
人間ではないというメタファーは戦争でよく見られ、SNSにもたくさんあります。特定の属性の人を人間扱いしない発言が炎上したときに「僕がそう思っただけ」と言うのは、それが世界への働きかけだという視点が欠けている、というのが水野さんの指摘です。
ただし水野さんは、言葉が道具ではないと言っているわけではないと注意します。すべて道具だという考え方がおかしいだけで、教科書や「あそこに猿がいる」のような発話は道具的な使用だといいます。
行為の時もあるし、道具の時もあるっていうことを一応注意しておきます。
堀元さんはこれを受け、しょこたんの「Switch2は友達からもらった」という発言を持ち出し、あれは世界を作り変えようとする働きかけだったのかもしれないと皮肉を交えて語りました。
メタファーはなぜ怖いのか?
水野さんが今回もう1つ気になったのは、メタファーの怖さです。悪とされるものに例える危険性に加えて、人は「AはBのようなもの」をすぐ「AはBである」と勘違いしがちだといいます。
比喩の導入
「○○はゴキブリのようなものだ」と例える
同一視
「○○はゴキブリだ」と受け取ってしまう
未検証の推論
対応しない部分まで当てはめ、「ゴキブリは駆除すべき、だから○○も」と飛躍する
まるまるはゴキブリだって例えた時に、当然そのゴキブリと対応してる部分と対応してない部分があるわけだけど、比喩を導入すると、検証しないまま論理が飛躍していくってことも起きて。
水野さんが「堀元さんはナスのようだ」と言えばナス科の植物になり光合成が必要になる、とふざけると、堀元さんは「葉緑体がないから」と否定します。笑いを交えつつ、例えの対応しない部分まで対応しているように感じる怖さが確認されました。
いつかメタファースペシャルをという話になりますが、水野さんは『メタフォリカル・マインド』や分厚い本を読まないと語れないと言い、堀元さんは「5年後かな」とあきれます。
水野さんを変えた「批判のnote」
勉強しすぎではと言われた水野さんは、今回もオースティンの『言語と行為』や語用論の入門書を読んだものの、詳しい人からの批判が怖いと打ち明けます。堀元さんは、ゆる言語学ラジオへの批判で水野さん自身が「作り替えられた」のではと指摘しました。
水野さんは、Quick Japanの特別号の取材で番組の歩みを振り返り、初期に番組の誤りを指摘したnoteの影響がやはり大きかったと話します。
全然正確じゃないことを言って、ウケる発言をして、アカデミズムからのチェックアンドバランスみたいなのが効かない状態で喋り続けてたら、多分俺インターネット芸人になってると思うな。
note の著者を心の中に飼うのは2年ほどきつかったものの、その経験で伸びた部分が大きく、研究者に理解してもらえるようになったといいます。堀元さんは「あの人が働きかけてくれてありがとう」とまとめ、言語行為論の話に着地させました。
最後は、本日発売のQuick Japan特別号「ゆる言語学ラジオ 完全攻略本」の告知と、撮影でフォトグラファーに水野さんがいじられていたエピソードで締めくくられます。
まとめ
今回は、殺人へのためらいを減らす「距離」から出発し、ルワンダ虐殺で言葉が果たした役割を言語行為論で読み解く回でした。言葉は世界を写すだけでなく作り変える行為でもあり、だからこそ「嘘は見抜く側の問題」とだけ考えるのは不十分だと語られています。
- グロスマンは殺人の抵抗を減らす要素を、文化的・倫理的・社会的・機械的という4つの距離に整理している
- ルワンダでは、民族の区別、侮蔑語、婉曲表現という3段階の言葉が虐殺への抵抗を下げたとする論文が紹介された
- オースティンの言語行為論は、発話を真偽ではなく、謝罪や命名のような世界への働きかけとして捉える
- 「嘘を嘘と見抜け」は言葉を中立的な道具とみなす見方に立っており、嘘を言うこと自体が世界を作り変えるという視点が欠けている
- 比喩は「AのようなもののB」を「AはB」にすり替え、検証のない論理の飛躍を招く危険がある



