「悟りを開くことはないでしょう」という言葉
紹介したいのは、トルコの仏教の指導者、お坊さんのような立場の方が書いた記事です。
この師匠は自分の弟子を持っていて、何十年も一緒に修行したり、指導したりしてきた方だそうです。
そのある日、弟子たちに向かってこう言うんですね。
「おそらくあなた方は悟りを開くことはないでしょう」
弟子の中には3年学んだ人も、5年学んだ人も、10年ついている人もいる。その前で言ったので、部屋が静まり返ったと書いてありました。
それはそうですよね。じゃあ何のために自分たちはやってきたんだ、と弟子は思うはずです。
でも、この先生が言いたいのは「悟りなんてない」ということではないんですね。
悟りという到達点だけを修行の価値にしてしまうと、その道を歩くこと自体が苦しくなってしまう。そこに釘を刺したかったんだと思います。
仏教ではなく「仏道」であること
考えてみれば、私たちは仏教とも言いますけど、「仏道」という言い方もします。道なんです。仏への道なんですよね。
道というからには、必ず過程、途中の間があるわけです。
登山で言えば、山頂だけが登山ではないですよね。
登り始めて、息が上がって休んで、景色を見て、振り返って、体が慣れてきて、また少しずつ登っていく。その繰り返しが登山であって、山頂に立たなければ登山ではない、なんてことはないわけです。登る過程に素晴らしい体験があるんです。
同じように、悟りだけが仏道なのではなくて、そこに向かって自分の心が少しずつ変わっていく、その過程そのものが仏道なんじゃないかと思うんですね。
記事の中に面白い表現がありました。目標に届かない人は、小さな子供のような焦れったさで問いを発するようになる、と。
その問いというのが「ねえ、まだ着かないの?」。私も先日子供を連れて旅行に出ましたけど、「いつになったら着くの?」は後ろの座席からずっと聞こえてきましたよ。
結果でしか自分を採点できなくなっている
私たちは、到達点に行ったかどうかばかり気になってしまいます。それを価値基準にしてしまいがちです。
これは修行に限った話ではありません。資格を取った、目標の売上に届いた、昇進した、ダイエットで何キロ減った。
結果をもって自分を採点することに慣れきってしまっている。そういう価値観に飼い慣らされている感じが、私自身にもあるなと思うんです。
だから修行しても、「何年やったら何が得られるのか」「これをやったらどうなれるのか」と聞いてくる人も多いんですね。
記事の先生は、長く修行している人が「一生懸命やってるのにうまくいきません。この道に向いてないかもしれません」と言いに来た時、こう聞き返すそうです。
「あなたが最初に道を踏み出した時、その生活の中であなたを悩ませていたことを覚えていますか」
怒りっぽかった、人の言葉にすぐ傷ついた、集中力がなかった、身近な人への振る舞いに満足できなかった。そういう悩みを抱えて仏教に触れる人は多いと思います。
「それは今どうなっていますか」とさらに聞くと、多くの人は「変わりました」と言うそうです。ただ、まだ行きたい到達点には達していない、と。
でも、その「変わりました」ということこそ、道を歩いた証拠なんじゃないかと思うんです。理想の場所に届いていないだけで、もう道の途中にいるわけですから。
道の途中の景色を、何で測るか
その先生は、返答のあとにこう加えて聞くそうです。「あなたはこの景色を楽しんでいますか」。
到達点にはいなくても、変わっていく自分の心のありよう、それによって変わってくる周りの様子を楽しんでいるか、ということですよね。
登山でいえば、風景を楽しむ、一緒に登る人との話を楽しむ、新しい発見を楽しむ。そういうことです。
では、道中のありようを何で測ればいいのか。記事ではここで「四無量心」を持ち出します。慈・悲・喜・捨、この4つの心ですね。
簡単に言うと、慈は他者の幸福を願う心。悲は他者の苦しみに共感する心。喜は他人の幸福を一緒に喜べる心。捨は偏りのない心です。
喜について、記事には「相手の成功は自分の失敗ではない」とありました。今の私たち、SNSを見ていて他人の成功を妬んだりしていないですかね。
記事に鋭いことが書いてあって、「捨がなければ、私たちの慈悲さえまだ自己関心で動いているかもしれない」と。
あなたの苦しみが私を痛ませる、だから自分の痛みから解放されるためにそれを終わらせたい。この論理だと、共感しているようで、内側には隠れた報酬が残っているわけです。
好き嫌いで動くのではなく、偏らない心を持って物事に接する。目覚めた心の慈悲は海のようなもので、存在たちの苦しみを溺れることなく運ぶ、と記事は書いていました。
自分に引き寄せた、なかなか厳しい物差し
この慈・悲・喜・捨がどう働いているか。自分に引き寄せて考えると、こういう測り方になります。
自分の周りの人たちは、私のそばで安心していられますか、ということですね。
以前より、自分の周りの人が自分のそばで心を安らかにいられるようになっているだろうか。そこに注目してみる。
これは坊さんの私にとって、改めて考えなきゃいけないことだなと思いました。
20年くらい坊さんをやってきて、お経がうまくなった、法話に慣れてきた、知識が増えた、そういうことはあるかもしれません。
でも、私に触れた人が心安らかになっているか。そちらのほうが、はるかに大事で、なかなか厳しい物差しだなと思うんです。
今ここで、この行いが私をどう変えるか
やっぱり、家庭の毎日の小さな実践の積み重ねに意味があるんですね。
記事はここで「業(カルマ)」の話をします。業というと、何かしたら何か報いが返ってくる、と理解されがちですよね。
でも仏教でいう業の入り口は「意図」、心の動きなんです。大事なのは、意図はその瞬間の自分を作っているということ。
怒りに任せて誰かを怒鳴れば、次はほんの少し怒鳴りやすくなる。嘘をつけば、次の嘘への抵抗が下がる。
逆も同じです。一度怒りをこらえて言葉を選ぶと、次もそうできるようになる。人の成功を素直に喜んでみると、次が少しやりやすい自分になっていく。
良い行いは良い行いを呼び、善意は次の善意を呼んでいくわけです。
だから問いの立て方なんですね。「この行いが後に自分に何をくれるか」ではなく、「この行いが今ここで私をどう変えるのか」。
お釈迦様は仏法を、初めが美しく、中ほどが美しく、終わりが美しいものだと説きました。
記事にはこんな例えがありました。深く借金を抱えてどうしていいかわからない時、賢く慈悲深い友人が現れて、抜け出す道があることを示してくれる。これが「初め」です。
まだ1円も返していないし、何の結果も出ていない。でも道が見えたことは、大きな始まりですよね。
言われた通りにやっていくと、みるみる借金が減っていく。これが「中ほど」。そして続けることで最後に借金が終わる。これが「終わり」です。
苦しみは、抜け出せない閉ざされた部屋ではなくて、そこから出る扉がある。まだ自由ではないけれど、自由があることは見た。そこか抜け出す方法を実践していくことで、その過程で自由になっていくことを実感する喜びがある。そしてついにそこから抜け出すことに成功し、完全に自由な状態を得る。
結果にコミットしすぎることは、私たちに大切なものを見失わせて、最終的な目的である結果さえも見失わせてしまうことになるかもしれません。
今何かに向かっているのであれば、向かっている途中の過程をあなたはどう過ごしていますか?
まとめ
日々の変化はとても小さくて、過程は時につまらないものです。でも目的地に届いていないからといって、やっていることに価値がないわけではありません。今日どんな一歩を歩いたか、そこを見ていきたいと思っています。
- 仏道は到達点だけでなく、心が少しずつ変わっていく過程そのものにある
- 結果で自分を採点する癖を離れ、周りの人が自分のそばで安心できているかを物差しにしてみる
- 問うべきは「後に何をくれるか」ではなく「今ここで私をどう変えるか」
- 車より自転車、自転車より歩き。速度より道そのものの景色を楽しんで生きていきたい

